22 もう一つの世界へ

 真波はスキー場に併設されたレストランの中にいた。窓の外は、七年前と同じくらいの吹雪。急に風が強くなり、スキー場は一時営業中止になったのだ。

 七年前に兄と茂みの中で身動きが取れなくなったあのあと、どうやって助かったのだろう。真波は窓の外の吹雪をぼやかしながら、考えに沈んでいる。

 同じ学校の生徒のほか、他校の修学旅行生や一般の観光客が一堂に介している。そのせいで人口密度は高く、話し声が入り混じってガヤガヤしている。

「急だったな」

「俺まだ全然滑ってねー」

 耳をすませば、不満の声があちこちから聞こえてくる。

「やばい! スマホなくしたかも!」

 突然部屋中に響き渡った声は、柚果のものだ。雑踏が一斉に首を向ける。

 はじまった。真波は心臓がギュッと締め付けられ、そのせいで全身の血液の流れが一瞬速くなったのを感じた。頭の中から回想が消える。

 平然を装いながら、振り返る。柚果はウェアのあらゆるポケットをごそごそと手でかき回していた。想像以上に慌てた様子だった。

「ほんとにないの?」

 隣で詩織が心配そうに見ている。

「ほんとにどこにもないんだもん!」

 柚果は蒼白な顔で怒鳴った。「どっかに落としたのかな」

「そうかもね。最後に使ってたの、いつだっけ」

「えっと……あ、三人で写真撮ったとき! ほら、ちっちゃい男の子がぶつかってきてさ、詩織の自撮り棒が壊れちゃった、あのときよ!」

「男の子に巻き込まれて転んだときに、スマホが落ちたってこと?」

「絶対そう!」

「転んだあとも柚果はスマホを持っていて、滑る前にポケットにしまってたよ」

 真波は思わず口を挟んだ。このままではなんの関係もないあの男の子のせいになってしまうと思ったからだ。

「じゃあ、私がどこで落としたって言うのよ」

 柚果に睨まれる。しかし、怒りより焦りのほうが強いらしく、鋭い目はすぐに泳ぐ。

「どうしよお。彼氏からのLINE、いっぱい溜まってるよお。早く返さないと、心配かけちゃう」

「柚果の彼氏、連絡魔で心配性だもんね」

 詩織は柚果の背中を撫でている。柚果は次第に涙目になる。

 真波は正直呆れていた。たかがスマホごときで……

「私、ちょっと探しに行ってくる!」

 え? 真波は耳を疑った。

「柚果、大丈夫? 私も一緒に行こうか?」

 詩織まで……

 真波は慌てた。二人は本気のようである。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。

「ちょ、ちょっと待って。本当に探しに行くの? この吹雪の中を?」

「だって仕方ないじゃん。彼氏に早く連絡返さないとまたケンカになっちゃうしさ、スマホないと退屈なんだもん」

「いやいや、こんな広いスキー場で落としたものなんて、そう簡単に見つかるわけないじゃん。それに、外は吹雪なんだよ? 下手したら遭難するんだよ?」

 遭難。口にした瞬間、その言葉が頭の中を支配した。何か重大なことを思い出しそうな、脳味噌がむず痒い感覚。

「遭難なんて、真波は大袈裟だなあ」

 詩織が笑った。「雪の中を歩くのって、結構身体があったまるから、大丈夫だって」

「それがダメなんだって!」

 自分でも驚くほどの怒鳴り声だった。高鳴る心臓、熱くなる体温。遭難という言葉に誘発された尋常じゃない焦りだった。周りの目やひそひそ話に気づいて、真波は声のボリュームを絞る。

「体温が上がるってことは、必要以上に体力を消耗しているってこと。その熱さえ奪われたら、嘘みたいに寒さで動けなくなる。それに見なよ、外が真っ白になるほどの吹雪なんだよ。自分がどこにいるかさえ分からなくなるんだよ」

 真波は窓の外を指さした。施設の中が暖かいからといって、あれを単なる映像と捉えてはいけない。よく見ると風で窓が揺れている。

 どうしてここまで遭難という言葉に怯えるのか、自分でも分からない。大事なピースが欠けているようで、その正体を掴めずにいる。ただ、吹雪は簡単に人を生命の危機に晒してしまう。そのことをよく知っている。

