第十一話 二人目の天使





 デルタ地帯に着き、辺りを見渡すも、特にブラボー地帯の時と景色はほとんど変わりなかった。


「よ~し、これで卒業出来るっすよ~」ルシアナは鎌をぶんぶん頭上で回しながら、意気揚々としていた。カミラとナディアは負けじとした闘志を燃やして、準備運動がてら、また取っ組み合いをしていた。


「赤坂さん」ふと、車の中で暑さを凌いでいたフェリシアは、もの悲しげな顔で笑って訊いてきた。「苦しいですか?」


 否定しようとしたところで、彼女には虚勢だと見抜かれるだろうと思いとどまった。「まあ、苦しくないと言えば嘘になるな」それでも、泣きつくわけにもいかないし、結果的に虚勢は張らざるを得なかった。


 彼女は俺の返答に力なく微笑んだ。彼女が卒業を悲しむわけがないし、俺はとんでもなく気を遣わせているというわけだ。


 それでも、だからと言って笑えない。だからと言って喜べない。


 彼女たちの運命を、受け入れられるわけがない。


 だが、現実は無情だ。


 神様は酷薄だ。


 ついに、──無線機から声は聞こえてきたのだ。


『ただ今より、第六十三回〈ロシエント作戦〉を開始する。開戦六十秒前、五十九、五十八──』


「お、ついに来たっすね!?」ルシアナは鎌を腰に構え、戦場を見据えた。やがて、カミラとナディアも同じように、その横に並んだ。


 ああ、くそ。行くな。行かないでくれ。


 そんな言葉を実際にかけられるわけもなく、ただ呆然と立ち尽くすだけ。心の奥底に何かが詰まっているみたいに息苦しくなって、怒りと悲しみの境界線に立たされ、どんな顔を浮かべればいいのか分からなくなる。


「赤坂さん」座席から降りたフェリシアは、俺のもとへ歩み寄ると、そっと肩に手を乗せた。「そんなに苦しむわけが、やっぱり私には分かりません。だって、ルシアナはこの戦争を経て、こんな闘いの毎日を卒業し、至福溢れる天国へ行きます。普通なら、よく頑張ったねって言って、笑って見送ってあげるべきだと思うんです」


「……それは……」少し逡巡してから、訥々と続けた。「……改めて考えると、ダメ……だと思う。例えそれをお前たちが望んでいても、お前がこんな俺に呆れて、もう真摯に向き合ってくれなくなっても、それでもダメだ。……ダメなんだ」


「……そうですか」


 彼女は淡白にそう返すと、三人の方へ向かった。


『十……九……八……七──』


 ルシアナに最後、何か言葉をかけたいと思い、一歩足が前へ出る。


『五……四……三……ニ……一──』


 けれど、元気でな、なんて言えるわけもないし、行かないでくれ、なんてのは論外だろう。かけるべき言葉が思いつかず、


『──開戦』と、それは無慈悲に告げられた。


 瞬間、忘れていた、と俺は目前の突風に急いで顔を腕で覆う。砂嵐が落ち着いてきたところで、おぼつかない足取りで倒れたパソコンと椅子を直し、腰をかけた。


 パソコン画面をじっと見つめる。小さくなった範囲には、前と変わらない黒い点の群れがある。その中を彼女たちの生命反応は駆け回っていた。


 なぜだろう。黒い点は、人類の絶対悪。滅さなければ滅される敵だというのに、一つ減っていくごとに、胸に痛みが伴った。


 本当、なぜだろうな。


 自然と目の焦点が合わなくなっていく。


 そうして俺は、虚空をずっと、眺めていた。


『──赤坂さん……っ』


 ふと、無線機から酷いノイズと共にフェリシアの弱々しい声が聞こえた。いくらか止まっていた俺の時はようやく動き出し、目尻に溜まった涙を拭いながら応答する。


「……どうした? フェリシア」


『……敵が、強くて……っ』彼女の声はさらに頼りのないものになっていく。『ヤバイかもです……っ』


「嘘だ」すぐにパソコン画面を確認すると、彼女は本来の小式島と思わしき場所の崖の縁で、何十と出来た巨獣の列に囲まれていた。「すぐに他の奴に伝える! 待ってろ!」


『無理だと、思います』彼女は掠れた笑い声を上げた。『例え来ても、巨獣の群れを除去しなければ、私のもとまで辿り着けない。私、そんなに持ちませんよ』


「なら」荷台へ駆け、水晶の入った段ボールに手を当てた。「俺が一瞬で向かう」


 身体強化。身体で念じると同時に、無数の水晶が呼応するように小紫のオーラを漂わせ、身体に吸い込まれていく。数秒後、段ボールは十箱もあったが、その半分が中を空にしていた。


