三歩目

 朝食を終えて一時間ほど休んだ後、香は施設の外へと案内された。

 体験修行を受けている数百人の一般人が、ずらりと屋外の広間に並ぶ。行列の傍には何十人もの信者が居て、人々を整列させたり、質問に答えたりしていた。香も湯崎に案内され、彼女と共に列へと並ぶ。前の人との間隔はかなり開けて良いらしく、一メートルほど距離を取る。

 そうしていると、すっかり香と親しくなったつもりなのか、幸司と美絵も近くにやってきた。ちなみに二人の距離はほぼゼロである。

 並んでいる間はお喋り禁止、という訳でもないらしく、周りからはざわざわと話し声がしていた。幸司と美絵も二人だけの世界を満喫中。香は口を噤んで、静かに時間が経つのを待つ。

 しばらくして、一人の男性が並んでいる香達の前に現れる。

 男性は、人々の行列の前に置かれた高い台の上に立った。お陰で列の真ん中辺りに居る香にも、現れた男の顔がハッキリと見える。五十代ぐらいで、如何にも人が良さそうな笑顔を浮かべた人物……香はその顔に見覚えがあった。

 大宝寺だいほうじ明人あきひと。香が潜入捜査をしているこの教団、山水神会の設立者にして教祖だ。


「皆様、本日もお集まりいただき、誠にありがとうございます」


 明人の話は、体験修行の参加者達への感謝から始まる。全員を見渡すように一望し、にこにこと満足げに微笑んだ。


「私達の信仰は、この山におわすディーダラヴォルを崇める事。そしてディーダラヴォルから力を貰うため、溢れ出す力の象徴である山の水を飲み、浴びる事こそが修行です」


 明人はつらつらと、ディーダラヴォルがどのような神であるか、修行の本質とは何かについて語り始める。大半の体験修業参加者は退屈そうにしているが、中には感化されたのか、光悦とした表情を浮かべながら聞き入っている者までいた。

 香は光悦としている者、退屈そうにしている者の顔を記憶しながら、明人についての記憶を辿る。

 新興宗教の教祖、と言えば、自分自身は清貧と無縁で、欲望の限りを尽くしているようなイメージが世間にはあるだろう。

 されどこの明人に関して言えば、私腹を肥やしている気配もなければ、性的暴行のような犯罪を行っている様子もない。信者が企てた詐欺にも荷担していないし、布教も常識的な範疇でしか行っていない。表向きだけでなく、警察が調べた限りでも、絵に描いたように理想的な『教祖』だ。

 果たして彼は本当に潔白であり、行方不明事件には関与していないのか。それとも警察でも暴けなかった、裏の顔があるのか……


「おっと、長々と話をしていては皆様退屈でしょう。妻にもあんたは話が長いと、よく叱られているもので……さぁ、修行を始めましょう!」


 考え込んでいる間に、明人の話は終わる。信者達が「こちらでーす!」と元気に声を張り上げ、体験修行を受けている者達に進行ルートを示した。香は列の動きを追うようにして、自らも修行へと向かう。

 先程明人が話していたように、山水神会の信仰は山の神であるディーダラヴォルであり、修行はその神の力をもらうためのもの。そしてこのためには、山の湧き水が必要である。

 そうした教義から、信者達は山に登らされる。とはいえ毎日やる必要はなく、出来れば一月に一度、忙しければ半年に一度で良いとの事。なんとも緩い教義だが、しかしその緩さが新興宗教への警戒心を薄れさせ、信者の大量獲得に結び付いている。中には登山クラブに所属していると勘違いしていた老人もいる始末だ。無論体験修行では「じゃあ半年後に」なんて話にはならず、全員山を登らされるが。

 香としても、そうでなくては困る。その山こそが、行方不明者の行方を示す何かがあるかも知れない、最も可能性の高い場所なのだから。

 故に香は気を引き締めていたのだが……


「……此処が」


 それでも、思わず独りごちてしまう。

 目の前に迫った、修行場である山。

 ぐねぐねと曲がりくねった枝葉、一本として同じ種類がないのではないかと思うほど多様な樹木、一箇所を除いて鬱蒼と茂る蔓……此処には人の手が入っておらず、古来から大自然がその営みを続けてきたと、見ただけで理解出来る森に山は覆われていた。

 実際、この森は原生林だ。伐採や不法投棄は法により禁じられており、それはこの森の『所有者』である山水神会も守らねばならない事。尤も、信仰対象である山の森を切り開くような真似はしないだろうが。

