第十話 卒業パーティー
その夜、俺は中庭で空を見上げていた。イザベラが亡くなる前夜と同じ位置で、同じような空を。
「星は綺麗ですか?」ふと、玄関先の方から声がして振り返ると、フェリシアが軽く微笑んでこちらへ近づいてきた。「何座が観られますか?」
「いや、星座の知識はない」そう返して星空へ向き直った。「ただ、何となく心を落ち着かせているだけだ」
「そうですか」
彼女は隣の椅子へ腰を下ろすと、俺と同じように星空を見上げた。
しばらくの間、お互いの口は動かなかった。そんな沈黙が、なぜか心地よかった。こんなことを言うとあいつらには申し訳ないが、気を配る必要がなかったからだろう。
「あの」そんな沈黙は唐突に破られた。「辛ければ、私たちのもとを離れてもいいんですよ?」
「……いや……」
田淵からの脅迫を打ち明けるべきか逡巡していると、彼女はぼすっと頭を俺の肩に乗せてきた。
「……どういうつもりだ?」
「いえ、何てことないです」彼女は目を瞑り、安らかな笑みを浮かべた。「ただの母性本能のようなものです」
「母性本能?」俺は思わず鼻で笑ってしまった。「この俺にか?」
「はい。とても辛そうですから」
「……辛そうだったのか」
あれから俺は、持てる限りの笑顔を取り繕っていたつもりだった。だが、全て見抜かれていたらしい。
他の三人はどうだったのだろう。普段と変わらない様子で俺に接してきていたが、心の底では俺の無理を感じ取っていたのだろうか。
「赤坂さん」ふと、彼女は目を瞑ったまま口を開いた。「赤坂さんは、そもそもの死、というもの自体を恐れている。この認識で合っていますか?」
「当たり前だろう」即答したが、ふと訂正した。「いや、お前たちにとっては、死を喜ぶことが当たり前なんだっな」
死。それは、命を与えられた生命体の誰しもが畏怖すべきことだろう。だが彼女たちは、その死を心の底から喜ぶ。そう思考を組み替えられている。考えただけで背筋がぞっとした。
「少し違いますよ」彼女は俺の二の腕に優しく腕を絡めた。「私たちも、二千二十匹倒していない状態で死ぬことは、恐ろしく怖いです。二千二十匹倒すことで、初めて天国への道は開かれますから」
「そうか」当たり前のようにそう説明する彼女に憂惧が止まらず、何となく繊細な髪へ手が伸びてしまう。そのまま優しく撫で回した。「その思考は、魔術によって組まれたもの、って説明しても、やっぱり意味なんてないのかな」
彼女は「何の冗談ですか?」と薄く微笑んだ。これ以上困らせるわけにもいかないし、口から深いため息がもれる。彼女はそれを見かねて、体を起こすと俺の頭へ手を伸ばした。
つむじから前髪へ、髪を整えるように手を動かす。毛量のせいで体温はあまり伝わってこなかったが、母性本能の熱量は十分に感じられた。
「赤坂さん」彼女はもの悲しげに微笑んだ。「あなたがどうしてそこまで悲しんでいるのか、上手く理解出来ないのですが、私の、人一倍強い母性本能が訴えかけてきます。このままあなたを一人にしていれば、いずれ壊れてしまうって」
されるがままに撫でられながら、鼻で笑った。「ああ、多分その通りだ。だが」彼女の手を下ろし、立ち上がった。「だからと言って、これ以上迷惑もかけられない」
「迷惑ではありませんよ」彼女は頬を膨らませて反論した。「私が好きでやっているんです。嫌でしたか?」
「嫌ではないが……、そもそもの話、あまり男にはやらない方がいい」
彼女ははっとした様子で目を丸くした。「もしかして、今ので落ちちゃいました?」
「なわけあるか」少しばかり揺れていた心を押し込めて、虚勢を張った。「けど、落ちやすい奴には落ちるだろうな」
「そうですか。よかった……」彼女は顔の毒気を抜いて胸を撫で下ろした。「あなたが私を好きになっても、とても辛いだけでしょうから……」
「……まあな」そう、得心して頷いた。
昨夜の彼女には助けられたと、目覚めた瞬間に確信した。イザベラが亡くなった日の朝なんか、精神強化をしていても体が鉛のように重く感じられたが、あの時に比べれば少し軽くなっていた。
