第十六話 三人目の天使
緊急時にもかかわらず、チャーリー地帯の巨獣の数は、予定して行われる戦争時とほとんど変わりがなかった。セーフゾーンからは、前と同じゴリラの影も見受けられる。三匹にまで仲間を増やして。
「では」車から降り立つと、早速カミラはレイピアを構え、もの悲しげな笑みを浮かべながら戦場へ去っていった。ここ最近、彼女たちにはそんな顔をさせてばかりだなと思った。
やがて、ナディアも俺へ、寂しそうな目を向けると去っていく。彼女は感情の起伏が乏しいので、上手く心情を読み取ることが難しいが、もしかしたら想像以上に心配してくれているのかもしれない。そう思うと、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいに満ちた。
水晶を補充するため、車に乗り込もうと踵を返すが、未だ出撃しないフェリシアが気になって目をやった。彼女はただ、戦場を眺めて立ち尽くしている。
「赤坂さん」ふと、彼女は俺を呼んだ。だが、慮っているのか、単なる趣味の悪い悪戯なのか、いくら待っても続きは話されなかった。
「水晶を早く取りに行かないといけない」運転席の扉を開け、彼女の背中を見つめて問うた。「何だ?」
「ずいぶんと前向きなのですね」彼女はこちらに振り返ると、剣呑とした雰囲気で俺を睨んだ。「もはや、足を動かすことすら心苦しくなっていると思いますが」
「言うな」途端に意識してしまって、脳裏にカミラの死後の世界が作り上げられた。「俺の悲しい顔を見たくないのなら、お前も協力しろ」
「分かりました」彼女はいつの間にか、今にも泣きそうに顔を歪ませていた。「悲しい顔をさせないために、協力します」
そう言い残すと、彼女は戦場へ駆けた。砂嵐を扉で遮りながら、逃げるようにして運転席へ乗り込む。
震える手でハンドルの握り、何とか車を発進させた。
水晶を詰めた段ボールを荷台に積んで、チャーリー地帯へと戻る。セーフゾーンには、戦場に行ったはずのフェリシアが、空を見上げて動かないでいた。
車を停め、外へ出る。「補充しにきたのか?」そう問うと、彼女は何の前触れもなく俺の背中に回り、矢の刃をうなじに突きつけた。
「動かないでください」声音は冷たく、酷薄としていた。「そのままゆっくりと、運転席に乗り込んでください」
「何をするつもりだ」状況が上手く呑み込めず、一旦彼女の真意を探ることにした。「お前は何がしたい?」
「協力するんですよ。あなたに悲しい顔をさせないために。あなたはカミラが卒業するまで、運転席で蹲り、決して顔を上げないようにしてください」
「馬鹿言うな」俺は慎重に体の向きを彼女の方へ変え始めた。
「馬鹿なのはあなたですよ」彼女は牽制するように声を張った。「あなたは十分に苦しんだ。もう、戦場からは目を背けていてください」
「すまないな」臆することなく体を動かし、ついに彼女と対面した。「それは無理だ」
「とんでもない被虐症ですね」冷たい顔をした彼女は矢を下ろすと、弓をつがえて俺の顔面へ焦点を合わせた。「さっさと言う通りにしてください」
死を目前にして、田淵に銃口を向けられた時のことを思い返す。だが、それに比べれば恐怖がほとんど襲ってこない。彼女からは、覚悟の気迫があまり感じられなかった。
「フェリシア」そっと弓を掴み、力強い目で返した。「お前の理屈は論外だ。今まで散々悩んできたが、俺の思考にそんなことは一度だって思い浮かんだことがない」
ゆっくりと弓を下させようとする。だが、彼女は腕に力を込めて、自分の中の何かと闘っているみたいに、苦しそうに首を横に振った。
「あなたは……やはり、自分勝手ですね。周りのことが、全然見えていません」
彼女は目を潤わせて、それでも力強い顔で訴えかけてくる。心当たりのない俺はじっと黙り込んでいると、彼女は悲しそうにゆっくりと俯いて、言った。
「あなたは、自分が苦しむ姿を客観視したことがありますか……?」
その声は酷く震えていた。「……いいや」少し考えて、素直にそう答えると、彼女は弓をつがえる腕を小刻みに震わせた。やがて全身の力を何かに吸われたかのように抜くと、弓を下ろし、俺の胸へ顔を預ける。
そして、訥々と話し始めた。
「あなたが苦しんで……、悲しむ人がいることを、知ってください。どうして私たちなんかに、そう真摯に向き合ってしまうんですか……。悲しんでしまうんですか……。あなたは私たちのことを考えて行動しているつもりかもしれませんが、その頑張りこそが……、一番私を苦しめるんですよ……。あなたに、好意が膨らめば膨らむほど……、胸がはち切れそうになるんですよ……」
