第三十一節 情緒を豊かに育む

 メルダーがカーサの最高幹部に配属されてから、一ヶ月が経とうとしていた。メルダーのミスも徐々に減り、ヴァダースのストレスが蓄積する頻度は落ちていた。それでもあまり会話をすることはなく、ただ淡々と日々が過ぎるだけ。特に大きな事件もなく、また緊急性のある任務もない、穏やかな日々。


 そんな日々の中でも、進展したこともある。それはヴァダースのメルダーへの接し方だ。シャサールとバーで話し合った日以降、彼が纏っているオーラの棘が少し柔らかくなった、らしい。このらしい、というのは報告書を提出しに来たシャサールが気付き、指摘されたことで発覚した。

 ヴァダース自身は全く自覚がないが、彼女の"女の勘"とやらが告げるには、どうも変化が生じているらしい。それがどのような影響を及ぼしていくかは分からない。しかし少なくとも一触即発な展開にはならなさそうだと、どこか安心したようにシャサールに告げられたヴァダースである。


 しかし指摘されたからと、動揺を見せるヴァダースではなかった。シャサールの言葉にも、そうですかと一言返事を返すだけ。仕事の支障にならないのなら、特に深く考える必要性はない。それがヴァダースが出した答えだった。


「冷静なんだか冷酷なんだか」

「どうとでも言ってください。実際にどうでもいいんですから」

「そう言ってられるのもいつまでかしらね?」

「それは挑発ですか?」

「どうとでも」


 楽しそうにくすくすと笑うシャサールにため息で返事を返す。書類を提出した彼女は、用事が終わったと言わんばかりに踵を返した。ヴァダースの苦言をこうもひらりと躱せるのは、今のカーサでは彼女しかいないだろう。ため息を吐いた後、シャサールと入れ替わるかたちでメルダーが帰還する。


「ただいま帰還しました」

「ええ」


 今回彼は、最近報告に上がっていたとある地区へ偵察に赴いていたのだ。場所はアウストリ地方の南部。そこに浮かぶ小さな島。怪我もないところを見ると、その場所の危険度は低いことが窺えた。


 少しずつではあるが、カーサの人員も増えてきた。そのことから、自分たちのいる本部以外にも各地に拠点を置くことにする、というのが先日行われた定例会議での今後の方針だ。そのため、ここ最近はそのための任務が増えてきていた。


 内容としてはまず活動拠点に適していそうな場所をヴァダースがピックアップし、それをメルダーに渡す。そしてメルダーの指示で数名の偵察班を送り、その場所の安全性を確保。時折メルダー自身も偵察に赴き、現地の様子を確認しているのだ。

 そして安全性が確保された偵察場所には現地に向かわせた調査員をそのまま残し、仮拠点としての整備を整える手筈となっている。仮拠点が十分に本格的な拠点として利用できるようになった場合は、本部に連絡が届く。

 最終的に連絡を受けた本部から追加の人員と魔物数体を送ることで、一連の任務は完了。この繰り返しで、徐々にカーサの活動範囲を広げていこうというのだ。一長一短だが、着実にその成果は見え始めている。


 偵察用にいつも羽織っている外套をハンガースタンドにかけたメルダーが、簡単にヴァダースに結果を報告した。


「今回の場所、何も問題がなかったのが意外と言えば意外でした。あの島、世界保護施設の本部があるヨートゥンが近いのに」


 不思議だ、と言わんばかりのメルダーの口調。彼の言う通り、今回偵察に向かってもらった場所は孤島ではある。しかし孤島近くの大陸のすぐそばにはあの、世界保護施設の本部があるという閉鎖都市ヨートゥンがあるのだ。

 孤島は既に世界保護施設の人間が使っているかと思ったのに、と言葉を零す彼に対してヴァダースは、今回偵察の向かわせた理由を簡単に説明する。


「確かに今回は奴らの拠点に近い位置でしたが、あの孤島は無人島です。実験動物にできる対象がいない場所には、奴らは興味が湧かないだろうと思いましてね」


 そう、あの孤島はすでに無人島である。彼ら世界保護施設の活動は、主に他種族の実験や研究、そして人間への人体実験。つまりは実験の対象たり得る素材が必要となってくるのだ。人間はもちろん魔物すら寄り付かない──実験の素材のない孤島に彼らが拠点を作ったところで、デメリットしかないことは明白。

 だからこそヴァダースは、あえてそこに拠点を置くことを考えた。事前の調査でその孤島は、あのミズガルーズ国家防衛軍の関与も見られなかったことは承知済み。文字通り誰も手を付けてない島なのだ。そこに拠点を置けばあわよくば世界保護施設の動向を探れる、とも考えたうえでの指示だった。


