αについて



【αについて語る】


 空に届くことは叶わずとも、様々なビル群が地の底からそそり立つ。中でも築五十年を過ぎているこの雑居ビルは一段と寂れている印象を受ける。不吉な軋みを上げる非常階段は、外壁の剥がれ落ちた壁に申し訳程度にくっ付いているだけであり、隙間の空いた段と段の間から吹き抜ける風が、身体を足下から掬い上げ落下させるのではないかと不安を感じる。

 今までより強い風が隙間から吹き抜けていく。足元がふらついて均衡が保てなくなる。慌てて手摺りに掴まろうとするが、ペンキの剥がれた鉄骨から噴き出した赤茶けた錆びを見ると、上げた手を引っ込める。妙な所で潔癖な部分が出てきてしまったことを後悔するより、潔く落下してしまった方が気持ちいいのではないか。そんなことが頭の中を過ったが、風と一緒に思考は掻き消える。傾ぎかけた身体を無意識の内に立て直したことで少し足が痛んだ。

 上を見上げればこの雑居ビルを見下すかのように、明らかにここよりも高くそびえる建築物群に取り囲まれている。居心地の悪さと、古いものを追い立てるような眼差しを感じたような気がして憤りのようなものが沸き起こる。

 繰り返される廃棄と生産のなかで、必死にしがみ付いて生き残ってきたであろうこのビルのことを考えると、いま感じた怒りが正当なもののように思える。自分の内からそのような感情が溢れ出ることが、趣深い事のように思えて満更でもない気持ちになる。

 しかし、それが単なるセンチメンタルな気分を象徴しているだけだと気付いて、軽い溜め息が漏れた。

 酷く疲れを感じたときに訪れるだけとは言え、特別愛着を抱いている名も知らない雑居ビルである。勝手に忍び込んでは屋上で煙草を吹かしながら、縁取られた空を漠然と見上げることで生き辛い世の中のことを忘れられる場所は、なかなか得難いもののように思える。

 それだけのことで疲れが消えるのは錯覚だと解っているが、疲弊した身体には紫煙に含まれた気怠さと古いビルの屋上を漂う退廃的な静けさがそれを鈍麻させてくれる。

 場所がいいのだと考えている。胸ポケットに収まっている煙草の膨らみを手で探りながら屋上に繋がる最後の一段に足を掛けた。平面に辿り着いたと同時に視界を暗転させる目眩が襲ってくる。不健康な生活を続けていることは否めない。視界が暗くなるのも束の間。一瞬後には苔とカビ、茫々とコンクリートブロックの隙間から這い出した雑草、剥がれ落ちた石、錆びたバケツ。そんな雑然とした屋上の様子が見て取れる。すう、と血の気の引いていく眩みが晴れると荒れ果てた光景も悪いものではない、と思えてくる。

 喫煙目的で持ち込んだ金属製の灰皿の下へと足を進めると、そこには見慣れない女がひとり気怠い仕草で手摺りにもたれかかっていた。

 口に銜えられた煙草からふわふわと揺らめき行く当てのない煙り。赤く潤った唇の隙間から吐き出される真っ直ぐな線を描いた煙り。二つの異なった紫色の煙りが女の周囲を形作っていた。

 白いシャツに暗色のカーゴパンツ、無骨な印象のブーツ。細かな装飾品は好まないのか、それだけの無造作な装い。黒く艶のない髪は切り揃えられたおかっぱ頭の様でそうではない。前髪なのか揉み上げなのか判然としない部分だけが場違いに伸びているからだろう。

 細く骨の浮き出た指に挟まれた煙草の灰が崩れて空に散る。女がこちらを振り返り言った。

「断りもなく、俺を観察するのはよしな。ずっと頭が痛いんだ……」

 女は肺の奥に溜まった煙を吐き切ってこちらを睨みつける。目の下に刻まれた水で洗っても拭えなさそうな隈がひどく見立つ。化粧っ気のない顔。もとより隠すつもりもないのだろう。連日睡眠時間を削って、それでも足りないから更に徹夜を繰り返した、そんな印象を覚えたが、その女の身振りを見るに至って健康そうである。

 私が不躾な眼差しを向けていたことを詫びると女は素っ気なく「解ればいいんだ」と返して新しい煙草に火を点ける。吸い殻は私が設置していた灰皿に捨てられた。怠そうな仕草にも関わらず吐き出す煙には芯の通った鋭さがあった。

「そうか……、ここはあんたの場所だったか。謝るのは俺の方だったな」

 私が、じっ、と灰皿に視線を注ぐのを見た女はそう答えると「字臥恭个だ」と名乗り私の顔の前にライターをかざした。その意味する事を察して、慌てて煙草を取り出し銜える。そして、プラスチック製のライターの上で弱弱しく揺れる火に先端を触れさせて煙草に火を点けた。重くいがらっぽい煙を深く吸い込んだ私はそこでやっと、一心地つくことができた。