「別にさあ、真波も一緒についてきてって言ってるわけじゃないでしょ」

 柚果はだんだんイライラしてきた様子だった。「それとも何? また説教?」

「そんなつもりじゃ」

 昨日ケンカしたときの感覚が足元から駆け上がってきて、萎縮する。声が震える。

「ただこれは、命に関わる問題で」

「私にとって、スマホは命ぐらい大切なものなの!」

 柚果の怒鳴り声に、真波は震え上がった。柚果の息は荒く、目も顔も真っ赤である。

「柚果、あんまり大声で話すと、先生に気づかれちゃうかも」

 詩織が真波にも聞こえる音量で柚果に耳打ちする。「吹雪、今ならちょっとおさまってそうだし、先生に気づかれないうちに、早く探しに行こ」

 どうして分かってくれないの? その怒りは怯えて、身体の外へ出ようとしない。

 真波は下を俯いていたが、柚果の影が近づいてきたのが分かった。柚果は小声で、けれども確かに怒気を込めて言い放った。

「先生に言ったら、今度こそ許さないから」

 寒気に全身を囚われる。ざわざわという周りの雑音が遠のいていく。

 柚果と詩織が行ってしまう。今度は仲直りできない気がする。このままじゃ、友達がいなくなってしまう。

 待って。置いていかないで。私も一緒に探すから。真波は震える足を踏み出した。

 足を止める。頭痛がした。今までとは違う、締め付けるような継続する痛み。頭痛が二人の元へ行かせてくれない。

「放っておきなよ」

 声がした。それと同時に、頭痛は引いた。

 振り返えると、冷ややかな目をした高根が立っていた。

「スマホが命と同じくらい大事だなんて、馬鹿馬鹿しい。縁を切る良い機会じゃん。これ以上関わっても、小田原さんが苦しむだけだよ」

「でも、このままじゃ二人が……」

「小田原さんは二人を止めた。にも関わらずあの二人は、この吹雪の中スマホを探しに行った。俺はその一部始終を見てた。小田原さんにはなんの責任もない。それで良いじゃん」

 真波は責任の心配をしていたわけではない。二人の身を案じていたのだ。高根の言い方には内心腹が立った。

「無理をして友達でいることになんの意味があるの? 辛い思いをするだけじゃん」

「どうしてそんなこと分かるのよ」

「言ったでしょ。小田原さんは俺と同じ種類の人間だって。馬鹿と一緒にいて、損をするのはいつだって真面目なほうの人間だ」

 確かに、真波は二人とは違う。修学旅行の前日、美術室で高根に言われた言葉を頭の中で反芻していた。

 柚果や詩織と違って、真波は校則や約束を破るようなことはしない。他人が傷つくことがなんなのかも分かって、それをすることはないし、口にすることもない。だからこそ、人に土足で踏み入られたくない悩みだってある。

「そろそろ認めなよ。あの二人と小田原さんは、最初から、友達になるべきじゃなかったんだ」

 友達。その言葉によって記憶から引き出されたのは、ほかでもない楽しい思い出たちだった。一緒に図書館で勉強したこと。吹奏楽部で、一緒に夜遅くまで練習したこと。しゃべりながら一緒に帰ったり、休日に一緒に遊びに行ったりしたこと。どれも随分前の出来事だ。

 でも、それが真波の青春だった。反りが合わなくて思い悩んだ日々も同じ。仲直りが、あんなに胸がいっぱいになるものだと知らなかった。二人と親友にならなきゃ、得られなかったもの。それを蔑ろにされたような気がして、沸々と腹が立ってきた。

「どうしてそんなこと言われないといけないのよ……友達でもなんでもないくせに!」

 高根の見開いた生気のない目は、真っ直ぐ真波を見つめたまま静止していた。

 怒りの矛先にいるのは高根だけではない。真波自身もだ。ようやく分かった。柚果や詩織とすれ違いが生じてしまったのは、高根のいう違う種類の人間同士だったからではない。真波がちゃんと二人に向き合ってこなかったせいだ。

 『親友』という言葉に縛られていたのではない。自分が『親友』という言葉を縛っていた。失いたくなくて、二人に気を遣ってばかりいた。自分のことしか考えていなかった。二人のことをちゃんと思っていたなら、反発されても立ち向かえただろう。自分に無性に苛ついてきた。

「友達とか親友とか、そんなのもうどうだっていい! 私は二人のことを大切に思ってる。だったら立ち向かわなくちゃ。高根くんは私のこと、なんとも思ってないんでしょ? じゃあ、ほっといてよ」

