26 第三の試練

 意識の戻り方はやや乱暴だった。急に全身に重力がかかったと思えば、肌は冷たい空気にさらされている。ミランダはうつ伏せになっていた。

 目を開けて辺りを見渡すが、目を閉じていたときとまったく変わらない、一寸先も見えない暗闇。自分がいる場所が広いのか狭いのかさえ分からない。周囲に壁がないことを手で確かめながら、ようやく立ち上がる。

「フランキー? オリアーナ?」

 ミランダは恐る恐る声を出した。声は一直線に遠くのほうへ吸い寄せられ、こちらまで跳ね返ってこない。返事も聞こえない。

 何かがいる気配がないのも恐ろしいものである。ミランダは激しい不安にかき立てられる。三つ目の試練は自分との戦い。何が起こるというのか。ミランダは前にも後ろにも、足を踏み出すことができずにいた。

 ふと、背後に気配を感じて振り返る。ミランダは瞬時に両手を構えた。

 目を疑った。そこにいたのは、制服を着た少女――真波だった。

「私……?」

 ミランダは思わず声を漏らした。真波はじっと睨んでくる。ほくそ笑んでいるようにも見える。

「そう、私」

 真波の声だ。低くはっきりとした、蔑むような口調。声は前方の真波の口からではなく、空間全体から響いてくる。

「私にこの試練は乗り越えられない。だって、自分のことが大嫌いなんだもん。人殺しの自分が」

 ミランダは息をのんだ。これが自分との戦い、ということか。

 ミランダは拳を握りしめる。自分が人殺しであることを否定するつもりはない。でも、今はもう、逃げたくない。

 この世界で、一緒に戦った仲間を頭の中に並べて思った。どんなに辛いことがあっても、どんなに恐ろしい怪物が現れても、誰も生き返ることを諦めなかった。現実に後ろめたさを感じていた自分が恥ずかしい。

 悲しみや怒りの負の感情は、逃避への逆らえない追い風だと思っていた。でも、どんなに強い向かい風に煽られても、みんな希望から目を逸さなかった。彼らの横顔は、心を揺さぶられるほど勇ましかった。

 みんな貪欲に生きたいのではない。困難から逃げなかったのだ。

 私だって、後悔から逃げずに生きてやる。

「七年前、確かに私のせいでお父さんは死んだ。お兄ちゃんも未だに目を覚さない。でももう、くよくよしないって決めたの。お兄ちゃんは絶対目を覚ますって信じてる。お兄ちゃんのためにも、死んだお父さんのためにも、私は、前を向いて生きる」

 真波は鼻で笑った。

「何それ、笑わせないでよ。前を向いて生きるって何? それで、死んだ人間が救われると本気で思ってるの?」

 ミランダは胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。随分前に、母に言われた言葉を思い出していた。父の四十九日だったはずだから、七年前ほど前のことだ。

 今まですっと胸の中にあった、だけども耳を塞いできた言葉。

 お父さんはね、真波と真吾が大好きだったから、助けに行ったのよ。そんなお父さんが真波のこと、恨んでるはずないじゃない。だからもう、後悔するのはやめなさい。天国のお父さんに、真波の笑顔、見せてあげて。

 笑うことも泣くこともなくなり、抜け殻のように毎日を過ごしてきた七年間。父が死んでから二、三年は、母だけでなくいろんな人に同じようなことを言われてきた。まだ幼かったそのときは、ただの煩わしい慰めとしか思っていなかった。でも、今ならその言葉の意味が、分かる気がする。

「お父さんは、私を恨むような人じゃない。お父さんは私のこと、たくさん愛してくれた。それは今でも同じはず。私もお父さんのことをずっと好きでいるために、胸を張って生きるの!」

 真波の大笑いに、ミランダは思わず拍子抜けした。頭を締め付けられるような、気分が悪くなる笑い声だった。

「私が言ってるのはお父さんのことだけじゃないわよ。私が殺したのはほかにもいる。そうでしょ?」

 息を止める。頭のてっぺんから足の先へ、一瞬にして体温が逃げた。

 真波の言葉がただの脅しではなく、事実だったからだ。ずっと明らかになるのを恐れてきた、受け入れたくなかったこと。

 気配を感じて、恐る恐る顔を上げる。真波の両脇に、人影が浮かび上がっていた。

 ミランダは、速い呼吸を繰り返しながら後退る。

 真波と同じ制服を着た二人の少女。一人はふわくしゅパーマで前髪にゴールドのヘアピンをつけており、もう一人はほぐした三つ編みをさげている。二人とも、恨みのこもった目でミランダを睨んでいる。