「あんたもその至福を噛みしめる人か」

 至福。ああ、そうだ。一日の大半を下らない人種の相手に費やさなくてはならない苛立ち。眼前の景色が黒く染まって落ちる。そこから抜け出した時の至福。ぴりっと辛さを孕んだ煙草の味が鈍磨した脳を揺さぶって目の前に橙色の光を宿す。止まっていた時間が動き出す瞬間だ。気が付けば一日はもうすでに終わりを告げようという時刻。されど時間は動き出す。肺の中で濁った煙が重さを伴って体内に溜まった鬱憤、疲れを吐き出すのを手伝ってくれる。

 これに勝る至福はないと、早くも一本目を吸い切った私は同意の意味も込めてコンビニの袋に入った缶コーヒーを女――字臥恭个に差し出した。

「そうそうこれだ。煙草にコーヒー……こいつは絶対に外せない」

 字臥恭个はしみじみといった風情で口ずさむ。こめかみに添えられた細い指が差し出した缶コーヒーに伸びる。肉付きの悪い骨ばった細長い指はどこかナナフシのような緩慢な動きでぬるくなった缶を握った。

 お互い、新しい煙草に火をつけ肺に溜まった紫煙の重みを嚥下する手伝いに、舌に苦い液体を咽喉に流し込んだ。それによって、軽かった酩酊感はより強さを増して覚束なくなった足を支えるために手摺に身体をもたせかけた。

 くつくつ、と含み笑いを浮かべた字臥恭个の横顔を盗み見た私は、そこに佇む女性が際立って美しい女であることを再度認め、その驚きを隠すために深く煙草を吸い込み滲む空めがけて煙りを吐き出した。

 私のそれは彼女のようにきれいな直線を描くことはなく、ぐにゃり、と歪んで地に沈んでいった。

 この退廃とした雑居ビルの屋上にあって、字臥恭个は違和感なく溶け込んでいる。質素な装いに疲れを滲ませた佇まいに共感しつつ立て続けに煙草に火を灯す。いったいこのような場所にどういった経緯で迷い込んだのか。

「迷い込んだ、そういうのじゃない」

 あっさり思考を読まれて否と答える。その細められた目にはどこか胡乱なものを見つめる猫を想像せずにはいられなかったが、いささか目の下の隈が愛嬌を損なわせている印象だった。

 はて、迷い込んだのでないというならどうしてこんな辺鄙な所にいるのか。私がこの場所を見つけた時もそうだったが、興味もなしにこの場所にはたどり着けないだろう。偶然、あてどなく彷徨った末にたどり着いたのがこの寂れた雑居ビルだったのだ。

「職業柄ってやつかな。そういう場所には特別敏感だとしか言いようがない」

 素っ気なくもあるが、一々こちらの思考を読み取っては受け答える字臥恭个に非凡な感性を見せつけられているようで少し居心地の悪さを覚える。

 つまり、人のいない静かで風情のある、しかし、退廃とした廃墟じみた場所。それはロマンだろ? 詩人のような涼やかさを携えて彼女は縦琴の代わりに自在に紫煙を燻らせる。

 口を開くたびちろちろと長い舌が上唇をなめ上げる。蛇のよう。その内側にいくつも隠し持った原始的な美を時折垣間見せる。

 いくつか言葉を交わしているうちに、愛とはどういう性質のものか、という普遍的な話題が二人の間を行き来していた。

 愛という理解しがたい衝動はともかく、『美しさ』に対して敬意を払えない輩は多いな、と恭个は語る。私にはそのどちらもが同質の概念ではないのか? と問う。すると彼女は煙をまとって目を細めた。濁りのない眼差しは猛禽類のもので、その油断ならない獰猛さの宿る瞳に映し出された私は、胸のまえに掌を置くこと怯んだ気持ちを隠しているようであった。早く胸を打つ心臓の鼓動が手に感じられた。

「愛がフィクションの中から読み取った幻想だとしたら、美しさとはあらゆる事象に対して不変な要素だと思わないか?」

 正直そういったレトリックに精通していない私にはどう答えるのが正しいのか解らなかった。煙草一本分の無言は肯定、あるいは、ある種の回答だと思ったのか「……悪くない」と恭个はにやりと口元に笑みを浮かべるのだった。

 ニコチンとカフェインに酔ったのだろうか。字臥恭个から長く伸びる影が私の身体を絡め捕って深い泥沼に引きずり込んでいく様を想像させた。日が暮れていく中であっても、その病的な白さの映える顔はくっきりと、この朽ちたビルの屋上であってもはっきり見て取ることができた。

「煙草と珈琲と。性交渉」

 彼女の周りをさらに濃く、濁った煙が漂い始める。濃霧に輪郭がとろけて徐々に彼女の姿が不鮮明なものへと変わっていく。

 字臥恭个を駆動する衝動。その根幹……。

 紫煙に包まれ朧げになった彼女の姿態から細くて長い腕が空を突く。かざしたその手は拳銃を模していた。〝Bannnng!〟と、撃ちだされた不可視の弾丸が赤い地平線へと滑空する鴉を打ち抜いた。

