二歩目

 体験修行のための施設に泊まり、早くも二日目。朝七時を迎えた頃の事。


「おはようございます、源川様。体調はどうでしょうか?」


 先日部屋まで案内してくれた、生気の薄い女が部屋に訪れていた。

 女と同じ着物のような白装束へと着替えていた香は、僅かに沈黙した後、ぺこりと頭を下げる。


「おはようございます、湯崎さん。体調は万全です」


「あら、私の名前を覚えてくださったのですね。嬉しいです」


「人の顔と名前を覚えるのは得意な方なので」


 職業柄、という言葉を抜いて、本当の事を話す。とはいえこの女――――湯崎は、うっかりすると香でも忘れてしまいそうなのだが。

 生気が薄いと称したが、別段やつれている訳でも、目許に隈があるという訳でもない。何故かは分からないが妙に存在感が薄く、ふとした事で消えてしまいそうな印象を受けるのである。

 恐らく、兎にも角にも地味なのが理由だろう。美しいというほど綺麗でなく、醜いというほど不細工でもない。長く伸びた黒髪は美しいが、逆に言えばそれぐらいしか目立つものがないのである。正しく、何処にでもいそうな女性だ。


「そうなのですね……さて、そろそろ朝食の時間です。事前にご説明した通り、朝食は七時から八時の間と決まっています。体調などが悪く、起きてすぐには食べられないという事であれば多少ずらせますが、九時からは修行のため昼まで食事をお出し出来ません」


「はい。注意します」


「よろしくお願いします……それではそろそろ食堂に向かいましょう。あ、そうそう。お食事の時間は七時からと言いましたが、食堂が開くのは三十分ほど前ですので、早めに向かっても大丈夫です。明日からはお好きなタイミングで来てください」


 湯崎はそう説明しながら歩き始め、部屋を出る。香も後を追い、部屋を出た。

 部屋の外にある長い廊下には、白装束を纏った男女数名の姿がある。彼等もまた体験修業の参加者だろう。食堂に向かうのか、湯崎が進むのと同じ方へと歩いていた。

 やがて香達が辿り着いたのは、とても広い部屋。

 此処が目的地である食堂だ。学校の体育館ぐらいあるのではないか? そう思えるほど広大な室内には、この広さが過剰とは思えないほどたくさんの人が居た。ざっと見た限りで推定三百人。強面の若い男、朗らかな笑みを浮かべた老女、明らかなカップルまで様々な人が見られる。


「(行方不明者多発の教団に、こんなに人が集まるなんて)」


 テレビのニュースどころかネットでも話題なのに、これぞ正しく世も末だ―――― 一瞬そう思う香だったが、しかしこれも警察が逮捕に足る証拠を得られなかった影響だと気付く。警察が必死に捜査をして、それでも証拠が見付からないという事は、つまり『白』。この新興宗教は安全だと、警察自らがお墨付きを与えてしまったのだ。

 無論山水神会が潔白であるなら、そのお墨付きはなんら間違っていない。何より疑わしきは罰しないのが現行の日本の法だ。証拠を掴まない限り、自分達警察にこの場に集まった人々を糾弾するどころか、警告する権利さえもないのである。


「あら、どうされましたか?」


 それでも悔しさは滲んでいたのか、湯崎に声を掛けられてしまう。

 これはいけない。潜入捜査で最もやってはいけないのが関係者に警戒心を持たれる事。あくまで今の香は一般の体験修行者であり、決して警察官ではないのだ。


「……実のところ、少し人混みが苦手でして」


「ああ、成程。確かにこの部屋の混み方は、慣れていない方には辛いかも知れませんね。私も最初の頃は、少し居心地悪く感じたものです」


 咄嗟に考えた答えを返せば、湯崎は嬉しそうに話を膨らませる。親近感を持って気持ちが緩んだのか、それとも信者候補の心を開かせるための話術か。いずれにせよ誤魔化せたのなら、香にとっては好都合だ。


「あちらで食事を受け取れますので、行きましょう」


 少し上機嫌そうな湯崎の案内の下、食堂の奥にあるカウンターへと向かう。

 カウンターでは割烹着を着た中年女性達が、並んでいる人達に次々とお盆に載った料理を渡していた。湯崎に聞いてみたところ、割烹着姿の彼女達は信者ではなく、業者から派遣された人達との事。メニューは予め決まったものが出されるが、アレルギーやどうしても無理なものを事前に申告しておけば別枠の料理を出してもらえるという。

