五歩目

「(身体が、だるい……)」


 夜七時を迎えた頃。食堂で夕食を味わおうとしていた香は、自分の身に起きた不調に苦しんでいた。

 不調と言っても、気持ち悪さや苦しさなどは殆ど感じない。ただただ頭の働きが鈍く、考えが纏まらない状態だ。快感も不快もない酩酊感、というべきだろうか。勿論酒など飲んでいない。潜入捜査中なのだから、特別な事情がない限り口にするべきではないのだから。そもそもこの宗教施設で酒の提供はない。教義で禁止されている訳ではないが、体験修行中にわざわざ出されるようなものでもなかった。

 別段苦しみも何もないので平気といえばその通りなのだが、元気かどうかでいえば明らかに不調だ。そしてその不調は顔色にも出ていたらしい。


「大丈夫ですかー?」


 夕食を共にしていた美絵に、心配されてしまった。

 いや、顔に出ていなくても、箸の動きが止まっていれば誰でもそう思うか。やはり頭の働きが鈍いと今更思いながら、香はこくりと頷いた。


「……正直、あまり良くはないです。気分が悪いとかはないのですが」


「無理はしちゃ駄目ですよー? 毎日山登りをしていたら、身体だって疲れちゃいますからー」


「ええ、そうですね。無理だけはしないようにしませんと……」


 美絵の言葉に同意しつつ、香は心の中で首を傾げる。

 確かに体験修行三日目である今日も、前日と同じく山へと登り、そこで水を飲んだり水を浴びたりしている。午後は交友を深めるためのレクリエーションとして、体験修行の参加者同士でサッカーやドッジボールなど、軽めの運動を行った。これだけやれば、普通の人なら少なからず疲労感を覚えて当然だろう。

 しかし香は警察官。菓子パン一つで一晩中張り込みをする、証言を得るため市街地を朝から晩まで歩き回る、現場に向かうため車が通れないような険しい山道を連日進む……仕事として日々身体を動かしているので、体力についてはかなり自信があった。こんな、ちょっとした遊びで疲れ果てるなんておかしい。或いは山で飲んだ水に大量の細菌が、とも考えたがそれはあり得ない。この宗教団体、なんやかんや湧き水の衛生検査もしっかり行っていて、飲料水として問題なく使える事を証明しているのだから。

 潜入捜査という環境が、精神に多大な負荷でも与えたのか。確かに行方不明者多発の宗教団体に潜入というのは、気味の悪さでは人生最大級の出来事である。されど人質の救出や殺人犯との直接対峙に比べれば、まだまだ気持ち的に楽なものだと思うのだが……


「(まぁ、行水で身体が冷えた、というのが一番尤もらしい理由か)」


 色々な反証を考えたが、恐らくごく単純な理由だろう。香はそう思う事にした。

 むしろ、それよりも疑問なのは。


「そうそう、無理は駄目ですー。うちのダーリンみたいに、体調悪かったら休みませんとー」


 幸司もまた体調不良で寝込んでいる事か。

 無論、そこに何かの意図を感じ取るのは、最早陰謀論というものだ。数百人も共に暮らしていれば、一日に一人二人は体調を崩すものだろう。偶然に奇跡を感じ取るからこそ、人は悪い信仰に騙されるのだ。

 ただ、そうだと分かっていても親近感、或いは同情心というのは抱いてしまうものである。顔見知りならば尚更だ。


「……相良さんの体調、そんなに悪いのですか?」


「いえいえー。ダーリンは元気ですよー。ただちょっと起きたくないってだけでー」


「(十分重体じゃなかろうか、それは)」


 ツッコミを入れたくなった香だが、ふと、美絵の笑顔が引き攣っている事に気付いて止めた。第三者の前だから気丈に振る舞っているのだろう。恋人なりに心配しているのなら、部外者が口に出す事はない。

 自分が倒れたところで美絵が心配するかは分からないが、これ以上の心理的な負担を掛けたくはない。『仕事』への支障も思えば、忠告通り休むべきだろう。


「……わたしも、お味噌汁だけ飲んだら、今日は早く寝ようと思います」


「そうした方が良いですよー」


 夕食に出された味噌汁を飲み干し、香は食器をカウンターへと運ぶべく席を立つ。

 カウンターでは朝と同じく業者の中年女性達が居て、料理の提供や食器の片付けをしている。申し訳なく思いながら殆ど手を付けていない料理を戻すと、「体調でも悪いのかい?」と声を掛けられたので、そうですと答えた。

