20 十字架

 スキーウェアは想像以上に動きづらい。真波は積もった雪に足を取られながら、スキー板を担ぎ、一人あてもなく歩いていた。結局仮病を使う勇気もでず、時間だけが経った末路である。

 一般の観光客も大勢いるようだ。楽しそうな声があちこちから聞こえてくる。それでも、広大な札幌国際スキー場ともなれば人工密度は低い。カラフルなミニチュアサイズの人々が、ゲレンデの上にまばらにポツポツと点在している。白銀の世界とは言えないところだけが残念だった。太陽が雲に隠れて、一面灰色がかっていた。

「ちょっと、真波!」

 背後から声がした。一気に寒さが増した。真波なんて呼び方をする人は、女子でもあの二人以外にいない。悪口の一つや二つでも言われるのだろうか。真波は恐る恐る振り返った。

 詩織が息を切らしながら、小走りでやってくる。詩織はニット帽の下から二本の三つ編みを垂らしている。後ろには柚果もいた。

「一人でどこ行くのよ」

 その答えを、真波自身も知らない。なんと言えばいいか分からずまごついていると、詩織は「もうっ」と言って、スキー板を持っていないほうの腕を上から下に振った。何を恥ずかしそうにしているのだろう。

 詩織は地団駄を踏みながら、ついに口を開いた。

「ごめんね! 昨日は、その、言い過ぎた。だって、せっかくの修学旅行じゃん。ケンカしたままの思い出にしたくないでしょ」

 真波はきょとんとした。完全に見放されたと思っていたからだ。ましてや二人のほうから謝ってくるなんて、今までにあっただろうか。二人のことを、謝ることもできない身勝手な子たちと心の中で決めつけていた。申し訳ない気持ちが込み上げてきた。

「私のほうこそ、ごめんね」

 今まで仕方なく口にしていたごめんねとは違う感覚。仲直りって、なんだかくすぐったい。

 詩織が「ほら、柚果」と、後ろを向いて柚果を促す。柚果は真波と目を合わせないまま、小さく口を動かした。

「ごめん」

 それでも嬉しかった。柚果と一瞬だけ目が合った。柚果は恥ずかしそうに笑った。真波も表情を緩めた。

「ほら、早く滑りに行こっ」

 詩織に押される。灰色のゲレンデがパッと輝いて見えた瞬間だった。寒さも気にならなくなった。

 あまりスキーをやったことがないらしい二人から板の付け方や滑り方やらを聞かれる。柚果と詩織はさっきまでの気まずさをもう忘れたように、大きな声で笑いながら話しかけてくれる。久しぶりに感じた、温かな友情だった。

 二人に教えながらスキー板を足につけ、リフトへ向かう。真波にとってスキーは約七年ぶりだったが、毎年のように家族でスキーに行ったときの感覚は割とすぐに取り戻せた。柚果と詩織がふらついたり転んだりするのを手助けするなかで、真波はいつもより自然な愛想笑いで二人の会話に溶け込めている感じがした。

 リフトのそばの斜面からは、もう数名のクラスメイトが滑ってくる。見覚えのない高校生らしい若い顔ぶれは、違う高校の修学旅行生だろう。

「何してんねん!」

 聞き覚えのある女子の関西弁が聞こえてきて、真波は振り向いた。ゴーグルを額に上げたその女子は、斜面を転げ落ちてきた男子に対して大笑いしていた。男子は雪に身体を埋めたまま、ゴーグルを外した。

「受験勉強のしすぎで、重心が前に傾いとるせいやなー」

「そんなやつおらんやろ」

 身体を震わせながら笑っている男子がもう一人。ゴーグルを外さなくても分かる。彼らは美術館で出会った、あの関西弁の男女三人組に間違いない。転んでいるのが、よく女子に噛み付いていた、橙色のニットを着ていた男子だろう。

「ほんまそれ。てか、そんな勉強してへんやん、自分」

「やばい、はまった」

「もう、何やってんねん」

 転んでいた男子は、二人に支えられながらなんとか立ち上がる。

「真波、進んでるよ!」

 リフトの列が、真波の前で途切れていた。前方の柚果と詩織を慌てて追いかける。

 あの三人が気になって、真波はもう一度振り返ったが、同じようなスキーウェアの人々に紛れて分からなくなった。また列を堰き止めるのも周りの迷惑になる。諦めて詩織と柚果の話に意識を向ける。