「柚果、詩織……」

 二人が迫ってくる。

「あんたよね?」

 柚果が口を開いた。「私のスマホ、雪の中に隠したの」

 空気を震わす声に、胸の中を掻き回される。

「ねえ、どうして?」

 今度は詩織だ。「どうしてそんなことしたの?」

 身体がわなわなと震え出す。

「わ、私はただ……」

 頭の中で、あのときの光景が勝手に何度も再生される。

 自撮り棒に取り付けられたスマートフォン。自撮り棒は詩織のもの、スマホは柚果のもの。スマホに写っているのは、斜面から見下ろしたスキー場の全貌と、スキーウェアを着た柚果、詩織、真波の笑顔。

 何枚も写真を撮ろうとする二人。でも、そこは明らかに他の利用者の邪魔になるコースのど真ん中。真波は次第に苛々するようになっていた。

 そこへ、スノーボードに乗った小さな男の子が突っ込んできた。わずかな衝撃だったが、真波たち三人はスキー板を履いたまま斜面ギリギリのところに立っていたせいで、バランスを崩して転倒。男の子と一緒に斜面を転げ落ちる。

 男の子の大きな泣き声。母親が連れて行ったあと、男の子の悪口ばかり言う二人に、真波は幻滅していた。

 そんなとき、柚果はスマホをスキーウェアのポケットに入れようとしたのだろうが、スマホはポケットに入らず雪の上に落ちたのだ。ポケットの入り口に雪が固まっていたからか、手袋をしていたせいでポケットの場所が分からなかったからか。柚果も詩織も、そのことに気づいていなかった。

 真波だけその状況を知っていると分かった瞬間、衝動に駆られたのだ。スマホがあるからいけないんだ。柚果がこんな傍若無人なのは、スマホがあるせいだ。スマホさえなくなれば。

 もちろん迷いはあった。依存症の柚果からスマホを奪ったら、どうなるのだろう。ひどく落ち込むかもしれない。いや、そうなればいい。落ち込んで、頭を冷やせばいい。

 真波は咄嗟に雪を蹴って、柚果のスマホを雪の中に隠した。

 あのときは天候が悪化して、施設に避難することになるなんて思っていなかった。そこで初めて柚果がスマホをなくしたことを知って、吹雪の中を探しに行くと言ったとき、やってしまったことの重大さを痛感した。

「ただ、柚果がスマホから、離れてくれたらって……」

「最低」

 柚果お決まりの威圧的なアクセントと真顔。ミランダは敏感に震え上がる。

「あんたのせいで、私たちは吹雪の中、探しに行く羽目になったの」

 今度は詩織。交互に二人が詰め寄ってくる。

「でも、あんな斜面の途中に隠されたんじゃ、見つかるはずないわよね」

「なかなか見つからないものだから、ずっと吹雪の中をさまよって」

「寒かったあ」

「私たちが遭難したのはあんたのせい。それ、分かってる?」

 ミランダは髪を乱して息を切らしていた。言葉がグサグサと胸に突き刺さってくる。

「ごめんなさい……私、そんなつもりじゃ……」

「確かに、吹雪は想定外だった」

 柚果と詩織の間を割って、真波が迫ってきた。ミランダは顔を伏せたいのに、金縛りにあったように真波の瞳から目を逸らせない。

「バカよねえ。申し訳なくなって二人を追ったら、私も遭難しちゃうんだもん。意識不明になって、この世界に堕ちて、生き返るためにミランダとしてあらゆる敵と戦って。でもそれは、私だけじゃないでしょ? この二人に、見覚えあるんじゃない?」

 胸を金槌で殴られたような衝撃に、ミランダは呼吸を忘れる。見覚えのないはずはない。

 柚果と詩織は、それぞれ見覚えのある騎士服に身を包んでいた。柚果は弓を持って、詩織は槍を持っている。

「私たちはあんたに殺された」

「私たちも生き返りたくて、必死に城を目指していたのに」

 二人とは、一つ目の鍵を手に入れる直前に戦ったのだ。ライバルを減らすとか言いがかりをつけて襲ってきた剣士の男と、中年の見た目の電流使いと一緒にいた、弓士と槍士。ミランダが二人を氷の魔法で動けなくしたところへ、ゴドウィンとケネスが矢と炎を放った。その結果、二人は光の粒となって消えた。