 明確な異変と言うものを感じられなかったが、多分、魔力を受け過ぎて身体がおかしくなっている。そうだろう? 俺は神に祈り、フェリシアのいる方角へ全力疾走した。


 瞬間、嘘だろ、と俺は度肝を抜かした。まるでそれはワープだった。断片的にいくつかコンクリ世界と島の崩壊した自然が映り込むと、巨獣も反応出来ない速度で山を登り、フェリシアのもとまで潜り込んでいく。すぐに足を止めたつもりだったが、思わず崖へ投げ出されそうになった。


「赤坂さん!」


 彼女は臨戦態勢を一瞬崩して、肩越しにこちらへ涙目を向ける。その隙を突いて突進してくるコブラの巨獣の方へ跳び、その気持ちの悪い顔へ一発拳を入れた。


 瞬間、コブラの頭は胴体から捻れ飛んだ。辺りの巨獣を巻き込んでその場に倒れ伏す。続くように鹿の巨獣が襲いかかってきて──魔力なしとはいえ、今の攻撃で敵として見做されたらしい──、また顔面へ一撃入れる。しかし、先ほどよりも力を込めたはずだが、鹿は白目を剥いて膝から崩れ落ちただけにとどまった。


 意味がないんだ、と理解する。いくら魔力を注いでも、戦闘能力の大半を魔術で補ってしまっては、すぐに力を使い果たしてしまうだけに過ぎないんだ。


 ジリジリと巨獣に詰められ、俺たちは一歩、また一歩と互いに引き寄せ合うように後ずさりをする。


 ああ、俺たちはここで終わりかもしれない。完膚なきまで窮地というものに立たされて、狂ったような笑い声が出た。


「赤坂さん」だが、力強い声で彼女は明言した。「勝機があります」


「本当かよ……」とうとうお互いの肩がくっつき合うまで追い込まれた。「時間稼ぎも出来ねえってのに……」


 俺は嫌味を言うように返した。膝が竦み始める中、何を言い出すんだと苛立っていた部分があった。


 だが、ぼそりと囁かれた彼女の言葉は、俺に細やかな希望をもたらした。もうその方法に賭けるしかないと、そう確信した。


 瞬間、彼女は俺の体にしがみつく。同時に、渾身の魔力を拳に込めて、俺は足元を殴りつけた。


 たちまち大地は揺れ、崖は縦に割れて、足場から崩れ落ちていく。連鎖するようにそれは広範囲に広がっていき、ここに群がっていた巨獣たちは土砂崩れに流されるように、崖へと落ちていった。


 当然、俺たちも流され、同じように落とされていた。崖下を俯瞰すると、大きな海辺に巨獣の群れが形成されている。徐々に地面が近づいていく中、何とか空中の巨石に着地し、残る魔力を全て使う勢いで地上に向かって跳躍した。


 次の瞬間、俺たちは地上よりも何十メートルも遥か上空に浮いていた。これほどの魔力が残っていたのは想定外だ。あと僅かな魔力を絞って、何とか着地出来る態勢を整えておく。同時に崩れた大地を俯瞰して、無事な足場を探し出す。地割れがなく、巨獣も辺りにいないところが最適だったが、そうなってくると崖の縁くらいしかない。逡巡を重ね、やがてそこへと着地した。


 瞬間、大地に衝撃が走る。同時に、脆い足場が少し崩れる。その小さな波に呑み込まれた彼女は、足を滑らせて崖下に姿を消した。


「フェリシア!」


 すぐに手を伸ばし、何とかそのか細い腕を掴み取った。そのまま引き上げようと思ったが、案の定魔力は全て使い果たしており、着地の衝撃で、身体には思うように力が入らなかった。