〝あー〟と鳴いた漆黒の鳥はくるくると螺旋を描いてビルの隙間に落下していった。


――喧噪、その只中。酒と煙草と、下水から立ち込める瘴気。そこに人間の垂れ流す体液が混淆とし、形容しがたい臭気となって暗い路地裏を満たしていた。煌びやかな表通りにそっぽを向いたように発展発達とは程遠い様相の路地裏は、不要なものを継ぎ接ぎして組み立てた悪夢さながら、私の正常だと思っていた観念を破壊するのだった。

「素晴らしい都市開発の裏側っていうのか……今だって、こういったドヤ街は人目を忍んで活き活きと呼吸をしているものさ」

 のらりくらりと先を進む字臥恭个の背中をしり目に、私一人では絶対に立ち入ることはなかっただろう街の様子を恐々と覗き込む。なんだか荒っぽい声が、道の真ん中まで飛び出した飲み屋を囲む男たちから湧き上がるたびに背筋に冷たい汗が流れた。そのがなり声に圧倒されていると子汚い野良犬が脇を平然と歩き去っていく。女っ気の無い汚れた裏道の中を慣れた様子で闊歩する恭个に場違いな印象を覚えるが、冷やかした眼差しからは街に溶け込んでいることがよく解った。

 唄を忘れたかなりやは

 後ろの山に捨てましょか

 いえいえそれはなりませぬ

 唄を忘れたかなりやは

 背戸(せど)の小藪に埋(い)けましょか

 いえいえそれはなりませぬ

 唄を忘れたかなりやは

 柳の鞭でぶちましょか

 いえいえそれはかわいそう

 唄を忘れたかなりやは

 象牙の船に銀の櫂(かい)

 月夜の海に浮かべれば

 忘れた唄をおもいだす

 暗がりを縫うように歩みを進める恭个は歌を口ずさんでいた。がなり上げる声々の中でも彼女の囀るような歌声を耳に感じることができた。散切りの頭の両端から長く伸びた二つの、そのもみあげとも前髪とも判然としない房がゆらゆらと声に合わせて揺れていた。むき出しになった配管から吹き荒れる蒸気が頬をかすめていく。その白い靄の熱を肌で感じることで私は、自分がいたって冷静であることを自覚した。半ば夢遊病患者のように、字臥恭个に誘われるがまま、この汚れきった裏道に迷い込んでしまったとばかり思い込んでいたがそうではなかったようだ。未だ、あの夕暮れに縁取られた屋上に私一人が取り残されているのでは? という心細い疑念は恭个の歌う言葉に惑わされたに過ぎないのだろう。

 私は確かに自分の意志で彼女の誘いに乗って、彼女の歩みに促されたのだ。そのことに疑いの余地はない。

 二股に分かれた道に突き当たると、さらに深い闇に包まれた路地では雀卓を広げた男たちが卓を囲んで麻雀に耽っているようだった。ひどく殺伐とした空気がその場を占め、「ぶっ殺すぞ!」と、穏やかではない大声がこだまする。それは当たり前の挨拶のようなものなのか、声を荒げた男に頓着する様子はほかの三人にはない。淡々と牌が切られていくタンタンカチャカチャという音だけが怒鳴る男の後ろで規則正しく鳴り響いていた。

 そちらの道に興味のない様子で恭个は、もう一つの暗がりへと歩みを進めていく。

「〝ドヤ〟っていうのは、つまり宿のことをそう言うんだが……草葉の陰で、っていうわけにもいかないだろ? それはそれで風情があるとは思う。しかし、俺はそれは違うと考えてる。まあ、だからどうということはないのだけど、味わい深いだろ? ここは。それでいて背徳感を煽られはしないか? 興奮するだろ」

 男たちの汗と垢に塗れた、むせ返るような臭気を放つ街並みはやがて鳴りを潜め、そこからはバラックが続く細長い路地を私たちは歩いていた。汚らしい木材と風が吹けば剥がれ落ちてしまいそうな錆びついた銅板を思うがまま取り付けていった、といった風情の建築物が長くどこまでも暗い闇の奥に続いていた。廃材置き場と大差ない荒れように息をのむ。先ほどまで感じられた喧騒とは打って変わって、そこでは静寂こそが美徳であると思わせた。つまり、この場で騒ぎ立てるようなら只では済まないだろう、という剣呑な空気が張りつめていたのだ。

 生々しい腐臭と人間特有の生活臭が、むわりとバラックの板と板の隙間から漏れ出ていた。よそ者である私なんかが居てもいいのだろうか。どこか拒絶されているような言い知れぬ不安感に襲われる。

「大丈夫さ。たしかに蛆虫たちの巣窟であることには変わりないが、取って喰われるようなことには早々ならない。くつくつくつ……といっても、それがお望みとあれば俺は一向にかまわないが……」

