第十二節 成長の足音と鼓動と

 ある日のこと。今日も今日とてシューラの叩きのめされたヴァダースは、与えられた自由時間の間に娯楽スペースに来ていた。娯楽スペースの一角には、世界事情を知るための本が収められている本棚がある。その本の中には武術に関する書物もある。彼はまた今日もその中の一冊を手に取り、目を落とす。ヴァダースはそこにある本に何かヒントがないものかと、数日前から本を漁っているのだ。


 毎日のようにシューラに鍛えらえれているものの、いまだに彼女に一撃をあたえることができないでいた。月二回開かれる昇進試験も、遠目から眺めるばかりで参加したことがない。それが、ヴァダースに焦りを齎していたのだ。


 自分はこんなところにいつまでもいるつもりはない。

 カーサに連れられてきて、置かれた立場を知り、世界の敵になると決めた。自分にはもうその道しかない。だから突き詰めてやると決意した。従えて支配してやると誓った。それが唯一、光溢れる表世界から追放された自分に残された道なのだ。

 そのために早く行動に移りたいというのに、自分はいまだにここで燻ぶっているだけ。自分は何をしているのだろう、何がしたいのだろう。ここにいることでの自分の価値は、なんなのか。考えれば考える度、黒く濁った感情が胸の中で渦巻く。どうにも冷静になれない。そのせいもあるのか、最近右目がツキツキと痛む。


「……参考になりそうにないな」


 一冊の本を閉じ、深く溜息を吐く。どの本も似たり寄ったりのことしか書いていない。ここ数日で、シューラの立ち回りを何度も見ているはずなのだが。毎回悉く弾かれ、吹き飛ばされ、叩きのめされる。それも魔術の類を一切使わずに、だ。

 自分にはいったい何が足りないのだろうか。何が欠けているというのだろうか。そんなことを考えながら二冊目の本のページをめくろうとして、指先に小さい痛みが走った。


「痛っ……」


 左手の人差し指を見ると、そこには一直線の小さな傷ができており、血が滲んでいた。どうやら紙で指を切ってしまったらしい。その指を見下ろして、脳内にある光景が広がる。


 ******


 まだそれは、屋敷で平和な日々が続いていた時のころ。自宅で魔術の修練中、誤って指を怪我してしまったことがあった。マエストンの適切な処置で大事には至らなかったものの、父親からはこっぴどく叱られてしまった。音楽家たるもの、指は命の次に大事な最期の部品なのだ、と。それをないがしろにする者に、音楽家を語る資格はない、とまで言われたほど。


「わかったか、ヴァダース」

「はい……申し訳ありませんでした、お父様」

「わかってくれればよいのだ。指の怪我は、私たち音楽家にとっては致命傷にもなりかねんからね。よく覚えておきなさい」


 そう微笑みかけて、頭を撫でてくれた父アニマート。そんな子供と夫を慈しむような瞳で見つめていた母ドルチェ。そして温かく見守ってくれていたマエストンや屋敷の従者たち。ああ──。


 ……本当に平和だった。あの頃は。


 しかしそれは、己が全て奪ってしまった。理不尽に。

 もう自分の目の前には、血の道しかない。ないんだ。


 ******


 頭を軽く振るう。違うだろう、と。

 その道を選んだのは、ほかでもない自分だ。その道を進むと決めたのは、自分の意志によるものだ。だから、被害者の感覚で語ってはいけない。と、口にしてはいけないんだ。ヴァダース、前を向きなさい。俯いてはいけない、止まってはいけない。進むために、力をつけなければいけない。


 指の怪我になんて引っ張られるな。もうこの手で音楽を奏でることなんて、ないのだから。


「……ん?」


 読んでいた本のページに目を落とす。そこには、組手の間合いについて記されていた。距離の測り方、立ち位置、攻撃方法や防御方法。目を通していくうちに、これは使えるものだと理解する。

 娯楽スペースのものは共通のもの。基本的に持ち出しが禁止されている。このページに書かれてあることをメモに取りたいが、あいにくとそれは自分の部屋にしかない。仕方ない、一度取りに戻ろう。幸い、まだ自由時間はある。


 ヴァダースは一度立ち上がり、娯楽スペースを後にする。それから少しして。彼の後ろ姿を見た娯楽スペースにいた数人の訓練生が、ヴァダースを追うように立ち上がったのであった。



 娯楽スペースから自分の部屋までのルートは、ここ数日で大体覚えた。多少入り組んだり死角になる場所も多いが、特段これといった場所はない。しいて言うならば倉庫がいくつかあるくらい、だろうか。中に入ったことはないが。


 ……それにしても、と思う。

 ここは、カーサは、悪人たちの巣くう場所だというのに。自分が見てきたどの悪人ぜんにんよりも素直だと、ここ数日で強く感じる。誰しもが強くなることに酷く貪欲で、横暴で、少し羨ましく思ってしまえるほどに、真っすぐだ。