 リフトは二人乗り。もうすぐ順番が回ってくるところで、柚果と詩織はそわそわと顔を見合わせた。

「二人で乗りなよ」

 ケンカしたあとだったから一度は気を遣ったのだろうが、二人は安心したような表情を見せた。別に、真波は三人の中の上位二人になりたいとまでは望んでいない。

 柚果と詩織の順番が回ってきた。二人はあたふたしていたが、係員に助けられながらなんとか乗れた。リフトの上でキャッキャッと騒ぎながら遠ざかっていく。

 次は真波の番。だが、うわあ、という耳につく男子の叫び声に、女子と男子が大笑いする声が聞こえてくると、反射的に声のしたほうへ振り返っていた。あの関西弁の三人組が、どうも気になって仕方なかった。やっぱりどこかで会ったことあるんじゃないか。そう思えてならなかった。

 急に太ももの裏がリフトの椅子に押されて、体勢を崩す。真波は思わず叫び声を上げる。

「大丈夫?」

 誰かに腕をぐいっと持ち上げられて、リフトに座らされた。無事に足は宙に浮いている。一瞬の出来事だった。今頃心臓がバクバクし出す。

 隣を見て、高根が座っていることに気付くと、吸い込んだ息に咽せそうになった。

「なんか、ごめんね。一緒に乗ることになっちゃって」

 高根が助けてくれたのだ。予想だにしない展開に、真波は思わず身振りを大きくして取り乱す。

「い、いやいや、全然! た、助けてくれてありがとう」

「小田原さんって、結構おっちょこちょいだよね」

 口元に滲ませた微笑。それに対して、長い前髪から覗く目は相変わらず生気が宿っていないように見える。それらの融合によって醸し出されるミステリアスに、どうしても引き込まれてしまう。真波は誤魔化すように、話を展開されることに努めた。

「そ、そうかな。さっきは、ちょっと気を取られちゃって。覚えてる? 昨日、美術館で会った関西弁の」

「ああ、あの三人組。あの人たちもこのスキー場に来てたんだ」

「そうみたい」

「あ」

 高根が突然、思い出したように声を上げた。「なんか、写真撮られたみたいだったけど、大丈夫?」

 高根は前方を見ていた。高根の視線の先を見ると、スマホを構えた柚果と詩織が、笑いながら前に向き直るところだった。

「ごめんね。もう……」

 湧き上がった苛々に思わず顔が歪む。仲直りをしたからといって、二人のこういうところが直るわけではない。少しでも期待した自分が馬鹿だった。

 これをきっかけに話は途絶えた。高根は何も気にしていないように真っ白な景色を眺めている。何か話しかけたら、また柚果と詩織がこっちを見るだろうか。いや、沈黙を見られるほうが恥ずかしい。でも、何を話せばいいんだろう。真波は気まずくて仕方ない。

 同じ二人きりでも、昨日一緒に商店街を巡ったときとはわけが違う。商店街なら、目に入ったものを注視して沈黙を気にしていないふりをしたり、適当に話題にしたりできるのだが、ここは雪しかない真っ白な空間である。リフトは白い林の上を、苛立つほどゆっくり進んでいく。ふわふわと舞い落ちてくる雪の結晶。降り場は見えず、道のりはまだまだ遠い。

 柚果と詩織はもう自撮りに夢中なようである。こういうときに、スマホをツールにすぐに話題を作れるところを羨ましく思う。

「そういえば小田原さんって」

 真波は驚きと期待で目を大きくさせて、振り向いた。せっかく高根が振ってくれた話題だ。うまく話を膨らませたい。

「絵、上手いよね」

 ピンとこなかった。高根に絵を披露したことなんてあっただろうか。

「ほら、少年に手を伸ばす、白い女の人の絵。昨日、バスが学校から出発する前に、ちょっと美術室に行く用事があってね。見ちゃったんだ」

 高根の後ろの白い背景をぼやかしながら、高根の言葉を反復する。

「あ!」

 真波は大きな声を上げた。「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 思い出した。修学旅行出発日の前日、高根の絵のモデルをした際、高根の絵を白い絵具で汚してしまったのだ。暗闇の中、白い絵具で隠れてしまった何かに手を伸ばす少年の絵。どうしたらいいか分からず、飛び散った白い絵具をなぞって、少年に手を伸ばす白い女性の影に仕立てたのだ。