「この人殺し」

「この人殺し」

 柚果と詩織が交互に言い合う。耳を塞いでも、声は脳内にガンガンと響いてくる。

「違う……ごめんなさい……もうやめて……」

「私なんて生きる資格がない。そうでしょ?」

 真波がミランダに向かって右手を伸ばす。手のひらの前に、白く、冷たい光が蓄積されていく。

 終焉を迎える直前、悪人には考えるのに十分な時間を与えられるものなのだろうか。

 母が信じていたことを思い出していた。母によく言い聞かせられていたが、ミランダは信用してこなかったことだ。受験を目前に控えたころには、大丈夫、それが見守ってくれているからと言われ。あわや大怪我を負うところだったのが軽い怪我で済んだときには、それが守ってくれたのよ、と言われ。

 死んだ人間を神様みたいに崇めることに、いい気分はしなかった。単なる自己満足でしかないと思っていたからだ。ましてや、自分のせいで死んだ人間を。でも、今だけは。

「死ね、私」

 ミランダは目を瞑って、祈った。

 私は生きたい……だから助けて、お父さん……

 銃声のような頭痛がした。ミランダは頭を押さえて床に伏せる。

 後頭部を撃ち抜かれたような、激しく鋭い痛みだった。しかし、勘違いだったのかと思うほど、もう痛みは引いている。

 ゆっくり、目を開ける。ミランダは息を吸い切って固まった。

 胸に、何かが貫通していた。ミランダではない。真波の胸だ。

 勘違いではなかった。確かに銃声は頭の後ろで鳴った。しゃがんだおかげか、弾丸はミランダの頭上を通過し、真正面にいた真波の胸を貫いたのだ。

 ミランダと真波の間で大きく膨れ上がっていた、冷たい光の玉は消失した。同時に、柚果と詩織の姿も弾けるように消えた。真波は大きく目を見開いて、右手をミランダに伸ばしたまま、ゆっくり後ろに倒れていく。

 真波の胸に空いた穴から、光が溢れ出す。

「待って!」

 ミランダは手を伸ばしながら立ち上がるが、突然水の中にワープしたみたいに動きが鈍くなる。

 真波の姿は徐々に闇に飲まれていく。いや、胸の穴から溢れる光が強くなっているのだ。

 頭の中で、どこかで見た光景と重なった。胸を銃で撃たれた、こちらに向かって右手を伸ばしている少女の姿。どこで見たのだろう。まるで夢の中のように、身体と思考が分離する。

 ミランダは右手を懸命に伸ばす。しかし、真波の右手を掴み損ねた。

 そのまま身体は、真波の胸の穴に引き寄せられる。

 ミランダは、あっという間に光に飲まれた。



 頭から足のつま先へ、爆風が吹いたような感覚。

 一瞬だったせいで、悲鳴を上げるために吸い込んだ息を吐き出せなかった。目をぎゅっと瞑っていた直後のように、視界の黒いざらざらが引いていく。

 視界に映るものをだんだん認識し始めたところで、ゆっくり息を吐いた。

 白い天井、白い部屋。白い布団に、白いパイプのベッド、薄いピンクの着衣。白い壁にかかった白いカーテン、窓の外には白い雲が広がり、穏やかに雪が降っている。空気は少し冷たく、肌寒い。

 ピ、ピ、という電子音。ベッドのそばにはモニターがあり、その下の機械から伸びている数本の管は布団の中に繋がっている。腕には点滴の管。鼻に違和感を感じるのは、鼻の穴にも管が通っているからだろう。

「小田原さん、小田原真波さん、分かりますか?」

 視界に初対面の看護師が侵入してきた。看護師は穏やかに微笑んだ。

「今、先生を呼んできますね」

 看護師は病室の引き戸を開けて、小走りで出て行ったようである。

 身体に力が入らない。かろうじて首を回した。モニターの反対側には小さな白い棚があり、そこにはデジタル時計が置かれていた。目を凝らす。時計が指し示めしている日付は、十二月十八日土曜日。

 ずっと使われていなかったパソコンが起動するように、真波の脳に徐々に記憶が蘇っていく。記憶は周囲の状況と紐づいて、更新プログラムがインストールされるみたいに、現実がインプットされていく。

