17 喧嘩
三つ目の鍵に触れた直後。ミランダはまた、異世界の光景を目の当たりにしていた。
真波という名の女子高生。彼女は右手に流れる川を眺めながら、土手の上を歩いていた。
「何バカなこと言ってんだよ!」
前方で、二人の男が揉めていた。真波と同い年か少し年上。大きなスポーツバッグを背負っているほうはガタイが良く、目つきが鋭い。もう一人は右腕を腕つりバンドでぶら提げていた。身を震わす冷たい風が吹く、夕方。
「なあ健人。俺たちは出会ったときから、一緒にプロ野球選手になろうって言ってきたじゃないか」
「だからって、なんで琉大が入団を断るんだよ! 昔から入りたいって言ってた球団に、ドラフトで一位指名されたんだぞ?」
右腕を負傷している、ひょろ長い色白の男のほうが声を荒げていた。二人に向かって歩くのは嫌気がさすが、帰る方向がこっちなので仕方ない。
ドラフト、球団、プロ野球選手。有名な高校球児だろうか。しかし、真波は二人の顔を見てもピンとこなかった。
ミランダは二人の顔をよく知っている。目つきの鋭いほうがジェラード、右腕を負傷しているのがケネスだ。
「お前と一緒じゃなきゃ意味ねえんだよ! 俺はお前と野球がやりたいんだ!」
「ふざけるな! だからって自分の夢を諦めるなんて」
「俺は諦めたんじゃない。お前と一緒にプロになるために大学へ行くんだ。お前の怪我は絶対に治る。医者がなんて言おうが、お前なら治せる!」
「無理だよ、そんなの」
「無理じゃない! お前はプロになって、親父さんに認められなきゃならねえんだろ! 孤児院の子供たちにも、夢を与えたいんだろ! 俺が待ってるから、絶対に諦めんな!」
「琉大……」
真波は歩くスピードを落としていたが、あと数歩のところでさすがに気づかれた。二人はばつが悪そうに目を泳がせる。
「とにかく、俺は大学へ行く。だから健人、お前も諦めんな」
目つきの鋭い男は、真波が歩いてきたほうへ足早に去っていった。ひょろ長い色白の男は、その後ろ姿を見つめたまま動かない。
よく分からないけど、青春だな。真波はひょろ長い色白の男の横を通ろうとした。
耳を疑った。
「誰の弟と犬のせいでこうなったと思ってんだよ」
穏やかそうな顔立ちの男の口から、本当に発せられた声だったのか。真波は怖くて、何も聞かなかったように装った。顔を前方へ固定したまま、足は止めない。それでも、横目で男の顔を一瞥する。男の表情は、殺気に満ち溢れているようだった。
「殺す」
真波は震え上がった。しばらく歩いても、恐怖は落ちなかった。気を紛らわすために、スマートフォンにイヤホンを差し、両耳を音楽でふさぐ。
よく聴く洋楽のバラード。頭の中で一緒に歌うと、先ほどの出来事はどうでも良くなってきた。「殺す」なんて、冷静に考えたら、子供がよく口にするただの冗談じゃないか。
川から吹く風は強く、冷たい。明後日からは修学旅行。雪山の寒さはどれほどのものだっただろうか。真波は暢気に、そんなことを考えはじめた。
――鍵が見せた映像は終わった。
「鍵、預かるね」
ケネスの声がして、ミランダは震え上がった。ミランダが持っていた鍵に、ケネスが触れようとする。嫌な予感がしてミランダは鍵を強く握る。しかし、思いもよらない力で奪い取られた。
ケネスの優しい顔が、あのひょろ長い色白の男の、殺気に満ちた表情に変わっていく。
「ケネス……」
ミランダが漏らした声に、ジェラードが振り返る。
「ワンワン!」
ミランダとケネスの間の不穏な空間を、何も知らないロンが通り過ぎようとする。
そのとき。ケネスが突然、ロンを片手で鷲掴みにした。
「何やってるんだよケネス!」
ゴドウィンが怒鳴り、ケネスに向かって走る。
耳をつんざくような、おぞましいロンの悲鳴がした。ゴドウィンは後ろに引っ張られたように足を止めた。ミランダは両手で口を覆って息を吸い切った。
ロンは炎に包まれていた。炎が止むと、ロンの姿は消えていた。光の粒が、風に吹かれて漂う。
「ロン……」
ゴドウィンは呆然と立ち尽くしていた。キッとケネスを睨みつける。
「ロンが君に何をしたっていうんだ! 急にいったい、どうしちゃったんだよ!」
「あの犬が俺に何をしたかだって?」
低い声がした。確かにケネスから聞こえた声だった。ケネスは俯いている。ケネスの身体が、湯気のような薄い炎を上げているのが見える。
「俺からすべてを奪ったんだ。それはお前もだ!」
ケネスは顔を上げると、ゴドウィンに向かって炎を噴射した。ミランダは思わず両手で目を覆った。恐る恐る指を開く。ゴドウィンの前に立ちはだかったジェラードが、炎を切り裂いていた。
「まさか、お前、全部思い出したのか」
「ああ。俺にとって、さっきのが四つ目だ」
ケネスはローブの中に入れた手を開いて見せた。透明な鍵が四つ。
「ジェラード、君も一つは隠し持ってるんだろ? でも、三つじゃ肝心な映像は見せてくれない。君もあの惨劇を思い出すがいい。ほら、四つ目の鍵だ」
ケネスが投げた鍵を、ジェラードは慣れた手つきでキャッチした。その瞬間、ジェラードは大きく目を見張る。