「いいよ、別に怒ってないし。あの絵は来週コンクールに出す予定だったんだけど、自分でもしっくりきてなかったから」

「でも……」

 頭の中のパニックは収まらない。身体が熱い。あんな失態を犯して、素直に許してくれる人なんているのだろうか。というか、なぜこんな大事なことを忘れて、高根と過ごす時間に浮かれていたのだろう。自分で自分が恥ずかしい。

「本当にいいって。むしろ感謝だよ。あの女性はナイスアイディアだと思う。ちょっと手直しはさせてもらうけど、あの絵ならコンクールに出しても自信が持てる。だからもう、気にしないで」

「ほんと?」

「ほんと」

 この話になってから、真波は初めて高根の顔を見た。無気力な微笑みは、怒りを隠しているようには見えなかった。

「良かったあ」

 真波は全身の空気を吐き出すように胸を撫で下ろす。せっかくだから、この話題を広げよう。

「ねえ、ちなみにあの絵は、誰がモデルになってるとかあるの?」

「モデルってわけじゃないけど、あの少年は、俺自身かな。ちょっと引いた?」

「全然そんなことないよ! すごく素敵だと思う。じゃあさ、あの男の子は、本当は何に向かって手を伸ばしてたのか、聞いてもいい?」

「大したものじゃないけど……十字架」

 真波は一瞬強張った。答えが漠然と期待していた分類と大きくかけ離れていた上に、思い詰めているように聞こえたからだ。聞き間違いかと思って、聞き返す。

「どうして、十字架なの?」

「自分に存在価値がないからだよ」

 聞き間違いではない。高根の声は低く、遠くを眺めているその横顔に微笑みは微塵もない。

 真波は何も言い出せないまま、「冗談だよ」と微笑んでくれるのを待っていた。しかし、高根は表情をそのままに、突然身の上話を始めた。

「俺、父親に育てられたんだ。母さんは、俺を産んですぐに死んだらしい。父さんは俺が不自由を感じないように、家事とか俺の世話とか、仕事が忙しいのに全部やってくれてた。仲はずっと良くて、休日には公園でキャッチボールしたり、ドライブに行ったり、授業参観の日には有休をとって来てくれたり。父さんは今でも、俺との時間を極力作るように努力してくれてる。いい父親だと思う。感謝してる。でも」

 高根の声は、さらに低くなった。「俺が十歳のとき、めったにしなかったケンカをしたんだ。その時期、仕事がかなり忙しかったみたいで、男手一つで俺を育てることへのストレスも、かなり溜まってたんだと思う。酒の勢いもあってか、それまで経験したことがなかったほど、怒鳴られた。そのとき言われたんだ。お前さえ生まれてこなければ、母さんは死ななかったのにって」

 真波は、身体が鉛になったかのように重く感じた。首元から忍び込んできた冷たい風が、全身を弄ぶ。苦痛を表情に出さないようにするにも、どんな顔をすればいいか分からない。

 高根はそんな真波に気付いてか、慌てて微笑んだ。

「あ、でも、父さんはすぐに謝ってくれたんだ。土下座までして、今まで見たこともないくらい泣いて。ほんとうにすまない、今のは勢いで言ってしまっただけで、そんなこと思っちゃいないって。俺も父さんを許したよ。それからしばらくはギクシャクしてたけど、今では元どおり仲がいい。けどさ、父さんはもっと母さんと一緒に暮らしたかっただろうし、それが叶わずに母さんが死んでしまったのは、俺が生まれてきたからなわけで」

「それは違うよ」

「事実だよ」

 高根に睨まれた気がして、真波は萎縮した。見ていてどんどん闇に飲まれていく高根を救おうとした言葉だったが、振り払われた。

「だから俺、父さんにあの言葉を言われたとき、泣けなくてさ。めちゃくちゃ悲しかったけど、事実なんだって思ったら、呆然と突っ立ってることしかできなかった。それからずっと、ぼーっと毎日を過ごしてる。自分には存在価値がない。そう思ったら、喜怒哀楽も何も感じなくなった。俺は父さんを許したって言ったけど、愛想笑いしかしなくなった俺を見て、父さんは今でも相当後悔してるんだと思う。親子で明らかに気を遣うようになったし、学校も能天気な奴らばかりで息が詰まる。死んだ母さんが好きだったっていう絵を描いている時間だけが、俺の生きがいなんだ。でも、俺の空っぽな人生じゃ、暗い絵しか浮かばない……って、ごめんね! 小田原さんにこんな話しちゃって。小田原さん?」