 真波は駆け出した。溶けた黒い雪で、床が滑りやすくなっている。レストランの外にも大勢の人がいた。みんな真波に注目していることに気づいたが、もうどうでも良かった。

 ちょうど開いたエレベーターに乗って、一階へ。辺りを見渡す。柚果と詩織の姿はない。すでに外に出たのだろう。

 ガラスの外は吹雪で真っ白で、数メートル先の景色がなくなっている。重たいはずの扉が風に押されている。この辺りに人が少ないのは、外の冷気が停滞しているからだろう。

 高根のあまりにも無気力な顔が頭を過った。苦味が胸から込み上がってきて、足を止める。高根に酷いことを言ってしまった。絶対に嫌われただろうな。割といい雰囲気だったのに。でももう、後戻りはできない。

 開けていたジャンパーのチャックを首元まで閉め、ポケットに入れていたネックウォーマーとニット帽と手袋をつけた。先生や同じ学校の生徒の目がないことを確かめながら、扉に近づく。外はまったく歓迎されない雪の嵐。

 一思いに扉を押し、隙間に身を滑り込ませる。身体が浮くほどの風と寒さ。目を開けていられない。一歩、一歩と足を踏み出す。夢の中のように、思い通りに進めない。

「柚果ー! 詩織ー!」

 自分の声もよく聞こえない。真波は身を縮めながら、とりあえず前に進んだ。

 二人ともすぐに見つかるだろうと思っていたが、浅はかな考えだった。前後左右真っ白。そんなに歩いたつもりはなかったが、背後の赤い建物さえ、吹雪が強くなると見えなくなる。

 引き返したい甘えはなかった。真波は二人の名前を何度も叫んでいた。ちゃんと向き合いたい。後悔したくない。もしそれでまた喧嘩になって、今度こそ親友じゃなくなったとしても、悔いはない。親友だった事実は、きっと楽しかった思い出として残る。

 捜索範囲は絞られているはずだった。柚果がスマホを落としたと認識している、小さな男の子とぶつかってからは、特にどこへも立ち寄らずに施設へ戻ったのだから。速い段階で、場内アナウンスで施設に避難するよう指示があったのだ。

 けれでも、二人の返事はない。人影もない。どんどん白い冷たい闇にはまっていく。

 身体はある程度の熱を保っていたが、急に震えてきた。寒い。顔が冷たい。

 吹雪はおさまるどころか、無情に勢いを増す。冷静になって考えてみれば、誰か大人に知らせるべきだった。しかし、もう後戻りはできない。体力的な問題でだ。

 この寒さ、凍った身体の重み。ふと、七年前の感覚と、同じだと思った。

 真波は頭を押さえて、雪の上に跪いた。頭痛だ。痛くて悶える。こんなときに。警告のようにガンガン頭の裏を殴られる。

「お兄ちゃん」

 声が聞こえた。それは自分の声だった。幼いころの自分。

「ごめんね、真波のせいで……」

「泣くな」

 兄の声——七年前の会話だ。真波が真吾を連れてスキー場の茂みに入り、真吾が窪みに落ちて足をくじいたあと、二人とも吹雪の中で立ち往生になった続きである。

「泣いたって、現実はどうにもならないだろ?」

 真波は幼いころは泣き虫だった。よく真吾にそう言われたものである。

「そうだけど……」

「真波は笑ってるほうがかわいいんだ。二人で無事に助かって、父さんと母さんに会えるまで、泣かないって、約束な」

「うん、分かった」

「でも、めちゃくちゃ怒られるだろうな。母さんなんて、こんな顔になって」

 このとき、真吾は般若のような変顔をしてくれた。幼い真波は不安を忘れて、声を上げて笑った。

 そんな心地よい時間も束の間。吹き付ける大量の氷雪は、二人から体力も会話も奪っていった。顔に張り付く雪を払う気力すらなくなったのは、今も同じ。

「ごめんな、真波。兄ちゃん、頼りなくて、歩けなく、なっちゃって」

「真波のほうこそ、ごめんね。でも、絶対にパパとママが、迎えに来てくれるよね!」

「そうだな。真波、寒くないか?」

「うん、寒い」

 真吾は力なく微笑むと、着ていたジャンパーのチャックを開け、真波を包み込むように抱き寄せた。

「お兄ちゃん、あったかい」

 今。真波は雪の上に横たえていた。体力の消耗と頭痛で、意識は七年前の記憶の中をさまよっていた。身体がなんだかあったかい。まるであのときみたいに、兄に包まれているよう。それは思い出の幻覚か、単なる身体の麻痺か。

