第十七節 過去を手放す難しさ

 シューラの制止の声も聞かず、ヴァダースは与えられているという部屋に逃げるように入る。そして勢いそのままに手に持っていたヴァイオリンケースを床に放り投げようとして、しかし力なくその場に膝をつく。


 過去は手放すと決めたはずなのに、と。カーサに入るときに、音楽家として生きることを諦めると誓ったはずなのに、この体たらくは何だろうか。どうしてこのケースを、その中身を、非情にも壊すことができなかったのか。

 思わずローゲの口車に乗ってしまったが、非情に徹しきれなかったのはこちら側の失点だ。自分の意識が塗り潰されないようにと、演じる仮面をつけたというのに。あっけなく剥がれ落ちそうになったことに、己自身が情けなくなる。


「おーこわこわ。ご機嫌ナナメってのが見て取れるねぇ〜」


 突然耳に入ってきた声に、思わず息を呑みながら音の発生源へ顔を向ける。まさか部屋の中に誰かいるとは思ってなかったのだ。できることなら誰にも見られなくなかったのだが、と。

 そこにいたのはヴァダースと同室であり、先程紹介されたシューラ班の一人、ディーブだった。彼は己のベッドに横になりながら、ヴァダースを好奇の目で見つめている。ヴァダースの一つの疑問が浮上する。何故ここにディーブがいるのだろうか。彼は先程、シューラから訓練を命じられていたはず。

 そんなヴァダースの心の内の疑問を知ってか知らずか、ディーブはけらけらと笑いながら答えた。


「ああ。隊長の訓練に戻れってのは、つまるところ待機してろってことなのさぁ。だからオレぁ部屋で戻ってくる新人を待つことにしたんだよ。いやぁ、それにしてもびっくり仰天。さっきの生意気な態度はどこへやらって感じとはね~」

「……貴方には、関係がないでしょう」

「それは昨日までの話。もうアンタはオレらと同じグループのメンバーで、オレはアンタの先輩になる。もう無関係じゃあいられないんだなぁこれが」

「だったら……放っておいてください。今、貴方の相手はしたくない」

「これまた寂しいことを言いなさる。どーせそのケースが原因なんだろ?」


 ディーブは上体を起こすと、ヴァダースの手に握られているケースを指差す。違うと反論したかったが、図星だっただけに言葉に詰まる。それが相手に、正解だということを伝えているともいざ知らず。何も言い返せずにいるヴァダースに対し、ディーブはそれを肯定と取ったのか、次に質問を投げかけられる。


「アンタ、それ壊そうとしたよな?なんなん、それ?」

「……」

「答えないのなら答えるまで同じ質問するぞ~?」


 その言葉に嫌気がさし、ちらりをディーブを一瞥する。彼は好奇心を一切隠すことのない笑みを浮かべながら、こちらを食い入るように見つめている。その様子から先の言葉がはったりではないと確信し、一つため息をついてから嫌々答えた。


「……ヴァイオリンです。私がまだ……音楽貴族としていた頃にいただいた」

「ほぉーん。んじゃあ、それはアンタにとって大事なものなんじゃないんだ?」

「今の私はカーサの一員です!こんなもの、私には必要ない!だから──」


 壊せるはず、と言葉を続けようとして。それに被せるようにディーブが告げた。


「でも壊せなかった。必要ないなんて言うけどさ、本心では壊したくなかったんじゃないの、アンタ?」


 まるで核心を突くようなその言葉に、思わずヴァダースは言葉を失う。

 違う、これは必要ない。今となってはヴァイオリンは、自分にとってはガラクタ以外に他ならない。頭では思い浮かんでいるのに、その言葉が喉から出ない。


「言い返せないところを見ると、やっぱりそうなんじゃんかよ」

「ち、違います!こんなの私にとってはもう価値のないものです!こんなのを持っていたら、私はいつまでも強くなんてなれない!音楽家の道を諦めると決めた、カーサとして生きていくと誓った私に、過去なんてものは足枷でしかない!」


 ヴァダースの咆哮をただ聞き流し、ディーブは納得いったようなそうでないような曖昧な相槌を打つ。それからまた別の問いかけを投げる。


「過去に縛られてたら強くなれないってのが、アンタの持論なん?」

「そうです!いつまでも未練がましく、過去にありえた可能性を羨むなんて愚かなことです……!」

「んー、まぁその答えなら一理あるわな。けど、過去を捨てなきゃ強くなれないなんて、誰が決めたのさ?それにそんなことして得た強さってのは、偽りの強さでもあるんじゃないの?」

「偽り……!?」


 そうだと頷くディーブ。一呼吸置いてから彼は、語り手のように話し始めた。

 過去を捨て去ることで決意を固めることも、ないことではない。しかし過去のない人間の今からという未来は、己が思う以上に儚くなる、とも。その言葉にヴァダースは噛みつく。