 高根は思い出したように笑ったが、真波は俯いたまま思い詰めていた。高根の闇は、頭を絞られるような痛みと吐き気をもって思い知ることができる。いつしか真波は、高根の話をBGMに、自分のことを考えていた。

 重たい雪を被った林が足元で流れる様子を、じっと見つめる。

 存在価値。真波は自分のそれから目を背けつつも、必死に補おうとしながら生きてきたように思う。母が心配しないように学校に馴染もうとしたり、そのために笑顔を繕ったり。

 高根に存在価値がないというなら、自分はどれほど惨めなんだろうか。七年前、ここと同じような雪山で、父を死なせてしまった自分は。

「高根くんは、何も悪くないよ。価値だってある。少なくとも、私よりは」

 だから存在価値がないなんて言わないで。私が惨めになるじゃない! 頭の中ではそう叫んでいた。

「だって私は、お父さんとお兄ちゃんを!」

 頭を押さえて、前のめりになる。リフトが揺れる。そのせいだけじゃない。頭がぐわんぐわんして視界が歪む。息が詰まるほどの痛み。じんわりと引いてきた。でも、何を言おうとしていたんだろう。何の話をしていたのだろう。いくら思い起こそうとしても、思い出せない。

 高根に身体を支えてもらっていることに気付いて、慌てて体勢を戻した。

「大丈夫?」

「ごめん、ちょっと頭痛が。でも、もう大丈夫だから」

 笑ってごまかそうとする。高根は真波の顔を凝視していた。

「な、何?」

「いや、小田原さんって、真顔が綺麗だと思ってたけど、笑ってる顔もいいんだなって」

「ちょっと、変なこと言わないでよ」

 顔がカッと熱くなる。平然を装おうとするが、お互いほとんど同時に吹き出した。真波自身、それは愛想笑いという感覚ではなかった。突っかかっていたものがとれたような。

 降り場が見えてきた。まだ一緒にいたいと思いはじめてすぐのことだった。前方の柚果と詩織がはしゃぎながらリフトを降りたあと、真波と高根も固い雪の上を滑る。じゃあ、と言って、高根は慣れた様子で滑っていった。

「ちょっとお、高根と何話してたのよお」

 すかさず詩織が話しかけてきた。

「見て見て、リフトに乗ってる二人の写真。真波と高根って、結構お似合いじゃーん」

 柚果がスマホを見せてくる。

「ちょっと」

 いつもの調子で注意したつもりが、本音は満更でもなく、なんだか照れ臭かった。

「滑る前に三人で写真撮ろっ! 詩織、自撮り棒」

「はい。こっちの斜面ギリギリのところで、上から撮ったらいい写真撮れるんじゃない? ほら、真波も早く!」

 柚果と詩織に両腕を組まれる。こんなに心と身体の距離が近く感じるのは、いつぶりだろう。

 斜面のギリギリ手前、ど真ん中。広大なゲレンデを背後に従えて、三人横一列で並ぶ。柚果が自撮り棒を掲げる。さすが、カメラワークは完璧である。柚果は片目にピースを押し当て、詩織は片頬を膨らませるお決まりのポーズをとる。

 真波は両手でピースを作り、脇の前に構えていた。せっかくだ。歯を出して、目一杯頬を持ち上げる。

「どう? いい感じ?」

 一枚目を撮り終え、柚果が写真を確認する。

「なんか真波、こんなに笑ったとこ、初めて見た気がする」

 どれどれと、詩織がスマホの画面を覗き込む。

「ほんとだ! 真波、絶対に思いっきり笑ってたほうが可愛いよ!」

 二人とも真波の目を真っ直ぐ見て褒めてくれるが、突然自分が別の誰かになったかような不思議な感覚だった。高根にも同じようなことを言われたのはまぐれではなかったらしいが、自分がどんな顔をしているのか想像もつかない。