 鼓動のような頭痛。襲ってくる睡魔。朦朧とする意識。

 ああ、そうだ、思い出した。

 静かに、虚しく、真波は過去の後悔に沈んでいく。

 兄の胸の中で目を閉じたあと、幼い真波が最初に見たのは、泣きじゃくる母の姿だった。そのとき真波は知らない部屋で、ベッドの上に横になっていた。

 状況は母の代わりに、看護師から聞いた。当時もスキー場の営業が中止になったほどの吹雪だったらしい。真波と真吾は救助隊に発見され、なんとか一命を取り止めた。

 しかし、救助を待たずに二人を探しに行った父が、遺体となって発見された。茂みの近くに真波と真吾のスキー板が置いてあったことから、父は母を残して一人で茂みの中へ捜索に行ったのだ。二人は窪みに落ちていたことで容易には見つけられず、茂みの奥へ奥へ入り込んでしまったのだ。

 父が死んだのは真波のせい。真波が真吾の反対を押し切って、茂みの中へ入らなければ。白いうさぎを見ただなんて、真吾の言う通り、雪を見間違えただけだったのかもしれないのに。

 父の葬式で、真波は泣かなかった。泣くな。泣いたって現実はどうにもならないだろ? 記憶の中の兄の言葉だけが心の支えであり、償いだった。

 泣くこと以外にも、喜怒哀楽を失ったのは必然。兄がそばにいれば、少しは笑えたのだろうか。来る日来る日を後悔で埋め尽くしながら呆然と過ごしていたら、こうして七年前と同じ雪の中で凍えている。

「お父さん……お兄ちゃん……」

 お兄ちゃん、いつ起きるの? 何度母に聞いただろう。兄は一命を取り留めたが、真波と一緒に発見されてから七年間、病院でずっと眠り続けている。

「ごめんなさい……」

 声にならない声で呟きながら、真波は瞼を閉じた。



 ――意識を、失っていたのだろうか。頭痛が止んでいる。深い眠りから覚めたようなすっきりした感覚。

 一方で気味が悪いのは、目を開けているはずなのに何も見えないことだった。辺りは均質な暗闇。寒いも暖かいも感じない。地面と接する身体が触れているのは、無数の柔らかい小さな広葉ということだけ知ることができる。さっきまで冷たい雪の上だったはずなのに。

 不安が込み上げてきて、思わず声を出す。

「ここは、どこ……? 私は、誰……?」

「君の名前は、ミランダじゃ」

 どこからともなく聞こえてきた、聞き覚えのある老爺の声――

 ミランダは、勢いよく息を吸い切った。同時に、四つ目の鍵が見せてくれた映像は終わった。

「すべて思い出したようだな」

 ミランダを見下ろす、大きな剣を担いだ無愛想な剣士・ジェラード。

 ミランダはまだ、心臓の高鳴りと息切れが収まらない。

 思い出した。すべて。自分が何者であるか。悲しいときに、どうして泣けないのか。

 私は、真波だった。

「お前もここに来たとき、老いぼれた爺さんに会っただろう。そいつに言われなかったか? 記憶を取り戻したければ、城へ向かえと」

 ジェラードは、ミランダの手から溢れた鍵を拾い上げた。「俺たちが失った記憶は城にあるんじゃない。城に行くために必要な四つの鍵を集める過程で、思い出すってことだったんだ。お前もここへ来る前、事故かなんかで、命を落とすところだったんだろ」

「じゃあここは、死後の世界ってこと……?」

 極度に声が震える。

「いや、違う」

 震えが止まる。ミランダはジェラードを見上げた。

「俺たちはなんのために戦ってると思う? なんのために命がけで鍵を集めて、城へ行って、三つの試練とやらに挑まないといけない? 試練を乗り越えたら俺たちはどうなる? 爺さんは答えなかったが、こう言われなかったか。ここは、もう一つの世界だって」

 ミランダは答えを悟ったが、衝撃と絶望のせいで言い表せなかった。

「俺たちが城を目指して試練に挑む理由。それは、意識を取り戻すためだ。逆に言えば、この世界で消えることは本当の死を意味する。この森は、城を中心に島になっているんだろう。陸とは反対側に流れる波にのまれたら、たどり着くのはあの世。一寸先は死ってわけだ」

 ジェラードは天を仰いだ。ミランダは視線の先を追った。山の頂上。冠雪のような真っ白な城。城は常にミランダたちを見ているように、左右対称である。

「ここは、意識不明の重体となった者たちが堕ちる世界。生と死の狭間にある、もう一つの世界だ」


《12/16(木) 日売新聞ネット記事》

 十五日、吹雪吹き荒れるスキー場で複数の高校生が遭難。発見されるも、意識不明の重体。神奈川と大阪から訪れた修学旅行生。

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