第二十九節 記憶にない感情

 シャサールとの飲みに付き合わされ、本部にある己の部屋に帰ってきた頃には、時刻は既に深夜だった。今宵の月は三日月。月全体から見ると、その大部分が欠けている状態の月。それを眺めながら、彼女の言葉を繰り返す。


「私が嫉妬しているなんて……」


 そんなことありえないと、一笑に伏したかった。しかし、素直に話を飲み込めなかった。自分はいったいいつ嫉妬したのか、そもそも嫉妬とは何なのか。今までその感情を経験したことのないヴァダースは、その感情の対処の方法が分からないでいた。

 第一、なぜ自分がこんな感情を持っているのか──原因を突き止めてみようか。


 自分がまだ貴族だった頃、気分が落ち着かないときはヴァイオリンを奏でて自分の中の感情を整理していたものだ。カーサの最高幹部に就任してからの忙しい日々の中で、なかなか手にしていなかったが。

 結局これは手放せないのだなと自嘲しながらヴァイオリンをケースから取り出し、呼吸を整えてから弾き始める。部屋の外に音が漏れることがないように、部屋に防音結界を張ることを忘れずに。


 弾き始めて数分。まず最初に心に落ちた感情は──彼、メルダーのことを最初から認めたくない、という怒りに近いものだった。


 シャサールから指摘された通り、ヴァダースは己がカーサの最高幹部であることに誇りを抱いている。それはこれまで自分が苦労してようやく勝ち取った地位だから、ということもある。だがそれ以外に彼は、最高幹部になることで自分の中で一つの目標を達成できたと感じていた。

 戦いの基礎も何も知らなかった自分がカーサの戦闘員となり、任務をこなし、そして大切な仲間を失った。あの惨劇の中残された自分がこれからもカーサとして生きていくためには、己自信を強く鍛えなければならない。心からそう強く感じた。


 だからボスであるローゲから提示された最高幹部の地位という目標は、ヴァダースにとって救いのようにも思えるものだったのだ。自分の道を見失わなずに歩けると、信じて疑わなかった。そしてその地位を手に入れたことで、ひ弱だった自分が成長していると実感できていたのだ。


 ──それなのに、出どころも分からないメルダーが同じ役職に就いたことで、その努力を踏みにじられたような気になった。


 ……嗚呼、そうだ。抱いた誇りを軽んじられた気になっていたのだ、自分は。だからこそ、こんなにも気に食わない。彼のなにもかもが、鼻につく。これは嫉妬というよりはむしろ、怒りの感情なのではないのか。


 だが、シャサールはこの感情を嫉妬だと告げた。加えて、そんな感情を楽しめとも言っていた。

 今までにない感情だから、それを理解して楽しめと。そしてそれが自分を"化け物"になるのではなく"人間"のまま強くなれる道なのだ、と。まるで意味が分からない。人間として弱かったから、自分はシューラたち大切な仲間を失ってしまった。そんな人間弱者のままで、いったい何からそれを守れるのだろう。失わずに済むのだろう。


「……っ」


 駄目だ、考えがまとまらない。一度ヴァイオリンを弾くのをやめて、息を吐く。そんな中で、脳裏で誰かの拍手の音が耳に届いた。その人物が誰なのか、彼は既に理解している。自分の内側から聞こえてくる音に、目を閉じて意識を向けた。


 ******


 やがて肌で感じる温度が変わったと気付き目を開ければ、いつか見た月が浮かぶ空間がそこにあった。その空間内で一人拍手をしていたのは、過去に一度だけ相まみえた人物。己の右目──畏怖の概念が実体化したもの。姿は己と同じように成長していたことから、やはり彼は自分の経験を糧に存在し続けているのだろう。

 畏怖の概念は拍手をやめると、目を細めてからヴァダースの曲を評価した。


「実に心地いい迷いのある旋律だ。なるほど、お前のヴァイオリンの音色は何度かここまで響いていたが、我は今のお前の曲が一番気に入った」

「皮肉は結構です。私に何の用ですか?」

「さて?用があるのはむしろお前の方ではないか?曲を通じて我にも伝わってきたぞ。お前の迷い、不安がな。そしてその正体を我なら知っていると感じたから、この空間に来たのであろう?我はお前の負の概念を食らう者だからな」

「それは……」


 畏怖の概念の言葉は図星だった。

 自分一人ではこの感情に対しての答えを、到底出せそうにないと感じてしまっていたヴァダースは、もしかしたら彼なら何か答えを知っているのではないかと考えた。だから己の内側から聞こえてきた音をこれ幸いと感じ、この空間に来たのだ。

