第三十節  生きる道しるべ

 まるで自分が成長することが楽しい、と言わんばかりに期待を込めた目で自分を見つめる畏怖の概念。そんな彼にヴァダースは一つ、尋ねてみたくなった。


「……人間と化け物の違いとは、いったい何なのでしょうか」


 "人間"のままで強くなれと、シャサールは言っていた。それに対してヴァダースは己は人間ではないと告げるも、彼女はそれを否定した。自分はどうしようもなく、人間なのだと。そして人間のままでも強くなれるのだと。


 目の前にいる畏怖の概念は、姿かたちは己と同じでも本質的には違う存在だ。であるなら、自分の求めている答えを知っているのではないか。

 畏怖の概念は考えるような仕草をしてから、ヴァダースに一つ問いかけを投げた。


「そうさな……。化け物の定義を話すより先に、どうあるのが人間的か考えたことはあるか?」

「どうあるのが、人間的か……?」

「人間は自身の理解を超えたものを目の前にしたとき、それを"化け物"と呼び、遠ざけようとする習性がある。何故か。その理由は簡単。人間は恐怖の感情というものを最初から持っているからだ」


 恐怖の感情は冷静な思考回路を遮断させ、連動して脳から生命活動を維持するための信号を送らせる。この仕組みは恐怖の対象を前にしたときに感じる不安などを抑えるために行われる、いわば防衛機制と呼ばれるものだと、畏怖の概念は説明する。


「恐怖と言っても様々な種類があろう。しかしこの感情は、人間を構成するうえで必要な感情の一つでもある。恐怖を感じない人間などこの世にはいまい」

「ですが、たまにいるではありませんか。自分には怖いものなど何もない、豪語する者が」

「そうのたまう者は大抵が自己暗示をかけているだけよ。己は恐怖するものなど何もない、とな。この行動は先に述べた防衛機制の一種でもあり、実に人間的らしい」


 楽しそうに笑う畏怖の概念は次に、生物を構成するうえで必要な感情は何かと尋ねてきた。喜怒哀楽だけではなのかと答えると、それだけでは足りないと彼は告げる。


「生物を構成するうえで必要な基本的な感情は、主に八つあるのだ。攻撃、楽観、軽蔑、後悔、絶望、畏怖、服従、愛。この八つが構成されて、命は生まれる。人間はもちろん、魔物などの生命体すべてにな」

「魔物にも……?」

「無論だ。仮にこの八つの持つべき感情をもとに化け物を定義するとするならば、この中のいずれかの感情が欠落している状態で存在し続けるか、突き抜けて立ち止まらんことを指す。要は極端にということだな」

「振りきれている、ですか」


 そうだ、と畏怖の概念は頷く。加えて彼は、こう言葉を続けた。

 人間は何かが突出したものや欠落しているものへの理解に、時間がかかる生物だと。しかし人間は知識や教養を身に着けることで、理解不能のものを理解し、克服することができる生命でもある。


 そして恐怖とは、目の前の異常を理解する過程で自身の理解の範疇を超えたとき、呼び起こされるもの。"化け物"になるとはつまり、他人の理解が及ばない存在として在り続けてしまうことなのだと、畏怖の概念は言い切った。


「大抵の人間は自身が化け物になる前に恐怖し、理性が制止をかける。しかし化け物になり得る人間は、その理性のストッパーが外れているのが常の状態にある。足を止められるか否か……それが人間と化け物の違いだろう」

「……足を止めることは、成長が止まってしまうことではないのですか?」

「理性で踏み止まったが故に成長が止まるというのなら、人間は今の姿にまで進化はしておらんだろう。それにお前に指摘したあの女の言う通り、今のお前はまだ化け物にはなれまい」

「何故ですか」

「お前は聡明な人間だ。自身を化け物に見せる方法も知っている。だが、お前の根底には我のことを完全に理解できていないがゆえに、再び自身が暴走するのではないかという潜在的な恐れがまだ残っている。それが、お前を人間たらしめているのだ」


 いつの間にか目の前にいた畏怖の概念に、胸の辺りを指でとん、と叩かれる。彼の異形の右目で見据えられ、誰にも告げてない本心を暴かれたヴァダースは思わず息を呑む。

 実際にヴァダースは、いまだに己の右目の力を正確に理解しきれてはいなかった。畏怖の概念が刻まれたことにより、異質な力を発揮する邪眼に変化したということは知っている。だが、それだけなのだ。