「灯台下暗しとはこのことです。なんにせよ誰の手も回っていないのなら、早めに拠点完備の準備に取り掛からせてください」

「と、灯台もと……え?」


 ヴァダースの言葉を反復しようとして戸惑うメルダー。その態度にため息をついてから、ヴァダースは彼に説明する。


「灯台下暗しというのは、遠くを見渡せても身近にある事柄に関しては意外と疎いという意味です。今回の例を当てはめるなら、孤島は世界保護施設の活動範囲内にある場所であるのにも関わらず、彼らは我々がそこで活動しようとしていることに気付かないということになるんですよ」

「なるほど!また最高幹部として必要なことを教えてくださり、ありがとうございます!勉強になりました!」

「これは最高幹部とか関係なく、一般常識なんですがね」

「いやぁ、無知で申し訳ないです。あんまり世間のことは知らなくて」


 苦笑しながら頭をかくメルダーに対し、また一つため息を漏らすヴァダース。相変わらず、頭痛のタネになるのは得意なようだ。


「ともかく、今回の任務についての報告書を書いて提出してくださいね。書き方はもう慣れたでしょう?」

「それはまぁその、何度もご指摘をいただいたので……。ですがその、少しお願いがありまして……」

「貴方のお願いよりも自分の仕事を優先したのですが」

「確かにダクターさんの貴重な時間を割くのは大変申し訳なく思うんですが!自分とまた手合わせをしていただきたいんです!」


 お願いします、と勢いよく腰を九十度に曲げながら懇願するメルダー。そんな彼を横目にヴァダースは言葉を返す。


「訓練相手なら私以外にもいるでしょう」

「いえ、ダクターさんとじゃなきゃダメなんです!自分一人だけで訓練場に向かうと他の部下は委縮してしまいますし、四天王は自分たちじゃ訓練相手にならないと言われてしまって……」


 その答えに、内心ごもっともと同意してしまう。仮にも最高幹部である立場にある人間が、おいそれと部下に訓練相手をお願いをする。その行為は相手からしたら、恐怖以外の何物でもないだろう。だからと言って鍛錬を怠るわけにはいかない。

 自分の力を過信せず邁進しようとする姿は、認めなくもない。メルダーからはお願いと言われたが、今の言葉を聞いてしまってはほぼ選択肢などないようなものではないか。濡れた子犬のようにしょぼくれているメルダーに対し、やれやれと深くため息を吐く。この数分だけで、いったいどれだけため息を吐いたのだろう。


「……わかりましたよ」

「ほ、本当ですか!?」

「ただし、それは今回の任務の報告書を仕上げてからの話です。それが終わらないうちは絶対に、手合わせには付き合いませんよ」


 ヴァダースの返事を聞くや否や、先程までの萎れた雰囲気はどこへやら。花が水を得たかのように表情が一気に明るくなり、元の煩さを取り戻す。


「承知しました!超特急で仕上げますので、確認をお願いしますね!」

「仕事は丁寧にしてください。仮にも最高幹部を名乗るのなら、書類ミスは減らしてほしいものです」

「ぜ、善処します……」


 その後メルダーは宣言通り、過去最高のスピードで書類を仕上げてしまった。あまりの違いに思わず内心引いてしまったほどだ。しかし訂正が箇所がないか、ボスにそれを提出する前に念のためヴァダースが確認をする。

 メルダーの報告書は毎回、どこかしらミスや落としがある。最初の頃は訂正箇所の多さに頭を悩ませた。どうやらデスクワークの類が苦手らしい、ということをその時はじめて知った。戦闘中での頭の動かし方ができればいいものを、と思いながら何度彼の尻拭いをさせられたことか。


 今回もどうせミスがあるのだろうと思いながら、手渡された書類に目を落とす。そして自分の目を疑うことになった。その書類にはミスが全くないのだ。いつも自分が仕上げている報告書と大差のないそれに、一度は己の見間違いではないかと疑う。深呼吸をしてからもう一度確認しても、やはりどこにもミスはない。

 書類に目を落としつつ、ちらりとメルダーを一瞥した。その表情は、どうですかと言わんばかりに自信に満ち溢れている様子が見て取れる。……余程、自分との手合わせを楽しみにしていたのだろうか。これではまるで遠足前日の子供のようだ。しかし約束をしてしまった手前、無下に放ることもできない。


「……今回はミスはありませんね」

「本当ですか?よっしゃ!」

「ですがこの一回だけで満足しないでくださいね。貴方の書類ミスは時々、部下たちよりも多いんですから」

「すみません……。あ、あのぉ……」


 そわそわ、といった様子でヴァダースの様子を窺うメルダー。そんな彼に対し、はいはいと仕方なしに己の書類を一度片付ける。


「わかりましたよ。訓練に付き合いましょう」

「ありがとうございます!では早速訓練場に向かいましょう!」


 早く早くと子供のようにはしゃぎながら、メルダーに急かされるヴァダースである。現金な人間だと感じながら、ヴァダースも重い腰を上げるのであった。

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