 木々が大きく育っている影響か、森の中はかなり薄暗い。非科学的なのは香も分かっているが、その暗闇の中には何か、恐ろしいものが潜んでいるような気がしてくる。

 胸の中で沸き立つ恐怖、或いは不安と呼ぶべきか。首を振って香はこれを振り払い、他の信者と共についに山へと足を踏み入れた。

 ざくざく、ざくざく。落ち葉を踏み締めて、何百という人が二列に並んで山を進む。最初こそ彼等の足取りは軽かったが、斜面が目に見えて傾いてくると、どんどん歩みは遅くなった。


「(意外と、険しい山ね……)」


 警察という職業柄、聞き込みなどで香はよく歩いているため、足腰の強さには自信がある。『山登り』自体はそこまでやっていないので山道には不慣れであるが、それを差し引いてもすぐに疲れを覚えた辺り、相当な険しさの筈だ。


「あぁーん、疲れたぁー」


「昨日も登ったけど、きっちぃなぁ。ほら、俺の腕に掴まってろ」


「うんっ。ありがとう、ダーリン!」


 ……後ろのカップルみたいな痴態は晒ししたくないので、背筋は曲げずにしっかりと伸ばした。

 それに山を登る時は、背筋を伸ばした姿勢でいる方が疲れ難い。歩幅は小さく一定に、足の裏全体で踏み締めるように。こうすれば少しは歩くのが楽になる。

 僅かながら余裕を取り戻した香は、辺りを軽く見渡す。とはいえ中々『怪しいもの』は見付からない。何しろ森の木々の並びも、地面の起伏も、生えている小さな草花も、何もかも規則性がないのだ。違和感というのは規則の中に生じるもの。無秩序の極みである原生林に、おかしな場所なんて何処にもない。

 無論、それで諦めるつもりは毛頭ない。香は更に注意深く、意識を集中させて周囲を観察。そして時間にして三十分ほど歩いた頃だろうか――――


「皆さーん、目的地に到着しましたよー」


 信者の一人が、体験修業参加者達に大きな声で呼び掛けた。

 驚くように僅かながら身体を震わせ、しかしすぐに香は声がした方へと振り向く。歩いて三十分。随分近いなと考えながら、更に歩く。

 やがて見えてきたのは、直径五~六メートルほどの小さな池だった。

 池の水は非常によく清んでいて、遠くの場所の底もよく見える。深さは一メートル近くあるだろうか。池の周りには大きな岩場があり、岸辺の半分ほど囲っていた。岩場の高さはざっと五メートルはあるだろうか。岩に囲まれていない場所の一部に小さな凹みがあり、池の水はそこから流れ、小さな川となっている。

 岩場はたくさんの大岩が重なり合って出来たものであるが、人が通れるような隙間はない。通れるのは、あちこちからちょろちょろと染み出している水ぐらいなものだろう。水気が多いからか岩にはびっしりと苔が生え、濃い緑色に染め上げている。隙間からは草だけでなく細い木が生えていて、大きく伸びた根ががっちりと岩を抱えていた。

 一体どれほどの月日を経て出来た場所なのか。大自然の示すスケールの大きさに、香は圧倒されたように一歩後退る。山水神会の信仰に賛同する訳ではないが、この雄大な自然の風景を崇めたくなる気持ちは分からなくもなかった。