 この右目の真の正体を知り得る術を、ヴァダースは持ち合わせていない。ゆえに、抑え込んではいるものの恐怖を感じていることは、事実に他ならなかった。


「愚かとは言わん。それは大事なお前の理性なのだ、大事にするがいい。先も言ったようにお前は聡明な人間だ。己の内の恐怖を克服すれば、その理性のストッパーの発動タイミングを自在に操れるようになるだろう。それがあの女の言った、人間のまま強くなると言うことだ」

「……随分と私を持ち上げるのですね」

「我の宿主を信用して何が悪い?それに言ったろう、お前が強くなることは一向に構わんと。そしてそんな強くなったお前の慟哭を喰らうのが、我の楽しみだとも」

「相変わらず、趣味の悪い……」

「なんとでも言うがいい。……己自身の恐怖と嫉妬の対象に向き合うことだ、ヴァダース・ダクター。それが、今のお前の課題だ」


 それだけ言うと、これ以上は何も言うまいと言わんばかりにその場の空間が歪み始める。ぐらぐらと足元の水面が波打ち、まるで月明かりを覆い隠すかのように、靄がヴァダース後と辺りを包む。慌てて追いかけようとするも姿を捉えることはできず、意識はまるでその闇の中に溶けていくようだった──。


 ******


 ハッと我に返ると、そこは己の部屋の中。宵闇の帳が下りていた外の景色は、うっすらとした淡い光に包まれつつある。嗚呼、自分の意識の内にいる間に夜をそのまま過ごしていたのかと理解したヴァダースは、ヴァイオリンケースを片付けて仕事着に着替える。今日も長い一日が始まる。


 そのまま執務室へと向かい、部屋の中を確認する。メルダーのデスクに彼の姿はなく、思わず安堵の息を漏らす。朝から不機嫌にならずに済みそうだと考えながら己のデスクに向かおうとして、視界に入ってしまった。


 最高幹部の執務室内にあるソファで横になり、すやすやと気持ちよさそうに眠っているメルダーの姿を。目の前のローテーブルにはいくつかの資料が置いてあり、恐らくそれをまとめていたのであろうという形跡は見て取れる。

 そこまでは百歩譲ってよしとする。しかし、このソファで無防備に寝顔を晒しているメルダーを見て、やはりヴァダースの心の底にはジワリと怒りが沸く。


 こんな間抜けそうな人物が、己と同じ最高幹部の役職に就く人間だなんて。侮辱もいいところだと出かけた言葉を飲み込み、あくまで冷静に彼を起こす。


「起きなさい」

「んぇ……あともうすこひでまとまりやすぅ……」


 何を寝ぼけたことを言っているのだろうかと呆れながら、今度は少し強めに肩を揺らす。声色も強めて改めて起きなさい、と告げる。


「起きなさい!」

「んふぇあ!?」


 情けない悲鳴を上げながら、メルダーはソファから転げ落ちる。打ち所が悪かったのか、頭をさすりながらこちらを見上げてまたしてもか細く悲鳴を上げた。その悲鳴から推察するに、自分はひどく冷たい表情をしているのだろう。


「あ、え、ダクターさん……!?」

「最初に言いましたよね?この執務室にある資料はそのほどんどが秘匿事項で、外部に漏洩してはならないもの。だから取り扱いには十分注意するように、と」

「あっ……そ、それはその、これはですね……」

「まさか、外部に持ち出したりなどしていないでしょうね……?」


 冷たく見下ろし、腰にぶら下げているエッジに手を伸ばすそぶりを見せれば、メルダーは慌てて違うと反論した。


「あぁあ待ってください、違います!誤解させてしまったことは謝ります!これは資料の確認をしていたんです!」

「資料の確認?」

「はい。俺、確かに最高幹部になりましたけどまだまだ勉強不足だなって痛感してて。だから時間のある時に勉強しておこうって思って、時々資料を読み直してたりするんです。それで昨日もそうしようとして、でも現地任務でちょっと疲れてて……」


 それでいつの間にか眠ってしまっていたのだ、と肩を落としながら謝罪される。おかれている資料を一瞥すれば、それらはどれも魔物に関する資料だった。一度ため息をついてから腕を組む。


「……二度目はありませんよ」

「すみませんでした、ありがとうございます……!」

「わかったのなら、早く片付けて仕事に入りなさい。今日は定例会議の日なんですから、その準備もしなければなりません」

「了解です!」


 最敬礼をしてから慌ただしく片づけを始めるメルダーを横目に、彼と一緒にいることで本当にシャサールの言葉の答えが見つかるのだろうかと、一抹の不安を抱くヴァダースなのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る