四歩目
真っ黒な世界が、何処までも広がっている。
果ては見えない。いや、そもそも果てなどあるのだろうか。足下には地面なんてないし、天井だって見付からない。されど浮遊感も感じず、さながら歩くように、自由にこの場を動き回れる。
そんな感覚を覚えたと理性的に知覚した時、香は、自分が夢を見ているのだと自覚した。
「なんだっけ、明晰夢って言うんだっけ?」
考えた事がそのまま口から出てくる。話すつもりなどなかったのに、とも思ったが、しかし夢というのは頭の中の出来事。頭の中で思ったのだから、独りごちてしまうのも仕方ないだろう。
「仕方ない仕方ない。まぁ、夢なら楽しんだ者勝ちよね。明晰夢って自分で夢の内容を変えられるらしいし」
警察官という立場上あまり表には出さないようにしているが、香にだって人並みの欲望はある。彼氏だって欲しいし、海外旅行もしてみたいし、テレビでやってた高級料理も食べてみたいのだ。
なので試しに、そうしたものよ現れろ、と念じてみたが……何も出てこない。暗い世界は相変わらず広がり続け、自分以外の物体が現れる事はなかった。
「ちぇー。つまんない」
普段の真面目で凜とした言動とは似ても似付かない、子供っぽい言い方で愚痴ってしまう。やはり夢の中だなと思いながら、世界を泳いでみる事にした。
刹那、香は何かを感じた。
何を感じたのかは、香にもよく分からない。しかしこれまでの警察官としての経験から言うなら、視線だろうか。
物陰からこそこそと様子を窺う犯罪者。成程これはそいつを捕まえるという夢のようだ。夢でも犯罪者の逮捕を願うとは、自分はどうやら根っからの警察官らしい。
警察官という仕事に誇りを持つ香にとっては、夢の中でも悪い奴を追い駆けるのは望むところ。さぁ一体何処から私を見ているんだと、世界の中でぐるぐる回りながらくまなく見渡し……真横なのか真上なのか真下なのか、最早どっちだったかも分からぬ方角から視線が来ていると察知する。
その方角も真っ暗闇で、何一つ見えやしないが……
「ん?」
そう思った矢先、香は違和感を覚える。
真っ暗な世界の中に一つ、白いものがあるのだ。
距離が離れている所為で点のようにしか見えないが、しかし真っ暗な世界に置いては非常に強い存在感を放つ。明瞭な姿は見えないが、分からないなら近付いてみれば良い。
無論普段の香ならば不用心に怪しい人物に近付く事などしないし、取り逃がさないようそれなりの作戦を立てる。が、これは夢だ。逃げられても悔しいだけで済む。なので恐れず迷わず躊躇わず、香は真っ直ぐその白いものへと接近。
「……あら?」
強い違和感を覚えたのは、その道中の事だ。
白い点は近付くほど、大きく見えるようになったが……どうにも輪郭が人と異なるように思える。
確かに此処は夢なのだから、現れるモノが人間とは限らない。もしかしたらホッキョクグマかも知れないし、典型的なお化けかも知れない。
そう、何が現れてもおかしくないのだが――――何故だろうか。見ていると妙な胸騒ぎを感じてしまう。本能が何かを叫んでいるような、ざわざわとした『五月蝿さ』が胸の中で木霊していた。
逃げた方が良いのでは。
一瞬そんな考えが脳裏を過ぎるも、しかしこれは夢だと思っていた香はそうしない。むしろアレはなんだろうと興味を抱く。
香はじっと暗闇の奥を見つめてみる。流石は夢の中、意識を集中させれば、たったそれだけで白い点がどんどんと拡大されていき
大きな目玉が、こちらを見つめていると分かった。
「っ!」
その事に気付いて息を飲んだ時――――香の目の前に景色が映る。
ただし、真っ白な天井という現実味のある光景が。目玉なんて何処にもない。
身体を起こすと、掛かっていた布団がぱさりと音を立ててベッドから落ちる。辺りを見渡せば、真っ白な壁やタンス、何事もないかのように時を刻む時計が確認出来た。
見慣れたもの、という訳ではないが知っている景色。此処は山水神会の体験修行参加者が宿泊する施設の一室だ。
自分は目を覚ましたのだと、香はようやく自覚した。
「……………はぁ……はぁ……!」
状況を理解すると、途端に息が乱れる。心臓もバクバクと鼓動しており、冷や汗まで流れていた。
まるで化け物に追われていたかのような、身体の反応。香は思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。確かにビックリしたが、ただ夢の中で不気味な目玉と目が合っただけではないか。こんなに慌てる必要なんてないのに。
落ち着いて、その目を思い出してみる。目玉だけがぽつんと存在するイメージはなんともグロテスクであったが、落ち着いてみればなんて事はない。大体仕事柄『無惨な死体』は少なからず見慣れている。目玉が一個虚空を漂っているより、ぶくぶくと膨らんだ水死体の方が遥かにキツい見た目だ。夢で見たのなんて、全然大したものじゃない。
「ふぅ……」
小さなため息を一つ。それだけで香は胸の中にあった恐怖心を追い出せる。
「(……恐怖?)」
怖がっていたのか? 何人もの死体を見てきた自分が、あんな目玉一つに?