しばらく、俺の口は何一つの言葉を発せなかった。
いつぶりだろう、と人生を振り返る。子供の頃には、色んな人からいくらかいただいていた。だが、成長するに連れてそれはなくなっていき、社会に出てからは、すっかり忘れ去っていた。人からの、愛情というものを。
「俺なんかをそこまで想ってくれる人がいるなんてな」俺は本気で驚いていた。「すまなかったな、フェリシア」
泣きじゃくる彼女の頭を撫で、中腰になって視線を合わせる。熱暴走したみたいに顔を紅潮させて、彼女は未だ敵対するような表情を作っていた。だがそれも、次第に涙により崩れ去っていき、隠すように顔を俯かせた。
「フェリシア」だが、そうやって一心に愛情を注がれても、俺の答えは変わらなかった。「お前には、これからも辛い想いをさせてしまうな」
「……そこまで、覚悟があるんですね」彼女は涙を手の甲で拭いながら、くすりと笑った。「なら……、私が卒業する時には、存分に悲しんでもらいます……。もう、辛くても知りませんから……」
「ああ」
「絶対に耐えてくださいね……。みんな卒業しても、それを受け止めて……、前を向いて生きていくことを約束してください……。破ったら、許しませんからね……」
「ああ」
そう言って、俺は彼女を優しく抱き寄せた。緩やかな曲線を描く腰へ手を回し、何十秒かお互いに体温を感じ合っていた。
ふと、彼女は離れると、恥ずかしそうに視線を逸らしながら、ぎこちなく四肢を動かして荷台へ歩く。段ボールをいくらか開封し、存分な魔力を武器へ注いでいった。
「ずいぶんと時間を取ってしまいました」彼女は分厚いオーラに纏われた弓を腰に構えると、力強い目で戦場を見据えた。「落とし前をつけてきます」
そう言い残して、彼女はそこから姿を消した。砂嵐に顔を腕で覆う。収まってきたところで、戦場の方へ目を向けた。
ゴリラは先ほどまでと位置取りを変え、よりセーフゾーンに近づいてきていた。ゴリラの攻撃をサイドステップで華麗に交わしながら、フェリシアは矢を一発腹に命中させる。ゴリラは少しの間狼狽えると、やがて苛立ちを隠せない様子で咆哮を上げた。それに合わせて、残り二匹のゴリラが左右を囲んだ。
ふと、奥の方からもう一つの人影が映り込む。武器の太さからしてナディアだろうか。人間を超越した跳躍でゴリラの脇腹にハンマーを振るうが、彼女は反撃を食らって数メートル吹っ飛ばされた。
やがてフェリシアも劣勢を強いられると、隙を突かれ、巨大な手の中に捕まってしまう。ナディアがその手を振り解こうと幾度となく打撃を与えるが、たちまちもう二匹のゴリラに同じように拘束された。
彼女たちから反撃の様子がないまま、ゴリラは雄叫びを上げた。次第に絶望感が押し寄せてきて、荷台に駆けて水晶から魔力を受け取ろうとする。瞬間、──戦場に一筋の閃光を捉えた。
光の正体は、見なくとも分かる。羽根を生やして空を舞う天使は、煌びやかな鱗粉を撒き散らす蝶のようにも見えた。
美しいが、それと比例するほど儚げがある。そして、外見の輝きからは想像も出来ないほどの、絶望がある。
彼女は上空からゴリラの目をレイピアで斬り刻んだ。同時にナディア、そしてフェリシアが手のひらから落とされ、空中で二人を拾うと、両脇に抱えてこちらに逃げ込んできた。やがて俺の頭上で停止すると、そのままふわりと地に足をつけた。
ああ、と俺は、イザベラとルシアナの時のことを思い返す。こうやって美力を儚げに散らして、彼女も今からこの世を去る。堪えなきゃと必死に自分に念じるが、涙は徐々に溢れ出した。
彼女は俺へ微笑みを向けると、二人を優しく開放させる。二人は彼女の姿に目を見張っていた。
やがて彼女は荷台へ向かうと、そこから残った全ての魔力を受け取った。全身を漂うオーラをレイピアに集約させると、まるで剣のように分厚い形状になった。
「赤坂さん」
俺の目前に彼女は立つと、心憂いような顔で笑みを浮かべた。やけに悲壮感が漂っていた気がして、目を背けたくてたまらなかった。
「わたくし、ずっと考えていましたの」そう言って、彼女は訥々と話し始めた。「もしもあなたの言う通り、天国がなかったら、わたくしは卒業した時、どこに行くのかしらって。……イザベラとルシアナのもとに、戻れないのかしら。……待っていても、また、ナディアとフェリシアと、会えないのかしら……。そう思うと、卒業が怖くなりましたわ……」