 どう取り繕うとも、相手は言ってしまえば己自身でもある。言い訳はできない。しかし畏怖の概念はそのことを責めるわけでもなく、気分がいいからと不問にした。


「なぜ責めないのです」

「あまりにも不公平だと感じたまでよ。お前に告げたな、我を抑えるかどうかお前とゲームをすると。しかし一年前、我はお前の負の感情を知らずのうちに食らっていたようなのでな。その借りを返そうと思ったのだ」


 つい、と指で頭上の月を指す畏怖の概念。言外に見ろと伝えられて顔を上げれば、月の形状が以前より若干欠けていた。一年前というと、ちょうどシューラたちを失った時の頃だ。あの時の慟哭を、彼が食らったということなのだろう。頭上の月はヴァダースの意識そのもの。それを勝手に食らったというのならば、確かに不公平だ。


「さて、与太話もここまでにして早速尋ねようか。……お前は、嫉妬の感情が分からないと言っていたな」

「……ええ。嫉妬している原因を探ろうとしましたが、結局自分が抱いているのは怒りではないかと感じました。でも、何故か己でもその答えに疑問を持ってしまう。どうしても腑に落ちないんです。……嫉妬とは、なんなのですか?」

「ふむ、嫉妬が分からぬとはなんともつまらん人生を送っていたものよな。……嫉妬する原因はいくつかあるが、その根にあるのは大抵が劣等感や不足感からよ」

「劣等感や不足感……?」


 オウム返しに尋ねれば、そうだと畏怖の概念は頷く。己にないものを持っている者を目の前にしたとき、人は相手に対して劣等感を抱くものだ、と。自分に足りないものがあると自覚し、そこに不足感を感じる。それが転じて"嫉妬"の感情に繋がるのだと彼は話す。


「劣等感や不足感が嫉妬に変化するのは、それらを満たすための方針が見当たらない時がほどんどだ。方針が見当たらなければ不安が付きまとう。そしてその不安は焦りとして人を追い詰め、時には暴走する。今のお前はその暴走一歩手前の状態よ」

「……シャサールに言われました。私は自分が嫉妬していると自覚してないから、己の中でその感情が噛み砕けなくて、メルダーに八つ当たりしてるだけだと」

「そうだな、その女の指摘は間違っていない。方針……地図と言ってもよかろう。己が抱いている劣等感を埋めるための地図が手元になく、焦っている自分を己で解決できない腹いせに、お前は対象の人間に当たっている。我から見たら、幼子のようだ」


 そう告げてから、しかしと畏怖の概念は言葉を続けた。

 そして告げられた言葉にヴァダースは、思わず己の耳を疑うことになる。


「嫉妬は時に己の成長にも繋がるものだ。お前は嫉妬している人間に対して、自分にはない何かを持っているのではないかと無意識のうちに考えている。そしてそれをどう補えば彼より上に行けるか、ともな」

「嫉妬が成長に繋がるなんて、あるわけが……」

「まぁ最後まで聞け。どう補いたいかというのは裏を返せば、どういった自分になりたいのか考えているとも言えよう。端的に言ってしまえば、嫉妬とは未来にある自分への道しるべたるものになり得るのだ。だからこそあの女はお前に、嫉妬の感情を楽しめと言ったのだろうな」


 ──別に責めてるわけじゃないの。嫉妬ってのはたぶん、アンタの中で初めての感情なんでしょうね。だからその感情を正確に理解しなさいよってアドバイスしたかっただけ。アタシら戦闘員たちの上に立つ人間が、自分の感情が分からないなんて間抜けな話ないもの。


 ──この際なんだから、その感情を楽しんでみなさいよ。そうしたらきっとアンタは、昔のような"人間"に戻れるし、もっと強くなれると思うから。


 畏怖の概念からの言葉を聞いて、シャサールの言葉を思い出す。

 彼女は、このことを知っていたのだろうか。そういえば、彼女は以前ヴァダースに告げたことがある。置いていかれるのはゴメンだ、と。もしかしたらその言葉は、彼女が何かに嫉妬していたから出た言葉なのだろうか──そう考えたところで真相は分からないままなのだが。


「嫌悪しているからと切り捨てるのは簡単だろう。だがそれではお前自身の成長は止まる。……その人物と己を分析してみせよ。その人物に何があって己に何がないのかを理解することが、嫉妬を成長に変える一歩となろう」

「……それが"人間"のまま強くなる方法だ、とでも?」

「そう伝えたつもりだが?お前、以前より思考が鈍くなっているのではないか?」

「っ……」

「初めてのことに対して戸惑うことは、人間ならば誰でもあることだろう。そこを恥じる必要はない。しかし思考は停止してはならん。それは停滞を意味し、思考の放棄になる。それでは我はつまらん。お前が成長する分には、ゲームにさらに興が乗る」


 だから向き合うことから逃げるな、と畏怖の概念はヴァダースに告げるのであった。

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