 スキー場で遭難したのが修学旅行二日目の十五日。とすると、今日まで三日間意識を失っていたことになる。

 試練を、乗り越えたのか。

 自分があの数々の苦境を乗り越えることができたと思えば、自分の魂が今ここにいることが信じられない。身体があまりにもだるいのは、あの世界が単なる夢でなかった証拠だ。

 いや、自分は何もしていない。すべて仲間のおかげ。ゴドウィン、ロン、ジェラード、フランキー、オリアーナ、イーニアス。彼らとの出会いから最後の試練まで、頭の中で映像をダイジェスト再生する。

 最後の試練の映像を、何度も巻き戻す。

 助けてくれた弾丸。あれは父が放ったものだと思う。確信するに足る根拠ではないが、銃は父がファンタスティック・ワールドのゲームの中でよく使っていた武器だったからだ。

 命を救ってくれただけじゃない。最近頻発していた頭痛も、父の優しさだったのではないかとさえ感じる。

 悲しいことは忘れなさい。真波は笑っているほうがずっといい。――生前、よく父に言われた言葉である。頭痛は、一時的だが嫌なこと忘れさせてくれていた。スキー場で遭難する前も、頭痛は危険を知らせる警告となり、最後の試練では弾丸を避けるための合図となってくれた。

 なんとなく分かる。もう頭痛は起きない。だから一人で向き合わねばならない。柚果と詩織を死なせてしまったことに。

 息が喉に絡まって苦しい。あまりにも荷が重すぎる。せっかく生き返ったのに、暗闇に囚われたまま。後悔から逃げずに生きてやる。そう覚悟したはずなのに、どうやって後悔と向き合えばいいのだろう。そのことばかり考えて止まないが、答えは見つかりそうにない。

「真波?」

 仰向けのまま、声のしたほうへ目をやる。病室の引き戸は開いていた。二人がベッドのそばに駆け寄ってくるまで、彼女たちが誰なのか認識することは出来なかった。ふわくしゅパーマの少女と、ほぐした三つ編みの少女。

 真波は徐々に呼吸が乱れてきて、目が熱くなる。

「真波!」

 柚果と詩織が身体にとびついてきた。布団の上に落ちたのは花束だ。夢だと思った。しかし、真波は確かに二人の手に腕を掴まれている。二人は涙に濡れた顔を上げた。間違いなく柚果と詩織だ。

「どうして……どうして……」

 言いたいことがたくさんあるのに、真波は、言葉が詰まって仕方ない。

 詩織が泣きじゃくりながら、懸命に言葉を繋ぐ。

「もしかしたら……。もしかしたら真波が目を覚ますかもしれないからって、柚果と二人で飛行機に乗って来たの! だって、修学旅行の最後の日になっても、真波、全然目を覚まさないんだもん!」

「ごめんね、真波、私のせいで……」

 今度は柚果だ。「真波、あの吹雪の中、私たちを探しに来てくれたんでしょ? 本当に、本当にごめん! 私たち、本当は探しに行かなかったの!」

 真波は丸くした目で、二人をまじまじと見比べた。詩織が申し訳なさそうに口を開く。

「あのとき、一度は外に出たんだけど、寒すぎて……しばらく歩いたあと、諦めて、別の扉から施設の中に戻ったの」

「結局、落し物センターに行ってみようってことになって、そしたら、見つかって」

「でも、戻ったら真波がいなくなってて。施設の中探し回っても、どこにもいなくて。全然、帰ってこないから……」

「本当にごめんね!」

「ごめんね、真波!」

 二人は布団に顔をうずめた。二人の呼吸が伝わってくる。

 真波は顔を震わせていた。鼻から息を吸うとズルズルと鳴って、息をしているのに息苦しい。声を出そうとすると、何かが溢れ出しそう。こんな感覚、何年振りだろう。

「良かった……ほんとうに、良かった……」

 真波は涙をこらえながら、声を絞り出した。それでも、こぼれた涙が目尻を伝う。

 柚果と詩織は真波を見ると、二人で顔を見合わせた。

「真波が泣いたとこ、初めて見た気がする」

 柚果の言葉に、二人は涙に濡れた顔を笑顔に変える。

 真波は照れと安堵の息を吹き出しながら、表情を横に伸ばしていた。顔の震えも嗚咽も止まらないが、最高の笑顔のつもりだった。

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