 口に咥えた煙草から紫煙をまき散らしながら、字臥恭个は下卑た笑みを浮かべていた。そうして、本来の目的を思い出した私の下腹部に熱い疼きが奔る。寂しさを打ち消すには十分すぎる血液の循環に、徐々に高まっていく興奮が抑えがたい。足元すら覚束ない暗がりの中で赤く半円を描く艶やかな女の唇が、煙草の灯を浴びてぬめった光を映し出していた。

 こんな女に喰われるなら……。

 細く、長く連なるバラックに点々と灯る濁った黄色の中で、毒虫が羽化する瞬間の嬌声が幾つも響きあっていた。


 それは逢引宿だと字臥恭个は言った。男と女が一つの目的のために利用する。一晩限りの秘め事の、その甘美な響きに酔っているような妖艶さでもって彼女は私をそこへと案内した。

 外見の退廃とした装いは建物内に入っても同じものだった。妙な生臭さはより濃密なものへと変わり、私の脳を直接揺さぶり始めていた。

 暖簾のようなもので仕切られた受付には顔の判然としないぼんやりとした影が、じっとそこに居座っていた。宿の主だろうか。恭个は二、三枚の千円札をとり出して上の空いた抽斗(ひきだし)の中にそれを入れた。すると抽斗は影となった主人の方へと引っ込み、すぐまたこちら側へと戻ってきた。抽斗の中には染みの滲んだ木の札の付いた安っぽい鍵が入っていた。

 後ろで様子を見ていた私は、これで互いのプライバシーを形式的に守っていることに感心した。勿論、宿の利用料の安さにくらべればそんなものは驚くに値しないものだったが。

 宿の金額を鑑みるにその利用客の種類は、なにも禁じられた情事に耽る者ばかりというわけではないのだろう。ドヤ街の性質上、そこに住み着く日雇い人は簡易宿所として一夜を数千円で過ごせるわけだ。一日働きそれで得た賃金で酒を飲み、やがてこういった宿で一泊する。場合によっては安い女を買って、束の間の春に溺れるのかもしれない。それでも一日分の稼ぎを使い切ることはないだろう。少しずつ金をため込んでこの街を後にするもよし、より高級な女を買うために余所で一晩を過ごし、またこの街に戻ってくるもよし。耐え難い臭気を内包したこの街では後者を選ぶものがほとんどのように思われた。

 シニカルな調子で語る恭个の言葉を簡単にまとめればおよそ、そのような仕組みでこの街の夜は過ぎていく。簡易宿所といえど金は払わなくてはならない。ならばこの宿で一夜を過ごせる人種というのはこの街の中では特権的な存在かもしれない。夜を過ごす屋根もなく、肌を重ね合わせる女も買えない、そうやって一人孤独に路上に横たわる人間を想像して、それがひどく自然なことのように思えた。

 荒廃とした魔境とでも呼べる中を歩き続けたことで私の感覚もこの街に染まりつつあるのだろうか? 字臥恭个によって誘われなければ決して目にすることのなかったであろう路地裏の街並みを振り返る。日に顔を背け、世の基本構造から乖離した街。そして、その中でもより濃密な臭気を内包した膿んだ巣穴で一夜を過ごすことに言い知れぬ悦びが込み上げてくるのだった。

 急勾配の階段を、ぎしぎしと音を立てて登っていく。

 僅かな灯りに吸い寄せられた蛾の群れが細長い廊下を埋めている。それらを恭个は軽くいなして先に進む。彼女のような軽やかな振る舞いを真似ることはできなかった。蛾の群れは容易に私の頭に纏わりついた。むせ返る鱗粉を多分に吸い込んだ私は勢いせき込む。毒蛾の類でないことを祈りつつ用意された部屋の前で待つ恭个の後を追った。

 粗末な掛け金を掛けた薄い引き戸を潜って室内に入れば、もはやそこが外とは隔絶した空間であることが知れた。濃縮した人間の臭い、耐え難い悪臭であるはずなのに妙に胸の内が早くたぎる。昨晩、それ以前に、私たち以外にこの部屋で一晩を明かした人間が一体どのようなことを繰り広げたのか容易に想像することができた。イメージというより直截本能に疼く、臭い。あるいは、気配……。

 四畳半もないであろう部屋に敷きっぱなしの布団、縁の欠けた小さな花瓶に一輪挿し。薄く潰れた布団は湿気を帯び、夜ごと繰り返された男女の交わりを反芻しているようであった。