「フェリ……シア!」徐々に俺の体も崖下へ呑み込まれそうになっていく。「頼む、助かってくれ……!」


「赤坂さん……!」彼女は泣き目になりながらも、足手纏いにならないように平静さを保ちながらぶら下がっていた。


 必死に引き上げようとするが、逆に俺が引き下ろされていく。一秒に何ミリか崖下へ滑りゆく中、何とか二人が助かる未来を模索する。


「フェリシア、魔力はもうほとんどないか……?」


 彼女は力なく頷いた。


 ふと、後ろから大地を揺るがす鈍い足音が近づいてくる。やがて、大きな何かの影が視界の逆光を覆った。


 もう、背後に巨獣はいるのだと、手に取るように理解出来た。


 肩越しに恐る恐る後ろを振り向き、見上げる。通常の二倍はある巨大なチンパンジーが、片腕を頭上に振り上げていた。


 終わった。死への恐怖感が胸を圧迫し、途端に息苦しくなる。情けないことに、冷や汗が全身に垂れまくって目の焦点が合わなくなっていた。


 そうして、チンパンジーはその腕を振り下ろした。厳密には、恐ろしくて目を瞑ってしまい、風向きからそう予測しただけだった。


 けれど、いつまで経っても衝撃は来なかった。反射的に顔を覆っていた片腕を上げ、視界を開放する。その瞬間、チンパンジーはその場に倒れ伏した。


「──二千十五!」


 目前には、ルシアナがいた。見渡せば、他にも巨獣は俺たちを囲んでいる。彼女は肩越しに俺へ振り向くと、鎌の刃に灯る小紫の微弱なオーラを見せつけた。


「残りの水晶を三人分に分けて、みんなで他を片づけたっす。あとはここだけっすね!」


「……やめてくれ」


 一瞬、その声を自分のものだと認識出来なかった。それほど声は震えてか細い。それゆえに誰にも届くことなく、彼女は巨獣の群れへ駆けていった。


「二千十六!」また一匹斬り刻んだ。「二千十七!」巨獣の頭部まで跳躍し、斬り落とした。「二千十八!」鎌をブーメランのように投げ、腹わたを抉った。「二千十九!」その鎌を上手くキャッチし、群がる残りの巨獣を一掃した。「二千二十〜!」


 彼女はやり切ったように両手を広げ、まるで舞踏館で踊っているみたいに回転して笑った。感情というものが具現化出来たら、きっと今の彼女の周りには、幸せの形しかないと、そう確信出来るくらいに清福に満ちた笑顔だった。


「赤坂さん!」彼女は俺の方へ、懐からいくつかの魔力水晶を投げると、片手で謝罪の意を示した。「ルシアナ、今、すっごく幸せなんっす! 早く天国に行きたくて、不思議と脳が幸福感で壊れちゃいそうなんっす! もう、今すぐにでも」


「……ルシアナ……っ」


 彼女はそのままふらふらと回転しながら、満面の笑みで崖の縁まで走る。そうして、──ついに下へ落っこちた。


「ルシ……アナ……」


 全身の力が抜け落ちる。身体があまりの衝撃的な惨劇を前にして言うことを聞いてくれない。俺はフェリシアを握る手さえ、離してしまった。


 奈落へと消えていく二人に、思わず息を呑む。


 こんな結末、認めたくない。


 認めてはならない。


 だから俺は、水晶から魔力を受け取り、それを推進力として二人を追いかけた。


 海辺で待ち構えている巨獣の群れを見ると、背筋がぞくぞくと震え出すが、そんなものは関係ない。宙で気を失っているフェリシアを抱き、何とかルシアナを掴もうと手を伸ばす。だが、彼女との距離は三メートル以上あり、どうしてもそれは無謀と言わざるを得なかった。


 気がつけば、真下で巨獣が大きく口を開いて待っている。彼女の死まで、刻々と時は過ぎていき、そうして、


 瞬間、白い光が目前を横切った。重力に任せてそこへ落ちると、中の生温かい膜のようなものが俺たちを優しく歓迎するように包み込んでくれた。


「もう、赤坂さん」純白の世界で、ルシアナの声が聞こえてきた。「何で落ちてくるんっすか」


「……すまない」彼女の様子から、俺は光の正体を確信した。


 俺たちの体は、羽根を通じ、やがてルシアナのもとへ流れ着いた。彼女は俺たちをお姫様ように抱えると、羽根を大きく動かして突風を巻き起こす。海辺で構えていた巨獣たちが、数メートル先まで吹き飛んだ。


 そうしてゆっくりと地上へ足をつける彼女は、まるで天界から舞い降りた天使のようだった。俺たちを地面に下ろすと、前へ出て仁王立ちをする。背中の神々しい羽根は、少し力を込めて触ればすぐに形を崩しそうな儚さを散らしており、とてもその中にいた実感が持てなかった。


「安全な場所に逃げるっす。無線機を繋いで、カミラかナディアに迎えにきてもらうっすよ」


「ルシアナ……」思考が彼女以外のことを全て放棄していた。やがて自然と、前へ手が伸びた。


「行くっす!」ふと、彼女は大きな怒声を上げた。そして、おもむろに肩越しにこちらへ振り返り、はにかんだ笑みを向けた。「赤坂さん、少しキツイこと言うかもっすけど、ルシアナは卒業したくてたまらないんっす。それを邪魔されるのは、まあ……嫌なわけなんっすよ」彼女は憂いを帯びた目で俺を見下ろした。


「……ああ」分かっていたが、それを言葉として本人から言われたことで、俺の腕は自然と下りた。「逝ってくれ……」


 俺の返事に、彼女はグッドサインを送って満面の笑みを浮かべた。


 俺は最後まで、その笑みを見ておくべきだっただろう。けれど、現実逃避するように、俺はすぐに背中を向けてしまった。





 地上の巨獣は、カミラとナディアが全滅させていた。


 戦場には、巨獣の悲惨な血の海と、


 腹部を鎌で貫いて自殺した、ルシアナの死体が残されていた。




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