「過去を捨てるのが、間違いだとでも言うんですか!?」

「そう噛みつかなさんなって。別に悪いとは言ってないじゃんよ。確かにそれで成功して強くなる奴もいるだろうけど、少なくともアンタにその方法は向いてないんじゃないかって思っただけさ」

「そんなの、やってみなければわからないじゃないですか!」

「ふーん。じゃあ聞くが、アンタの過去ってのはそんな簡単に捨てていいほどに、ちっぽけなものだったんか?」


 そう尋ねられてしまうと、言葉に詰まってしまう。

 そう──あの温かい日々が、ちっぽけであるはずがない。尊敬する両親がいて、慕ってくれる執事やメイドのみんながいて。そんな彼らに愛されていたことを嬉しく思い、己もまた彼らを愛していたのだ。

 自らがそれを奪ってしまったとはいえ、あの幸せに満ちた日々は。光溢れていたあの時間は、ヴァダースにとってかけがえのないものであることに変わりない。

 言葉をなくし俯いたヴァダースに、諭すようにディーブは言葉を投げかける。


「過去の一つ一つの積み重ねで、今のアンタがいるんでしょ。どんな経験も、どんな過去も、たとえ役に立たなくたって自分の糧になることに変わりないんさ」

「……自分の、糧……」

「アンタは頭良さそうだから、そこんとこは十分理解できそうだけどなぁ。んで、もう一回聞くけど。アンタの過去は簡単にドブに捨てられるほど、価値のないものだったんかい?」


 ん、と首を傾げたディーブに対し、すっかり毒気が抜かれてしまった。

 過去がどうだとか今がどうだとか、そんなことを抜きにしたヴァダースの答えの言葉は、自然と零れるように口から落ちた。握りしめていたヴァイオリンケースを優しく、懐かしむように撫でながら。


「……そんなことは、ありません。あの日々は……僕にとって、本当に幸せな日々だったんです……。純粋に音楽を楽しんで、夢見ていたんです……。今となってはその夢はもう決して叶えることはできませんが、それでも……。僕は音楽を、心から愛していたんです」

「……そっか」

「このヴァイオリンだってそうです。これは父様と母様からの、誕生日の贈り物でした。このヴァイオリンの音色を、世界中に届けたい……ずっと、そう願い続けていたんです」


 結局のところ、ヴァダースはそこまで非情になりきれずにいた。仮面をつけて己を欺いて演じていたものの、過去に関しては心のどこかで、なくしたくないとずっと思っていたのだ。それに気付かされてしまった。

 何故なら親戚の一件では別にしても、実の両親や以前屋敷にいた人物たちは、憎しみから奪ったわけではない。彼らから光を理不尽に奪ってしまったのは、自分自身だ。そのことから、ずっと目を背けていた。過去を捨てるなんてことを、言い訳にして。自分の都合のいい解釈として過去を処理してしまおうと理不尽に考えていたのだと、おせっかいそうなこの同室の男に諭されてしまった。


 しかし、カーサの戦闘員になることを後悔したわけではない。これが己の、新しい生き方にしようと決めたことに対して、嘘偽りはない。


「今からでも貴族に戻りたいですか、お坊ちゃん?」

「……ご冗談を。今の私はカーサの正式な戦闘員ですよ?それに、いい加減お坊ちゃんとしかからかえないその語彙力のなさ、どうにかした方がいいのではありませんか?もし勉強が苦手なら、教えて差し上げてもいいんですよ」

「へっ、勉強なんて面倒なことヤなこった。そんなことよりも、折角同室になった仲なんだから、一曲ぐらいお貴族様のヴァイオリンを聴かせてくれてもいいんじゃないんかねぇ?」


 にやにや、と笑うディーブに対しヴァダースは小さく笑って返す。


「私の演奏は高いですが、構いませんね?」

「おいおい先輩から金とるのかよ」

「当然じゃないですか。むしろ払っていただけないほどお財布の中身が寂しいんですかね?同じグループになったというのに、歓迎会すらしてくれないんです?」

「クソ生意気言いやがって、可愛くねーのぉ」


 そうは言いつつもベッドから立ち上がったディーブは、人差し指でちょいちょいと部屋のドアを示す。


「仕方ないから飯でも奢ってやんよ。ただまぁ、舌の肥えたお坊ちゃんの口に合うかねぇ。そこはご了承くださいなってことで」

「いえいえ、これも貴方の言う積み重ねというやつですよ。むしろ楽しみで仕方ありませんね」

「言ったなぁ?そんじゃあ腹が膨れるまで食わせるから、覚悟しやがれよ?」

「上等です」


 そう返事を返してから、そっとベッドの上にヴァイオリンケースを置く。それに一度微笑んでから、ヴァダースはディーブとともに部屋を後にするのであった。

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