「アーリーイエロー……百合の花だな。……偽り。陽気。天にも昇る心地……下衆だね。趣味の悪い、冗談のつもりかな」

 くすんだ黄色い花に目を向けた恭个は乾いた笑みを浮かべる。頭が重たいのか、小首を傾げたように花開いた花弁は不気味なパラボラアンテナのように見えた。もしくは、蓄音機のそれだ。長く伸びた雄(お)蕊(しべ)が風もないのにふらふらと揺れていた。廃墟然とした街が発する電波でも受信しているのだろうか。それは毒かもしれないが、幻惑的な酩酊感を呼び覚ますかもしれない。心底好きでもなければ、好んでこんな場所は使わない。恭个はこの光景に粋なものを見出しているようだが、私にはよく解らなかった。ただ、人を魅了するほどのその肉体に溺れることができる、それだけで十分だった。

 薄い壁越しに男女のものとは思えない喘ぎ声が聞こえてくる。苦痛、悦び、哀愁、快楽、どれとも当てはまらない獣の啼き声はその場で繰り広げられる饗宴を想像するしかない。私には檻に閉じ込められた雌雄が訳も解らずに交わっているようにしか思えなかった。

 背後からしなやかな肢体が私の身体に纏わりつく。首筋にかかる息は冷たい。産毛をさざ波が過って下半身へと流れ落ちていく。

「この不衛生な部屋も、聞こえてくる啼き声も、見てきた街すら……すべてこの為の演出で身体の疼きを促す装置。興奮するだろ? 俺はそう感じる」

 耳に舌を這わせてくる。何を言っているかは解らない。理解する必要はないのかもしれない。私はねっとりと這う熱にうっとりとした。冷たい息にのって言葉が流し込まれる。ぬめった舌が耳の穴深くに挿入される。ぐじゅぐじゅ、と感じたことのない快感を伴って、音が私の脳を蕩かす。

 艶めかしく蠢く舌の感触はそのまま蛞蝓(なめくじ)が耳を介して脳に侵入してくるようであった。息を継ぐ合間に囁かれる恭个の言葉を聞き取ることはやはり不可能だった。しかし、この行為そのものが言葉を代弁しているはずだ。

「もっと感じていいんだ。俺にすべてを曝け出せ」

 もはや立っていることなどできなかった。耳の中を舐めまわされ、下腹部に当てられた長い指が腫れ上がった陰茎を激しく繊細に愛撫するのだ。目の焦点が定まらないのは涙が溜まっているから。下腹部を弄(まさぐ)る指の形が妖しく歪んでいって、樹液をすする蟲と化す。

 強烈な快感の嵐に腰が砕け、ふやけた布団の上に崩れ落ちた。そして力強く、ふくよかな弾力を伴って恭个が上から私を組み伏した。熱く抱擁され、それまで耳の中を弄っていた舌が唇を割り開いて唾液で粘ついた口腔へと捻じ込まれる。より濃密な蛞蝓同士の交わりは蠱惑で淫猥なダンスであり、口中に溜まった唾液を沸騰させるほどの熱を上げる。内側から唇をすすり、歯茎を撫でさすり、のどの奥深くに差し込まれてどこまでも侵食し犯される。あまりの興奮、それだけで果ててしまうのではと怖さすら覚える快感が絶え間なく襲ってくる。

「もっと、強く、俺に、おまえの物語を見せてくれ。俺の渇きを癒してくれ」

 与えられる情熱に喘ぎを上げるしかない私とは違い、恭个はこれ以上を求めていた。

 前戯など戯れ、ちょっとした悪戯でしかない。ここから先私が体験するものがどのようなものなのか想像すらできない。どうなってしまうのか? 未知へと続く階段を恭个に促されて登っていく。果てた先にあるものへと……。

 一枚一枚丁寧に服が剥がされていく。裸に剥かれた私の身体を上から見下ろす恭个の顔がわずかに驚きのものに変化した気がした。

「へえ……おもしろいね。そういうことか……。まあ、俺は一向に構わないけど、それじゃあ満足に自分を曝け出すことも難しいだろうな」

 私が異常である証を認めた恭个だったが、彼女はこれまで接してきた人種とは異なった反応を示した。好奇心旺盛な猫のような眼で仔細にその特徴を観察する。味や感触を吟味しているようでもあった。とにかく、私の裸体を異物だからと言って乱暴に扱うことはなかった。むしろ、それを知った後の彼女はそれまでよりもはるかに情熱的に絡み合ってきた。

 字臥恭个の裸身は美しかった。目の下の隈が上気した頬によって薄れている気がした。透き通るような白さに畏れを抱かずにはいられない。乳房はつんと張りがあって芳醇な果実と遜色ない。甘い乳の香りがまろやかに、この獣臭い部屋に広がっていく。細くくびれて丘陵を登っていくように、緩やかだが確実な起伏によって誇示する腰から尻にかけ、美しさの均衡を保った引き締まった腿へと至り、細く滑らかに足へと続く道。爪の先まで均整にとれた彼女の身体は、そのもの大地の美しさを象ったものに相違なかった。