 何回か見学した昇進試験の勝利者がみな、そういった人物たちだった。悪逆非道の道だというのに、歓喜に震えていた。自分もそこに、至れるだろうか。


 考えを巡らせながら歩き、ふと足を止めた。耳に入ってくる足音は4人分で、いずれも後ろから自分を追ってきた様子。何故なら己の部屋があるのは、通路から一番奥にある。その間にいくつも部屋があるというのに、その足音たちはどれも立ち止まろうとはしなかった。


「……何か、僕に用でもあるのですか?」


 いい加減付きまとわれるもの面倒というもので、声をかけてこないのならばとヴァダースは己の方から足音たちに声をかけた。後ろにいた人物たちはいずれも訓練生だが、その表情はとても友好的とは程遠い。笑顔は笑顔なのだが、こちらを見定めるような視線が実に汚らしい、とでも表現したらいいのだろうか。


「いやなに、数日前に訓練生になったって奴に興味があったんでね。全体訓練に中々参加しないもんで、どんな奴なんだろうなって話してたんだ」

「はぁ……」

「しかも名前がヴァダース・ダクターときた。音楽貴族のお坊ちゃまだぞ?」

「そんなお貴族様がどうしてこんな底辺の集まりに来たのか、そりゃあ知りたくなるほうが自然ってモンだろぉ?」

「そこで、だ。俺たちとオトモダチになってくれんかねぇヴァダースお坊ちゃん。色々知りたいんだよ、例えば──」


 男の一人が言葉を発する前に、ヴァダースの耳に新しく5人目の足音が届く。しかもそれは、自分の後ろから。気付いた時にはすでに遅いというもので、背中に何かを撃ち込まれたヴァダース。一瞬痛みはあったものの、背後の人物に向かって手を振り払い牽制をする。


「っ……!」

「どんな声で啼いてくれるんだろうなとかさぁ!!」


 いけない、これでは多勢に無勢。とりあえず逃げなければ、と思うものの体に力が入らない。背中に打ち込まれたのせいだろうか。それになんだろうこれは、身体が、熱い。


「そいつはいいオクスリってやつさ。こんなところじゃなんだ、折角近いんだからお坊ちゃまのお部屋で楽しいことしようや」

「なに、を……!」

「ほらほらぁ、座ってないで部屋に入ろうじゃんよぉ」


 力の入らない手足。男たちのうち一人に手を乱暴に掴まれ、立ち上がらせられ、拒否する間もなく部屋に入れられる。入ってきた人数は自分以外に5人。床に落とすように投げられたヴァダースは、忌々しいと言わんばかりにその人物たちを睨む。


 嗚呼、前言撤回しよう。やはり、悪人は悪人なのだと。

 羨ましいと思った己が、愚かすぎてならない。


「なんの、つもりですか……立派、な犯罪行為じゃ……ないですか……」

「ああそうさ?俺たちはこれからお前をマワす。立派な強姦罪だろうよ」

「けど、それがなんだってんだ?俺たちゃ元から犯罪者なんだぜ?さらに罪を犯そうがどうってことねぇよ」

「おっと、薬の効果がもう出てきたのか?感度は良好ってやつか」


 二人の男がヴァダースの両腕を抑え、一人はヴァダースの訓練着に手をかけようとしている。絶体絶命というときに限って、右目の痛みが増していく。男たちに集中ができない。


「まぁ?生真面目お貴族お坊ちゃんにとっちゃあ、初体験なんだろうが、それこそ俺たちの恰好のエサってもんよ」

「そうそう。それにお貴族様の処女喪失なんて、俺たちだって滅多に体験できることじゃねぇからなぁ。いやぁありがたやありがたや」


 ──……黙れ


「っ……!!」


 ざわり、と身体の内側がざわめく。誰かが自分の中で憤慨している。

 男達はヴァダースが息を詰まらせたのが、自分たちが投与した薬の効果だと誤認しているようだ。


 ──黙れ、矮小なごみ虫たち。お前たちに触れられるなんて悍ましい。あってはならない蛮行。黙れ、黙れ、さもなくば──


 右目が貫かれるように痛い。目の奥の神経が焼き切れ、脳まで突き刺しそうな熱と痛みがヴァダースを襲う。しかし幸か不幸か、投与された薬の影響で快楽に変わりつつある。息が上がってくる。抑えが効かなくなりそうだ。


 男たちはそんなヴァダースを知ってか知らずか、いやらしい笑みを存分に浮かべて彼の身ぐるみを剥がしていく。


「や、め……っ!」


 その制止の言葉が彼らに向けられたものなのか、己自身に向けたものなのか。最早ヴァダース自身に出さえ理解できなかった。ただ一言、声が聞こえてから彼の意識は闇に塗りつぶされた。


 ──さもなくば、貴様らを全員殺すまで。

 ──畏れよ、矮小な虫でもその権利は許してやろう。

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