 香にもお盆に載せられた朝食が渡された。今朝は焼き鮭と玄米ご飯、けんちん汁とタクアン数切れ……という典型的な和食。しかし時にはスクランブルエッグや食パンなど、洋食系のメニューも出されるらしい。強いて言えば、脂ぎった肉や過剰な盛り合わせなど、『贅沢』はしない程度とか。


「さて、あとは席なのですけど……ああ、あそこが二席分開いてますね」


 湯崎が視線で示した場所には、確かに二つ、誰も座っていない椅子がある。湯崎の言う通り、香はその席に向かう。

 勿論何百人とごった返している食堂で、何処もかしこも開いている訳ではない。香達が着いた席の正面には、二人の先客が居た。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 湯崎と共に一言挨拶してから、その席に座る。


「あ、おはよっす」


「おはよーございますー」


 そうすると前に座る二人からも朝の返事が返ってきた。

 一人は若くて軽薄そうな男。もう一人は女子高生ぐらいにも見える、若いというよりも幼い女だ。二人はカップルなのか、わざわざべったりと身を寄せ合い、仲の良さを香達に見せ付ける。女の方が積極的に擦り寄っている様子だが、男もそれを人前で許す辺り、似たようなものだろう。

 生真面目な香としては、これまでの人生であまり縁のない人物。正直に言えば、好んで付き合おうとは思わないタイプだ。しかし潜入捜査をする身として、情報を集めるためにも交流は広く持った方が良いだろう。何も友達になろうという訳ではなく、顔見知り程度、お喋りする程度の間柄で良い。


「……初めまして。わたし、昨日からこの体験修行に参加しています、源川香と申します」


 まずは好感を持ってもらうべく、自分の方から歩み寄る。


「うっす。俺は相良さがら幸司こうじって言います。よろしく」


「私はー、志乃原しのはら美絵みえですー。よろしくねー」


 香が自己紹介すると、男・幸司と、女・美絵も自己紹介。二人の顔と名前をしっかりと記憶し、その人柄も把握しようと、更に話を振る。


「お二人は何時からこの修行を?」


「一昨日からっすね」


「私もー」


「どうしてこの修行を受けてみようと?」


「あー、なんつーか、人生経験? そろそろ学校も出るし、なんか自分磨きとして精神修行みたいのやってみようかと思って」


「私はー、ダーリンの付き添いー」


 尋ねてみて聞かされる、なんとも軽薄な理由。卒業前なら就活しろとか、自分磨きなら資格のための勉強をしろとか、ダーリンってなんだとか……自分と真逆の感性に触れ、香はちょっとばかり放心状態に陥ってしまう。


「そーいうお姉さんはなんでこの修行受けたんすか?」


「えっ。わたしは――――」


 そのため幸司から問われた時、一瞬声が詰まってしまった。

 無論、潜入捜査のため、なんて答えは返せない。記者や動画配信者など、怪しまれる動機も駄目。故に出来るだけ有り触れていて、尚且つ詮索し辛い『理由』を予め決めてある。


「……ちょっと、自己啓発をしたくて」


 香自身は、あまり言いたくないのだが。


「じこけーはつ? なんすかそれ」


「自分自身の意思で、精神的な成長を目指す事ですね」


「あ、つまり俺と同じっすね」


「ダーリンと同じなんだー」


 香の語る適当な言い分を、湯崎も幸司も美絵も疑わずに信じた様子。有り触れた理由なのだから疑われる訳もないのだが、内心物凄く複雑だ……幸司自身が言うように、脳内で散々ツッコミを入れていた幸司とほぼ同じ理由なのだから。

 違うと言いたい。言いたいが、言う訳にはいかない。自分は国民の平和を守る警察官なのだから。


「(……自己啓発して、落ち着いた心を持ちたい)」


 けんちん汁を啜りながら、ひっそりと香は思う。

 こんな事でボロを出していたら、巧妙な犯罪を暴くなど、夢のまた夢なのだから……

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