 柚果のスマホ画面を見た。確かにそこには、満面の笑みの自分が写っていた。こんな自分、見たのはいつぶりだろう。

「続き撮るよー!」

 柚果は自撮り棒を再度伸ばすと、何枚も連続で撮り始めた。柚果と詩織は微妙に顔の角度を変えたり、いろんなポーズを試したりしている。真波もいい気になって内カメラに笑顔を向けていた。

 しかし、少々長い。真波は人目も気になり出してきた。ここはコースのど真ん中だ。ちょっとの時間写真を撮るくらいなら邪魔にならないだろうと思っていたが、明らかに嫌悪の目で見られている。口角が重くなる。

「ねえ、もうそろそろいいんじゃない?」

「もうちょっとお。いいポジションなんだから、いい写真撮りたいじゃない」

 柚果は自撮り棒を下ろさない。詩織も構わずカメラに向かってポーズをとっている。

 嫌気が差してきた。もう笑えない。

 上のほうを見ていたから直前まで気づかなかった。スノーボードに乗った幼稚園生くらいの小さな男児がなだらかな斜面から滑ってきて、行き先をコントロールできずに真波たちに突っ込もうとしていた。

「危ない!」

 声を上げたときにはもう遅かった。男児は柚果の脚に突っ込んで、急な斜面に足を取られながら咄嗟に柚果のウェアを掴んだ。ストックではなく自撮り棒を持っていたせいで、柚果は体制を崩す。柚果と詩織にがっちり腕を組まれていた真波はどうすることもできず、二人以上の体重が乗っかった身体で詩織がスキー板を履いたまま踏ん張れるはずもない。四人は急な斜面を団子状態で転げ落ちた。

 柚果と詩織が甲高い叫び声を上げる。真波は必死に雪を掴んだ。斜面が案外すぐなだらかになるおかげもあって、なんとか止まった。

 安心したのも束の間。男児はギャンギャンと泣き出してしまった。

「すいません!」

 男児の母親らしい、スノーボードに乗った女性が真波たちのそばで器用に止まり、男児を抱えて去っていった。

 柚果と詩織と真波はお互いの身体やスキー板が絡んで、なかなか起き上がることができない。なんとかお互いの身体を引き離し、立ち上がると、柚果が大声で怒鳴った。

「なんなのよあのガキ! それに親も! 親がこっちに来たとき、雪めちゃくちゃかかったんだけど!」

「私も顔にかかった! 子供は耳元で泣くし、鼓膜破れるかと思った」

 詩織の声も大きい。

「あ、詩織! 自撮り棒壊れちゃった!」

「ほんとだ! 曲がってシャッターが押せなくなってる! これ、百均のじゃなくてちゃんとしたやつだったのに」

「ごめーん、詩織ー」

「柚果が悪いわけじゃないんだから、謝る必要ないよ」

「さっきの親子、見つけたら弁償してもらお?」

「名案! 弁償してもらう権利あるよね」

 真波が二人に抱いていた温かな友情は、冷たい幻滅に変わっていた。なに、この子たち。間違ったことを大きな声で。

「ちょっと、言い過ぎだって」

「何?」

 耐えきれずに口から漏れた言葉は、柚果の睥睨へいげいの前に儚く潰える。昨日柚果に「うっざ」と言われたとき、何かが全身を駆け巡った感覚が鮮明に蘇った。

「まあ、とりあえず滑ろ」

 明るい詩織の声が助け舟だった。

 柚果はスマホをウェアのポケットに入れようとした。

 真波は咄嗟に、足で雪を蹴った。

「真波? どうしたの?」

 詩織に声をかけられ、ドキッとする。

「ううん、なんでもない」

 柚果と詩織は転んだり蛇行したりしながら、騒がしく斜面を下っていく。真波はそんな二人を尻目に、スムーズに滑り終えた。

 斜面を見上げる。ゴーグルを外す。ゴーグルの反射かと思ったが、重たい灰色の雲が向こうの空から迫ってきていた。風も強くなりつつあり、雪が斜めに降っている。

 そういえば、七年前に家族でスキーに来たときも天気が悪かった。知らない間に雲が分厚くなり、あっという間に大粒の雪は吹雪に変わって――

 そのあと、どうしたんだろう。何か重大なことが起こったはずなのに、思い出せない。

 真波はコースの端の茂みに視線を落とした。そこに、幼いころの真波と兄・真吾の姿を投影する。真波は頭の中で、二人の後ろ姿を追った。

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