「それでは体験修行の皆様は、この水を一杯口に含み、よく味わって飲んでください」


 しばらくして、信者が次の指示を出してきた。香はそこで自分が目の前の光景に見惚れていた……つまりは仕事を一瞬失念していたと気付く。

 感化されてはならない。自分の役目はあくまでも真実を見極める事であり、そのための証拠集めだ。

 仕事を思い出した香は、再び動き出した列に合わせて進み、池の前に辿り着く。飲んでくださいと言われたので、その通りに池の水を口に含む。

 ……施設で飲んだ水道水湧き水もそうだったが、ちょっとしょっぱい気がする。


「うへ……やっぱこの水しょっぺぇなぁ」


 そんな味覚は、すぐ隣に居る幸司も感じたらしい。やはりしょっぱいのかと、香は自分の感じたものに確信を抱く。


「んー? そうかなぁ。何も感じないよー?」


 尤もその自信は、美絵の一言で呆気なく揺らぐのだが。


「いや、絶対しょっぱいって。えーっと、源川さんも感じるっしょ?」


「えっ。ええ、まぁ、わたしはなんとなくしょっぱいかなぁ、ぐらいですが……」


「ほらな?」


「えぇー。そーかなぁー?」


 どうしても香と幸司の言い分に納得出来ないようで、美絵はまた水を掬って飲む。もう一度飲んでもやはり納得は出来ないようで、首を傾げた。

 そんな美絵の疑問に答えたのは、信者である湯崎。


「この地の湧き水は、ミネラル分が豊富ですからね。味覚に敏感な方は、そのミネラル分をしょっぱいと感じるのかも知れません」


「えぇー? 私の味覚って鈍いのー?」


「お二人の味覚が鋭い、という方が正しいでしょう。私も昔は味など感じませんでしたから。修行僧として日々質素で味付けの薄いものを食べてきたからか、最近になってこのしょっぱさが分かるようになりましたけどね」


「へぇー、そうなんだー」


 果たしてどれだけ理解したのか。色々と怪しく感じる美絵の返事だったが、湯崎はにこにこと微笑んだまま。いずれ分かると、その優しい視線が語っていた。

 湯崎の説明は美絵に対して行われたものだが、感じた味に疑問を持っていた香にも答えとなる。成程、ミネラルが多いからしょっぱいのかと。ただし海水のように莫大な量の塩分がある訳ではないので、一部の人にしか感じられないというのは、説得力がある。少なくとも、それが神の力だと言われるよりは何万倍も。

 ただ、二つの新たな疑問が浮かんだが。


「(わたし、そんなに味覚が良い方じゃないんだけど……)」


 むしろ同僚や友人からは「味オンチ」と言われるぐらい、香は食べ物の味に無頓着だ。悪臭がするという料理を一人で平らげたり、調味料の量を間違えたという品も問題なく食べたり、自分が作った料理は友達から「お前は何事も加減を知らない」と酷評される始末。何を食べても平気なだけで、味そのものには敏感だったのだろうか?

 そしてもう一つの疑問。

 このミネラル分は、何処から来ている?


「(まさか、死体から出たミネラルが池に蓄積して……)」


 脳裏を過ぎった考え。しかしその考えはすぐに脇へと押しやられた。例えば人体に含まれている塩分量は、一般的な成人男性で約二百グラム。そしてこの池は面積から概算するに、推定四~五トンの水を湛えている。全て溶かしたところで塩分濃度は僅か〇・〇〇〇〇五パーセント未満。とりあえず二千倍にしてようやく〇・一パーセントだ。果たして味として感じられるかどうか。

 大体池の水は小さいながらも川として流れ出ており、常に新しい水と入れ替わっている。源泉付近に死体があったところで、塩気を感じるほどの濃度にはならないだろう。真実を求める余り、陰謀論染みた発想になってしまった。


「(岩塩の鉱脈がある、とかかしら)」


 一番可能性がありそうな事例は、天然の岩塩がある事だろう。これなら岩塩の量次第では味として感じられるだけ塩味が含まれても不思議はないし、常にしょっぱい理由付けになる。

 ……理由から逆算した理屈は、何か、騙されているような気がしてならないが。


「皆様、水は飲みましたね? では、池の水に浸かってください。ディーダラヴォルから力を得るための祝詞を読み上げます」


 納得のいく答えはついに得られないまま、修行は次のステージへ。怪しまれないようこれもやらなければと、考えた事を頭の隅へと寄せながら、香は信者の指示に従う。

 一人一人池の水に浸かり、防水加工された紙を渡され、読み上げていく。ディーダラヴォルに伝える祝詞とやらだ。

 何語かも分からない言葉を言わされるのは、中学時代の黒歴史を掘り起こされるようで恥ずかしいのか。体験修行の参加者達の祝詞を笑いながら、或いはひっくり返った声で、はたまた途中で止まったり。満足に言えたものは少ないが、信者達はそれを怒る事もなく見守る。

 やがて香の順番がやってきた。渡された紙に書かれていたのは、ひらがなで書き連ねられた長い文章。ひらがなだけの文書を読むというのは中々大変であるし、何語かも不明な言葉なので意味が分からない。非常に読みにくい祝詞だ。

 だけど、何故だろうか。

 香にはその言葉がすっと頭に入り――――つらつらと、読めてしまう。


「ディーダラヴォル ディーダラヴォル はばくごどらにあごしざにざぃ ねむびおすますにうがらぬだらば わらみおさばね おんみぞびどびにがりめしおう」


 香の凜とした、大きな声が森に響く。

 帰ってきた山彦が、まるで巨人からの返信のように感じられた。

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