 恭个の裸に見惚れていた。比べられることが悍ましくて身をよじろうとした私を黙らせたのは、彼女の強い性欲だった。

 筋張った蟲と思っていた細長い指が腹部を伝って張り出した乳首をそよ風のように撫でていく。雷に打たれたようにのけぞった腰を力強く押さえて、恭个は瞳をぎらぎらと輝かせて笑った。そして、明らかになった秘部――彼女の蜜壺が口をぱくぱく、とさせながら肉を喰らう愉悦を待ち望んでいるのが解った。

 あの中へと陰茎が咥えこまれる瞬間を想像して身の毛がよだった。与えられる悦びを享受するために私はすべてを彼女へ捧げることにした。それがどれほどの極上な快楽であるか……、美しさの体現であるか……、もはや言葉など不要でしかなかった。

「さあ! おまえのすべてを奪ってやる。捧げろ! ぜんぶぜんぶこの身体の奥深くで受け止めてやる」

 幾億もの襞が純粋な熱と化した肉の塊を溶かしていく。衝撃に身悶えするしかなかった。最初はっきりとしていた彼女との境界線が薄れていく。快感を生み出す蠕動とぬめりを加速させる液体でぐずぐず、に溶かされた下腹部は漠然とした温もりに変わり、およそこの世で感じられるすべての快楽がそこにあった。

 人間だったことを忘れて、獣のように叫び続けた。引きずり出される内面が止めどなく恭个の膣を汚した。そしてまた、間断なく巧みな腰使いで私の中身を貪り喰っていった。

 出しても出しても終わりのない地獄のような快楽は一生続くのだと思った。

 恭个の手にはペンが握られていた。使い古された年代物の万年筆だと思う。皮を削り取るには十分な鋭さを兼ね備えた代物だった。

 彼女は私の身体に思うままに彼女の望む物語を綴っていく。それは私の内面に向けられた彼女の目で捉えた私の物語でもあった。恭个自身、快楽に堕ちていくことはないのだろうか。搾取する行為そのものを悦楽として愉しんでいるのは理解できる。それ以上にペンを走らせる手が止まることがない。私の裸体に向けられる目は原稿用紙に向かうそれで、血の滲んでいく眼球に鬼が宿っている。その生涯を物書きとして終わることを是とした本物の存在感がそこには在った。

 恭个は様々な体位を駆使して、私の身体の隅から隅までを文字で埋め尽くしていく。一文字一文字が物語を内包したものだった。削り取られた皮膚の下から血が滲み、ペンの先からこぼれる黒いインクと混ざり合って、甘く苦い、その時々で様々に変貌する芳香を強く放つ。

 万年筆の鋭利な先端で身体を切り刻まれることに痛みが伴おうとも、それを遥かに上回る快感が恭个と繋がった境界定まらない熱源から注がれる。一言で甘美としか言いようがなかった。奪われることも、傷つけられることも、受け止めきれないほどの快楽も……。いまや、私たちが上げる叫びは熟しきった室内を十分に満たし、一つの生命の産声として退廃とした夜の街へと消えていった。


 もう何が何だか分からなくなった果てに暗闇にのまれた意識が徐々に鮮明になっていく。現実みのない浮遊感の中で見たのは、畳の上、大股開きで小刻みに痙攣を繰り返す恭个の姿だった。そこに、あの赤金色に染まった屋上で感じられたはずの美しさはなかった。ただ醜く、ヒキガエルのように腹を天井に向けて低く喘いでいる女がいるに過ぎなかった。大きく開かれた脚の中でだらしなく垂れ流される白濁した液体が畳の縫い目に零れ落ちていく。私は夢幻の一時が終わったことを確信した。

 切り刻まれた全身からは甘い疼きと、身体の輪郭が膨張したような愚鈍な脈動に包まれていた。汗と血と黒インクでドロドロになった身体が不快でシャワーを浴びたかった。しかし、ガラクタを積み上げて造られたような宿にそのような設備はない。起き上がることも億劫である。夜が明けるまで眠りにつくのがいいだろうと、ひどく湿った布団の上に再び倒れた。

 幾つもの雌雄の獣の戯れを記憶した布団から亡霊のように、にゅう、と腕が溢れ出して私の身体を強く縛り付けているようだ。倦怠感と満足感、少しの後悔の念が渦巻いて身動きを取る気力は残されていなかった。最初こそ嫌悪感を抱いた黴臭い布団の上も、これだけ疲労困憊となった今ではその生暖かさに眠気すら誘う。とはいえ、異常な行為の代償として血に滲み、黒いインクの飛び散った有様では処分されてしまうのだろう。これまで様々な人種が交わってきた記憶と供に火にくべられるのはどのような気分だろうと考えたが、無機物に感情移入するほど私の感受性は豊かではなかった。

 今一度、恭个と行った性行為について思いを巡らせた。

 間違いなく狂っていた。およそ安らかとは言えない形相で仰臥している恭个を見るに、想像を絶する行為であったことは間違いない。性器の接触によってもたらされる快感を愉しむわけでなく彼女は、私の身体に文字を刻んでいくことに酔いしれていたように思える。彼女は全身全霊を尽くしたのだろうか。惨めったらしい姿、白目をむいた瞳とは異なる意味合いを見て取れる口元からは凄惨に歪んだ表情とは打って変わってどこか満足そうなものを感じられた。