少しだけ、ではあった。
彼女たちの寿命がまた一日減ったのは、変わりなかったから。
ルシアナが二日後に死ぬ運命も、変わらないから。
朝食を終え、中庭でトレーニングに励む彼女たちを玄関先から観察する。
ルシアナが汗を振り撒いて、木刀を振る。
ルシアナがかけ声を上げて、中庭を走る。
ルシアナが相手の頭を木刀で叩いて、両手を天に突き上げて笑う。
ルシアナが後ろから芝生に倒れ、気持ちよさそうに日を浴びる。
あそこにイザベラがいないように、二日後にルシアナもそこから消える。もとは五人いたメンバーが、三人にまで減る。
それも、ただ減るだけではない。彼女たちは天国を錯覚して、悦に入りながらこの世を去るのだ。
「はぁ……」
自然とため息がもれたその瞬間、背後から冷たいものが俺の頬に触れた。反射的に振り返ると、フェリシアが水入りコップをこちらに差し出していた。
「またため息ですね」彼女はくすりと優しい微笑みを浮かべた。
「……すまん」同じように笑おうとしたが、どうせ彼女にはすぐに見抜かれると思った。
コップを受け取ると、彼女は床に置いていたオボンを持ち上げる。四つの水入りコップを乗せ、中庭へ歩き始めた。
「俺がやる」進路を塞ぎ、そっと添えるようにオボンを掴んだ。「世話は俺の仕事だ。お前は休んでろ」
「いえ」彼女は嬉しそうに首を振った。「あなたこそ休んでください。そして、じっくりと考えてください。これから、どうしていくか」
「……ありがとう」
少しの間逡巡したが、俺はその好意を素直に受け取っておくことにした。
もとの位置に戻り、腰を下ろす。青空を見上げ、しばらく彼女たちの未来のあり方に苦慮した。
俺は、彼女たちの死を同じようにして喜ぶべきだろうか。例え錯覚でも、彼女たちが幸せなら、無理にでも笑ってあげるべきだろうか。
それとも、悲しんであげればいいだろうか。俺まで笑ってしまえば、誰も彼女たちの死を悲しむ者がいなくなる。苦い顔をされるかもしれないし、喜んでよ、と泣かれるかもしれない。それでも、それが本人の心の底からの意思でない限りは、悲しんであげた方がいいだろうか。
何分か思考を巡らせて、ふと俺は吹き出した。こんなもの、誰が分かるというのだ、と。
だから俺は、死ぬ時のことは、その場の勢いに任せることにした。やるべきなのは、死ぬまでに、彼女たちに本物の幸せを与えること。幻の幸せに縋ってしまうというのなら、例え分からなくても、本物を体に刻みつけさせておくべきだと思った。
そして、死ぬ時まで、彼女たちには幸せを感じていてほしいと、強く望んだ。
二十二時半。部屋の扉が静かにノックされる。同時に、普段着に着替えていた俺はドアノブを回した。
「うわっ」
あまりにも俺の反応速度が早かったのか、廊下に立っていたフェリシアは驚いて目を見張った。
「ルシアナは寝たんだな?」
静かに廊下へ足を運びながら問う。彼女は嬉しそうに首を縦に振った。
ふと、ようやく俺は彼女の違和感に気がつく。服装が寝巻きではなく、俺と同じく普段着だった。
「フェリシア」俺は彼女の意図を察して首を横に振った。「お前はもうすぐ戦争なのに、徹夜なんてさせるわけにはいかない」
「いえ」彼女はふんっと鼻を鳴らし、両手を腰に当てて頬を紅潮させた。「私レベルになると、精神強化を少し使えば徹夜なんてどうってことはありません」
「そうか。じゃあ、頼んでいいか?」
「はいっ」心の底から幸せそうに彼女は微笑んだ。
そうして俺たちは、まるで泥棒みたいにコソコソとした足取りで、ゆっくりと外へ出た。
中庭を抜け、フェリシアを敷地外に出さないように門扉の前で待たせる。俺はポストのそばに置いておいた買物を、一個ずつ敷地内へ入れた。
「楽しみですね」彼女は運ばれた道具を眺め、満ち足りた様子で笑った。「ルシアナの卒業パーティー」
「……そうだな」