空気を切断する音がした。ジェラードはケネスに向かって剣を振り下ろしていた。その目は憎悪に満ちていた。
「お前があの火事を……!」
火事。ジェラードは確かにそう言った。
仲間たちの豹変、飛び交う殺気。どうしてこうなったのか、ミランダは知る由もない。
「おっと。その鍵は返してもらおうか。さもなくば、こいつの命はない」
ケネスはゴドウィンの首に腕を回し、炎を纏った手をゴドウィンの頭に突きつけていた。
ジェラードは舌打ちして、鍵をケネスに放る。
「これからどうするつもりだ。一人であの城の試練を乗り越えたところで、お前に未来はない」
「どうしたんだよジェラード。あのときみたいに、望みのない希望で俺を励ましてよ。すべての始まりは君だった。君が俺に野球なんて教えなかったら、こんな思いをすることなんてなかったんだ! もう少しで、夢が叶うと思ったのに。あの犬とこの、お前の弟さえ道路に飛び出さなければ、俺が事故に遭うことはなかったんだ!」
ケネスはゴドウィンを突き飛ばした。ゴドウィンは地面に倒れる。ケネスはゴドウィンに向かって炎を打つ。ゴドウィンはケネスを見上げたまま、固まったように動かない。
「ゴドウィン!」
ミランダは叫んだ。ゴドウィンの前に吹雪のバリアができる。ミランダはとにかく必死だった。炎はゴドウィンには届かず、吹雪に交じって霧になった。
ケネスの殺気に満ちた鋭い目が、ミランダに向く。
「邪魔するな!」
ケネスの炎がミランダに迫った。ミランダは避けようとして足を引っかけ、地面に突っ伏す。顔を上げると、炎が視界いっぱいに膨れ上がっていた。
目を瞑る。熱風が通り過ぎて、恐る恐る目を開けた。炎は二分されていた、ジェラードの後ろ姿を境目にして。切り離された炎は空気に吸収される。
「隠れてろ!」
ジェラードはケネスに向かって駆けた。ケネスが放つ炎を、大剣で分断していく。
ミランダは立ち上がると、ジェラードを援護しようとした。地面を叩き、氷の柱でケネスの顎を突き上げる。うめき声がした。ケネスは高く打ち上がった。が、空中で態勢を立て直すと、木の枝の上に着地する。顎を押さえながら、肩を激しく上下させている。悪魔のような目で、ミランダを見下ろしている。
「まずはお前からだ」
すると、ケネスは空に向かって片手を突き上げた。円を描くように腕を回す。空に大きな炎の輪が出現する。火の粉が降り注ぐ。じりじりと暑い。
「バカやろう! 早く逃げろ!」
ジェラードの怒鳴り声に背中を押されて、ミランダは走った。
ケネスは手を振り下ろす。炎の輪は複数の炎の球に分かれて、ミランダの周りに降り注ぐ。地面に落ちた炎は高々と燃え盛る。ミランダは炎の輪に囲まれた。逃げ場はどこにもない。力一杯に吹雪を出すが、蒸発するだけで分厚い炎はビクともしない。熱さに体力を奪われる。ミランダは力なく座り込んだ。
前方の炎の中から、人影が近づいてくる。ケネスだ。炎はケネスの身体だけを退けるように燃えている。
「終わりだ」
ケネスがゆっくりと、ミランダに手のひらを向けた。ミランダは呼吸を荒くするばかりで、手も足も出なかった。
息を止めた。音が消える。視界に映るすべての動作がスローになる。
地面を駆ける炎の塊が、ミランダの前に立ちはだかる。それは人のようだった。燃える人影は、ケネスに向かって弓を引く。
「ゴドウィン……」
人影は弓を放った。ケネスの悲鳴が響く。炎は止んだ。
ゴドウィンは、ミランダの目の前で崩れた。光の粒がゴドウィンの身体をむしばんで、宙に浮かんでいく。
「ゴドウィン!」
ミランダは地面を必死に這って、ゴドウィンに手を伸ばした。触れた感覚はなかった。たんぽぽの綿毛のように、光の粒が舞っただけだった。
ゴドウィンはミランダを見て微笑んでいた。ゆっくりゆっくり、腕を上げてミランダの頬を撫でる。ふわっと暖かな感触がしたと思ったら、すぐに消えてなくなった。
ゴドウィンの口が、何かを伝えようとしている。
「ゴドウィン!」
ジェラードが駆けつけてきた。しかし、ゴドウィンの姿はもはや残像でしかない。光の粒は安らかに、天へ昇って消えていく。
ジェラードは天を仰いで、大声を上げた。
「洸大ー!」
唸り声がした。ケネスが木の幹にもたれかかってぐったりしている。その胸には矢が刺さっている。
「俺だけが、生き返ってやる……」
息も絶え絶えだが、ケネスは確かにそう言った。
「貴様あ!」
潰れた声、荒い呼吸。ジェラードは剣を振りかぶりながら、ケネスめがけて走る。ケネスは精一杯腕を振り上げた。炎の壁がジェラードを阻む。壁が消えた。ケネスの姿はなくなっていた。
ジェラードは剣を地面に突き刺し、ひざまずいた。背中は震えている。嗚咽のような声が聞こえてくる。
「ゴドウィン……」
ミランダはゴドウィンの残像を見つめたまま、四つ葉のクローバーの束を握りしめた。
ゴドウィンが最後に言った言葉が、残像から聞こえてくる。
悲しいときは、泣いていいんだよ。
ゴドウィンの笑顔と笑い声が、頭の中で巻き返される。
どうしてだろう。悲しいはずなのに、涙は出ない。
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