 強烈に煙草が吸いたい衝動に駆られる。生憎、手の届く範囲に煙草がなかったので諦めるしかなかった。喫煙のもたらす酩酊感がどのような感覚だったかを思い出すためにもそうするべきだったかもしれない。だが、一歩たりとて動きたくはなかった。この倦怠感の中でいつまでも放心することの方が心地よかった。

 ふと一輪挿しの百合の花から微かだが芳香が漂ってきた気がした。その粗末な花瓶に活けられた萎れた花に生命力はみじんも感じられない。あるいは、麻痺した臭覚がこの貧相な一室に充満した脂ぎった臭いを勘違いしただけなのかもしれない。いずれにしても煙草を頼ることなく意識が徐々に回復し始めてきた。

 薄れた意識から聴覚が戻ってくると相変わらず薄い壁を隔てた先で獣の戯れのような呻きが聞こえていた。私の目は自然と隠すことを忘れた女の秘部を見つめていた。

 いったいどれほどの精をあの肉襞の中で搾り取られたのだろう。白濁した滴りはとめどなく、開ききった膣から溢れその深淵を見ることは叶わない。今更見たいとも思わないが、それぞれが独立した生き物であるかのように蠢く襞に興味がないといえば嘘になるだろう。ごぽり、という生々しい音が続く。それは、彼女の子宮に溜まっていた精液が膣襞の押し出そうとする力によって体外へと排出された音だった。

 天にも昇る心地とは、彼女と契り体中に文字を刻み込まれることを暗示していたのだろうか。

 そう、この黄色い百合の花ことばだ。花を見て皮肉な笑みを浮かべていた恭个の横顔が思い出される。

 セックスなどでその気持ちを表したくはない。あのとき、朽ちた屋上で出会った瞬間。それこそが私にとっての天にも昇る心地であった。そうであってほしいという強迫観念にも似た思いが胸の内を駆け巡る。

 暗く汚らしい街を闊歩する恭个の姿形は陽気そのものだった。それが誇張され芝居がかったものに映ったとしても陽気さそのものは損なわれない。私はといえば喧騒と暴力に怯え、行き場のないゴミの山に顔をしかめるばかりで街の風情を愉しむ余裕はなかった。恭个の自らの行いに何ら疑いを持たず心酔する様を目の当たりにして羨ましさが込み上げてきたことを思い出す。そのとき、私には字臥恭个という美しさが途方もなく輝かしいものに映り、思わず目を逸らさずにはいられなかったほどだ。

 では、私はいささかも陽気ではなかったと言えるだろうか?

 夕日に向かって煙草を燻らせることも、私のような人間に興味を示したことも、機能性よりも風情を愉しむことも、セックスの最中に言葉の渦に巻き込まれることも……それら総てに共通する精神。ある種の躁状態。まるで現実感の伴わない白昼夢の中での出会いは私の心に陽気をもたらしたのではなかったか。

 このちっぽけな百合の花が示唆するものは恭个との出会いを顕したものだったのだ。

 そして、偽り。

 最も考えたくない、より確実に真実を言いえている深く暗示めいた最後の言葉。すでに気付いている事実。恭个が暴き出そうとしたのは一つ……たった一つのことであったに違いないということ。

 偽りとは私自身を体現した言葉に他ならない。

 そのこと一つですべてが翻る。天にも昇る心地も陽気な様も、私の欺瞞が曝け出されることで裏返る。だからこそ恭个は私を徹底的に犯すことを愉しんだ。文字を刻みつける行為も私の偽りを暴き立てるための一手段に過ぎない。

 確信犯的な狂気の顕れは、偽り隠された真実を明るみにするものだった。

 彼女は知っていたのだ。私が日々繰り返しこの茶番じみた現実を生きていることを……。

 ひくひく、とした身体の痙攣を伴って仰臥する恭个の腹が膨れていく。ごぽり、ごぽり、と大股開きの中の陰唇が口を開いて白濁液を激しく吐き出した。それは奇怪な放物線を描いて私の股間に付着した。もともと私が吐き出した液体に嫌悪感は抱かない。ただそれが自分のものとして実感できない。恭个に無理やり搾取された精液はその瞬間から彼女の所有物になったからだ。

 白濁液をあらかた吐き出した女の膣は禍々しい暗赤色を露わにし、その口をさらに大きく開け広げていく。膨らんだ腹が何かの力に押しつぶされて内側へ、内側へと潜り込んでいく。筋肉が、関節が、骨が、と怪物じみた悲鳴を上げながら内側へと裏返っていくのだ。細く滑らかな脚の股関節が、ごきり、とくぐもった音を立てて可動域を超えた身体の上を曲がっていく。かつて、皮肉な笑みを浮かべていた彼女の顔はすでにそこにはなく、上半身は押しつぶされた醜い肉の塊と化していた。