気付いてしまった自分の感情。それが却って得体の知れない、新たな不安を呼び起こす。
あの目玉はただの夢。ただの夢なのにどうしてこんなに怖がる? それともまさか夢ではないとでも言うのか。
なら、あの目玉は――――
「……食堂に、行こう。もう、時間だし」
ふと目に入った時計が、七時過ぎを示していた。何時もならもっと早くに起きているのに、遅くなってしまったのは慣れない環境だからか――――今まで考えていた事全てを忘れるように、別の話題を強く考える。
ベッドから下り、香はタンスへと向かう。寝間着から修行衣装……真っ白な装束へと着替え、洗面台で顔を洗ってから、香は部屋を出た。
朝食の時間は七時~八時。その間なら自由に出向いて良いが、あまりに遅いとその後の修行に響く。大半の人間が七時過ぎぐらいに出向くからか、食堂へと続く廊下にはたくさんの人の姿があった。
皆随分と元気そうなのは、眠りの質が良かったからか。別段他人の健康状態に嫉妬なんてしないが、自分一人だけが寝苦しかったと思うと、少なからず疎外感を覚えてしまう。
「うぅん……」
「ダーリン、大丈夫ー?」
そんな精神状態故か、少し元気がなさそうな声が何時も以上によく聞こえた。
振り返れば、そこには幸司と美絵の姿がある。幸司はやや俯き気味で、美絵が心配した様子で寄り添っていた。相変わらずいちゃついている二人だが、幸司の不調さに嘘は感じられない。
「……おはようございます。どうかされましたか?」
「んぁ? ああ、お姉さん。おはよっす。いや、ちょっと目覚めが悪かっただけっすよ」
香が声を掛けると、幸司は慌ただしく背筋を伸ばす。わざとらしく胸を張る姿が、香の感じた印象が正しい事を強調していた。
とはいえ無理にでも訊き出したい訳でもないし、そこまでする価値があるとも思えない。何より一言尋ねて答えなかったのだから、それを何度も問い詰めるというのは些か失礼であろう。
「そうでしたか。わたしも、今日は夢見が悪くて」
精々自分もそうだったと、話を膨らませる程度だ。
「あ、そうなんすか? やっぱ枕が合わないんすかねぇ」
「私はよく眠れたよー」
「健康的な食事と、山登りという運動をしているのですから、よく眠れるのが普通な筈なのですけどね」
「そっすよねぇ。でも自分、どうにも此処に来てから……」
「来てから?」
「……いや、なんでもないっす。それより早く朝飯食いましょ」
幸司はそれだけ言うと、そそくさと早歩き。美絵は小走りでその後を追う。
残された香は何か違和感を覚えるものの、確たる疑念もなく。
「……わたしも、早く食べよう」
尋ねたかった言葉を飲み込んで、目の前までやってきた食堂に足を踏み入れるのだった。
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