「カミラ……」
様々な負の感情が爆発して、どうにかなってしまいそうだった。このまま自分は壊れ、崩れ、朽ち、滅びてしまうような、そんな気がした。
「赤坂さん」俺の名前を呼ぶ彼女の声は、ものすごく震えていた。たちまち彼女の頬は、耳は、そして顔全体は酷く紅潮していき、目にいっぱい涙を潤わせながら紡いだ。「頭いっぱいに広がるこの幸福感は、幻なのかしら……。……わたくしは認めたくありません。それほどまでに、今、わたくしは幸せですわ。死に心の底から栄光を感じていますわ……。ですから、天国はあると……言ってくださらないかしら……」
息を呑んだ。
唇が一体化したように離れなかった。
彼女の作り上げる悲壮感は、次第に悲しみの割合を高く占めていった。
──そうだ。天国が妄想かどうかなんて、死んでみないと分からない。天国は本当にあるかもしれないじゃないか。
それでも、死にゆく人間へ、そんな無責任な言葉をかけていいものだろうか。俺は逡巡して、また逡巡して、嗚咽を酷くしていって、涙を枯れそうなほど流して、また逡巡した。
だが、答えは初めから、分かっていた。
俺は、彼女たちを死ぬその時まで幸せにすると、ずいぶんと前に誓っていたのだ。
「ああ……」声を絞り出し、精一杯笑みを作り上げて答えた。「きっと……、天国は……あるさ……」
俺の言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべた。満開の桜みたいに幸せを散らして笑った。
なあ、本当にこれが正解だったのか? 自分自身に問いかけて、笑みを浮かべ続ける。鏡があれば吹き出してしまいそうな、そんなぎこちのない笑みだろうと、自覚はしていた。
そうして、彼女は最後、俺たちへこう笑いかけた。
「ありがとう」
やがて、彼女の体は、空へ吸い込まれるように上がっていく。
おもむろにレイピアを腰に構えると、戦場へ飛んでいった。
彼女の姿を捉えた奴らは、一斉に撃墜させようと殴りかかっていく。彼女は華麗に宙を舞ってそれを回避していき、巨大な腹へ突撃する。やがて、そのゴリラは真っ二つに分断され、続くようにもう一匹、背中を貫いた。
直後、彼女は最後の一匹にはたき落とされ、思いきり地面へ叩きつけられた。やがてゴリラは彼女を拾い、握り締めるが、手のひらから閃光が走ると、その指が瞬く間に斬り落とされていく。体を開放された彼女はそのまま刃を立て、腹へ一直線に突進した。
瞬間、頭上からもう片方の拳が振り下ろされた。避けることがままならない状況下で、彼女はレイピアをそのまま前方へ投擲する。そうして拳は重なると、彼女はあらぬ方向に体を捻れさせながら、踊るように撃墜した。同時にゴリラは号哭を上げ、腹から大量の出血を伴って倒れ伏した。
自分の中の時が止まる。我に返るまでいくらか時間を要することになり、やがて、ナディアとフェリシアに彼女の近くまで連れていってもらった。
とたとたと、歩き立ての赤ちゃんのような足取りで、手と手が触れ合える距離まで歩み寄る。あれだけ神々しかった羽根は、完全に効力を失い、白鳥の羽根のようになっていた。あれだけ煌びやかだった光は、血の色に塗り替えられていた。
ストンと膝を落として、ぎこちなく彼女を仰向けに返させる。やがて、青冷めて精気を失ったその顔に手を添え、頬を撫でる。いくらかそんな時間を過ごしたのち、俺の腕は力を失い、彼女の胸元で息絶えるように落ちた。
「ありがとう……カミラ……」
錯覚かもしれない。悲しみのあまり、脳が生んだ幻影かもしれない。
彼女は薄々しく、微笑みを浮かべた気がした。
気持ちの整理には、一晩を要した。
とはいえ、心の奥に染みついた、息が詰まるような悲しみは払拭出来なかった。
あくまで上辺だけ。笑顔を取り繕えるまでには至れた、というだけの話だ。
太陽の日差しにふと目を覚まし、時計へ目をやると、時刻は十時を過ぎていた。いつまで経っても運ばれてこない朝飯に、ナディアが激怒しているだろうな、と申し訳ない気持ちで体を起こす。
「……ナディア」
ふと、自然と口からもれる。昨日の緊急ミーティングで、次の戦争は三日後だと決定されていた。
次は、ナディアの番だ。
こうやって、最後には誰もいなくなっていくんだ。
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