 片付けを終わらせ、香はぼんやりとしながら食堂を出る。とはいえこのままぼんやりと部屋まで歩く訳にはいかない。慣れた道なら兎も角、この施設に寝泊まりするようになってまだ三日目。多少なりと頭を働かさなければ自室には戻れそうにないのだから。


「(えっと、確かあっちの廊下を進んで……)」


 帰り道をしっかりと思い出し、あっちに進もうと歩き出す。出来るだけ歩みはしっかりしようと意識して、真っ直ぐ前を見ながら角を曲がった


「あら?」


「おっと」


 直後、現れた人とぶつかりそうになってしまう。

 警察官として培われた反射神経のお陰か、香はすぐに立ち止まれた――――が、向こうは立ち止まりきれなかったようで。ぽふんと香の胸に顔を埋めるようにぶつかった。のそのそと身を捩り、ゆっくりとその人は香から離れる。

 ぶつかってきた者は、湯崎だった。


「ああ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしていました」


「いえ、こちらこそ……もしかして、湯崎さんも体調が悪いのですか?」


「体調? いいえ、全く悪くありませんよ。むしろ好調なぐらい……ふふふ」


 上機嫌に笑う湯崎。

 見慣れている筈の笑顔なのに、何故か得体の知れないものを見ているような、不気味な印象を香は抱いてしまう。礼節として顔には出さないよう努めていたが、僅かに疎かになっていた足は半歩下がる。

 その下がった分の間合いを詰めるように、湯崎は顔を乗り出し、香に迫った。


「源川様はどうですか? 体調、崩されていませんか?」


「ぇ、あ……大丈夫、ではないです……少し、頭がぼんやりして……」


 湯崎に問われ、香は正直に答えてしまう。

 嘘を吐こうなんて思ってもいなかった。しかし今の言葉は、考えるよりも前に出ていたもの。潜入捜査中に話して良いかどうかという、考えすら過ぎらなかった。

 もしも、あなたの職業はと問われていたら、答えずにいられただろうか?

 その通りだ、と頭の中では言える。けれども心が肯定してくれない。ごくりと、香は息を飲んでしまう。

 そんな香の反応を、怯える子供のようだと感じたのだろうか。湯崎はくすくすと笑いながら、香から二歩、後退るように離れてくれた。


「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」


「い、いえ……その、頭が上手く働かなくて、つい……」


「気にしないでください。意地悪したのはこちらなのですから……お疲れのところ、引き留めてしまって申し訳ありません」


「だ、大丈夫です……わ、わたし、もう部屋に戻って寝ます。おやすみなさい」


 香は言うが早いか、早足でその場を後にしようとする。

 殆ど無我夢中だった。本当に、ただちょっと驚いただけの筈なのに、どうしてこの心臓は早鐘のように波打っているのか。


「あっ、そうだ。一つ言い忘れていましたが」


 乱れに乱れた心は、些末な一言でも飛び跳ねるぐらい驚く。元々頭が上手く働かないというのもあって、理性があまり機能していない香は怯えるように身を縮こまらせてしまう。

 されど湯崎は気にしてないとばかりに、ほんの短い言葉を発した。


「あなたのそれ、体調不良じゃありませんよ――――神様が、あなたの事を見付けてくれた証です。では、おやすみなさい」


 ただそれだけを告げて、湯崎はこの場を後にする。

 一瞬、香は息が止まる。

 次いで逃げるように、香は走り出した。

 湯崎の言葉は宗教家としてのものだ。自分には関係ない。神様が見ているなんて、そんなのは妄言だ。

 そう心から思っているのに、どうしてこんなに冷や汗が流れる?


「(気の所為……こんなのは、気の所為……!)」


 香は息を切らすほどの速さで走り、自分の部屋のドアを蹴破るような勢いで開ける。

 バタンッ! と激しくドアを閉めると、慌ただしく鍵を掛け、それから着替える事も忘れてベッドに跳び込んだ。布団を頭から被り、枕に顔を埋める。

 そのまま目を瞑り、眠りに付こうとした。

 一刻も早く、明日には体調を取り戻して、掛けられた言葉を否定するために――――

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