自分で決めておいて何だが、ここまで悲観的な卒業パーティーが前例にあるだろうか、と思わず運命の酷薄さに吹き出してしまった。
早朝六時。ルシアナたちは寝室を出るなり、一階を見下ろして目を丸くした。カミラはエントランスホールまで駆け足で降りてくると、辺りを見渡しながら俺とフェリシアに問う。
「これは……どういう、あれですの?」
「どうもこうもない。買ってきたんだ」
そう、俺は買ってきた。エントランスホールの四方の壁に飾られた、金銀のガーランドも。頭上にいくつもぶら下がった星型のガーランドライトも。全てはルシアナの卒業パーティーのために。
「まだあるぞ」
そう言って俺たちは食堂の扉を開ける。三人は引き寄せられるようにそそくさと駆けてくると、中の光景に次第に目を輝かせた。
食堂にも同じような飾りづけをしたが、それ以上に目を奪われるのはやはりあれだろう、といつもの食卓に目をやる。そこには、パーティーという名に相応しいてんこ盛りの肉料理が並べられていた。
ローストビーフのカルパッチョ。鶏肉のチキンフリット。チーズソースのポテトフライ。レタスと粉チーズのサラダ。キノコとベーコンのクリームパスタ。おおよそ目につく料理はこんなところ。デザートにティラミスまで用意してある。全部、高級レストランから買ってきたものだ。
「全部食い切れないだろうから、昼と夜もこれを食べるぞ」
「やったー!」ナディアはおもむろにガッツポーズを決めると、早速食卓へ駆けていった。「やるじゃない!」とカミラも嬉しげに続いた。
「ルシアナ」いつにも増して口数の少ない彼女に、俺は少し不安になりながら訊いた。「お前の卒業パーティーだが、気に召さないか?」
そう問うと、彼女はおもむろに俺たちの方を見上げる。やがて、目を潤わせながら口を開いた。
「ルシアナのために、ここまでしてくれるんっすか……?」
「当たり前だろう」俺たちは深く頷いた。「卒業、するんだからな」
途端に胸が苦しくなってくるが、彼女の前では笑みを取り繕わないと、と愛想笑いを作る。彼女は次第に頬を紅潮させると、柄にもなく微笑みを浮かべた。
「赤坂さん、フェリシア」順に目を向け、より顔を綻ばせて笑った。「ありがとうっす!」
「ああ」俺は彼女の髪を優しく撫で、食卓の方へ向き直らせた。「ほら、お前も行ってこい」
うん、と、声に出さずとも、元気のよい返事が聴こえてくるかのように、彼女は嬉しそうに頷いて二人の方へ駆けていった。
その無邪気な後ろ姿を眺めて、俺とフェリシアは互いに目を合わせて笑みをこぼした。
俺の顔はどうしても、どこか引き攣ったものになっていたと思う。それとは反対に彼女は、幸福を振り撒いていた。
パーティーは大成功を収めた。かなり多めに料理を注文していたおかげで、昼と夜の分も十分に腹を満たすことが出来たし、ルシアナは飾りづけをかなり気に入ったようで、ことあるごとにエントランスホールと食堂を巡回していた。
まるで神様が協力してくれたかのように晴々しい日でもあった。中庭で鬼ごっこや隠れんぼといった、いかにも子供が好きそうな遊びをしたり、人生ゲームやジェンガも買ってきていたので、外で遊び疲れたら中に入ってみんなでそれもしたりしていた。
一日中、俺はルシアナの煌びやかな笑顔を見かける度に、これでいいだろう? と自分に問いかけていた。明日死ぬのなら、こうやってその最期の時が訪れるまで笑わせてあげるのが正解だよな、と。
そうして俺は、悲しみを心に押し込めて彼女たちに接した。一切の甘えを抜きにして笑顔を取り繕った。
そんな俺を、フェリシアはもの悲しげに見ていた。こうやって卒業に悲しんでばかりでは、いつかは見限られるだろうと分かっている。それでも、俺にはどうしても、身近な存在の死を祝福することなんて出来なかった。
そうして、日は跨いだ。
ルシアナが卒業する日は、ついに訪れた。
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