 恭个の身体が裏返りながら恐ろしく吃驚な悲鳴を上げている。

 脚を身体の上部へ捻って頭部を内側へ押しつぶして、そうして膣の中から赤色に塗れた肉が押し出されてくる。ぐにぐに、とした質感が見ていてもよく解る。てっきり端正な肉体の中に包まれたグロテスクな内臓が飛び出してくるものだと思っていたが、そうはならなかった。多量の液体が膣口から噴出したがどちらかといえば白濁とした無味乾燥なものだった。小さかった膣口は大きく歪み、字臥恭个を形作っていた肉は裏返されて新たな形を獲得してそこに現れた。

 途轍もなくおぞましい光景を目の当たりにしたにもかかわらず、私の陰茎はふたたび勃起しようと血が駆け上がり始めた。この奇妙な現実を悦び倒錯した興奮に胸が躍った。

 いま、私の目の前にはかつて恭个という人間がまとっていた身体ではない新たに膣から産まれ直した裸体が佇んでいた。それは……恭个なのだろうか? はたしてそう呼んでいいものなのか判然としない。だが、別に恭个で構わないのだろう。白よりも透明な液体に塗れた裸体は気だるく優雅に首を巡らせた。その目が私を見た。

 それは紛れもない、私自身の顔であった。

 うっすらと浮き出た肋骨に手を添えて、きつくそそり立つ男根を扱(しご)く。そろそろとそよ風の様な手の動きは生まれ変わった自身の輪郭を確かめているようだった。指は男根を下って、その裏に隠されている女陰へと至った。にやりと、あの皮肉に満ち満ちた字臥恭个の笑みが、私と瓜二つの顔に浮かんでいた。女陰に触れた指は恐る恐るといった風情で外陰をなぞり、やがて穴の中へと潜り込んでいく。粘っこい水音を響かせながら恭个は、私は、自慰行為に耽っている。

 陽と陰を兼ね備えた歪で完璧な、性を超越した美。私が私自身の裸体にこれほどの興奮を呼び覚ますことなどかつてはなかった。再臨した恭个の一つ一つの所作が洗礼されているから俗悪な厭らしさを伴わないのだ。

 華奢な身体は肋骨が浮き出て健全とは言いえない。それは私のようであって私でなかった。私よりも優雅だったのだ。顔も形も総て私と瓜二つだろうと、それは私とは別の生き物だった。姿見に映りこんだ姿ではない、現実に確かな存在として在ることを理解して、急な憂鬱に駆られて自身が揺らぐ。幽玄という言葉がある。私であって私ではないそれは、私では体現できなかった質を有していた。そこに特別の、本来あり得るべき美しさが顕れているのだ。

「奪い奪われ、男だ女だ、意味のないことを延々だらだらと……実に些末! 愚か! でも、おまえは苦しんだんだろ? 弄んだんだろ? ならもう、十分に満足したよな? これは俺のものだ。おまえはこの場から退場する。役割は終了だ。この先は俺が続けることにしよう」

 私の声がまるで恭个のように話し出す。いや実際、その身体に宿っている精神は字臥恭个そのものなのだろう。そこに在るのは両性具有者の私ではなく。両性具有者の字臥恭个である。雌雄に蟠るありとあらゆるを超克した超人類。私に叶わなかった理想。私の罪を暴き立てたそれにこそふさわしい不変の美しさ。黄昏にたたずむ天使。大上段から俯瞰する悩ましい眉。眦(まなじり)の垂れ下がった幼子。血脈の浮き上がった不完全な白肌。微かな膨らみ。誇張する桜の蕾。折れそうな手足。いきり立った陰茎。濡れそぼった陰門。

「字臥恭个など存在しない」

 あざがきょうかなどそんざいしない――私の口はそれの口の動きをなぞる。

 恭个の身体が私の身体に重なる。弾けそうなほど突っ張った男根がいましも私の女陰を貫こうとしていた。私の男根は恐れ戦いて萎れていた。情けなくって、畏れて、感極まって、憂鬱に、それの目の中に私が閉じ込められている。涙の代わりにはしたない汁が陰門からあふれ出る。熱く勃起した恭个の男根を受け入れるように……。

 私に侵される私はそこではっきりと女であることを自覚した。

 ああ、だから私は必要ないのだ。この場所は明け渡さなくてはいけない。赤々と染め上げられた空を戴くあの、忘れ去られた屋上。

 激しく突き立てられる男の印。男でありながら女であるものを征服する。哄笑。呻き。

 首に回された手は冷たくって、触れている境目は熱い。絶頂を目前にして、でも私はそこへは至れない。恭个は狂ったように暴れまわる。だけど、それは獣ではなく天使の戯れに過ぎない。

 さよなら。さよなら。役目を終えた私はさよなら。

 首の骨が折れる音がした。とても小さな、私だけに聞こえるかすかな音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る