第六節 開眼の時
チャリティーコンサート当日。その日の朝、ヴァダースは奇妙な夢を見た。
夢の中で、ヴァダースは一人だった。薄暗い空間の中、彼以外には何もない場所だった。足元も暗かったが、何か冷たい感触を感じていたからおそらく、水の上にでも立っていたのだろう。その中で、声が聞こえたのだ。
形はなく、目に見えない何かの声。それに呼ばれているような、指図されているような夢。今までに聞いたことのない声だった。空間内に響いていたその声が、ひどく近い場所から聞こえてきたのが、印象的だった。
声が発していたであろう言葉は、目が覚めた今では朧気にしか覚えていない。そもそもあの声は、本当に自分に向けられていたのか。それすらも不明だ。ベッドから起き上がりあの夢はなんだったのだろうと考えていたが、ドアがノックされる音で我に返る。
「お坊ちゃま、おはようございます」
マエストンの声だ。コンサート当日なのに全く起きてこない自分を、心配したのだろう。時計を見れば、もう朝食の時間が迫っていた。慌ててマエストンに返事を返し、すぐに支度しますと答えた。
「よかった、旦那様と奥様もお待ちでいらっしゃいますよ」
「はい、ごめんなさいマエストン!すぐに向かいますと、お父様とお母様にお伝えして!」
「承りました。私は朝食の用意に戻りますので、これにて」
部屋から離れる彼の靴音を聞きながら、ヴァダースは着替えていく。姿見で乱れがないか確認し、寝癖も直していく。準備が整い終わり、最後に右目を隠している眼帯にそっと触れる。
今日のコンサートのために、右目を隠した状態でヴァイオリンを弾く練習もこなしてきた。形にもなっているし、問題なく旋律を奏でられるが──。
「……これ、演奏の時は取っていいかローゲ先生に聞いてみようかな」
そうぽつりと呟いてから、彼はリビングへと向かうのであった。
リビングではアニマートとドルチェが、すでに朝食を口にしていた。また、テーブルのゲスト席にはローゲは着席しており、彼らとともに朝食をとっている。彼らはヴァダースの姿を見て、安心したかのように声をかけてきた。
「おはようヴァダース。遅かったが、まさか体調が優れないのか?」
「おはようございます、お父様お母様。ご心配おかけしてごめんなさい、少し緊張していたみたいで寝れなかったのかもしれません」
「それだけですか?本当に大丈夫なのですか?」
「はい、お母様。僕はすっかり元気です。大丈夫ですよ」
「よかった……貴方の身にもしものことがあったらわたくし、いてもたってもいられませんわ」
ほっと胸を撫で下ろすドルチェに謝罪しながら、ヴァダースも用意されていた自分の席に着席する。するとマエストンがミルクを彼のグラスに注いでいく。ヴァダースはローゲに声をかけ、眼帯についてのことを訊ねてみることにした。
「あの、ローゲ医師。お尋ねしたことがあります」
「おや、なんだい?」
「この眼帯……演奏前に、外してみてもいいでしょうか?」
「先生、いかがなのでしょう?確かにここ数日、ヴァダースは眼帯をつけたままのセッション練習を取り組みました。特訓の甲斐あって、わたくしとの演奏に何の支障はありません。ですが、その……傷が塞がったのならば、わたくしはこの子の素顔を眺めながら演奏したいのです」
「お母様……」
「この子はわたくしたちの宝。元気になったという姿を、わたくしたちはもちろんのこと、この子のご学友のみんなにも見せてあげたいのですわ」
ヴァダースの言葉に続くように、ドルチェが口を開き言葉を紡ぐ。そして最後に彼女はふわりと、ヴァダースに微笑みかける。アニマートも彼女の言葉に頷き、ローゲに眼帯の是非を訊ねる。
ローゲはしばらく考えるそぶりを見せた後、にっこりと笑う。
「そうですね。昨晩の診察の時、傷が塞がっていることが確認できました。もう感染症にかかる心配もありません。だから取っても大丈夫ですよ」
ローゲのその言葉に、ヴァダースたちの顔が明るさを取り戻す。眼帯を外す許可を得た彼は、折角ならみんなに大丈夫なところを見せたいと告げる。そこで演奏の前に少々時間を取り、ヴァダースからスピーチをしようと計画が立つ。一気に元気を取り戻したヴァダースたちはその後朝食をとり、コンサート会場の準備へと赴くのであった。
******
チャリティーコンサート会場の周りには、ミズガルーズ国家防衛軍の軍人たちが数名、防衛にあたってくれるとのこと。会場内部には、あの名家ダクター家の演奏を一目見たいと、多くの人が集まっていた。その中にはもちろん、ヴァダースの友人やその家族たちもいた。
そんな中ヴァダースは、舞台袖でローゲを探していた。彼に恩を感じていたヴァダースは、演奏が始まる前に一言お礼を告げたかったのだ。しかしどこを探してもローゲの姿は見当たらない。何処かで迷っているのだろうか。
「ヴァダース、どうしたのか?」
そわそわとした様子に、アニマートが声をかけてきた。ヴァダースはローゲを探している旨を伝え、彼の姿を見ていないかとアニマートに伝えるも、見ていないと返されてしまう。肩を落とすヴァダースに手を置いたアニマートは、彼に笑いかけながら声をかける。
「先生も、会場のどこかでお前のことを見守っているだろう。演奏が終わったら、満足のいくまで彼と話せばいい」
「お父様……」
「さあ、もう幕が上がる時間だ。もう行きなさい。私は舞台袖から、お前と妻を見守っているぞ」
「はい!」
父親の声援を受けたヴァダースは、胸を張って母親の待つ舞台の上手側へ向かった。そこにはドレスコードで身を包んだドルチェが、マイクを持ってスタンバイしている。彼女はヴァダースとアニマートの姿をとらえると、声は出さずにふわりと微笑む。そこには、成功させましょうねという声援も含まれていた。
観客を収納したホールに、開演を知らせるブザーの音が鳴り響く。明かりが落ちる会場。スポットライトの当たる緞帳が、ゆっくりと上がっていく。アニマートに肩を軽く叩かれて、ヴァダースはドルチェとともにステージ中央に向かって歩いていく。二人の姿が見えたことで、観客たちは拍手を送る。中央に立った二人は観客背に向かって一礼。ぱちぱち、という音が落ち着いてからドルチェが話し始める。
「みなさま、本日はお越しいただき感謝いたしますわ。最近物騒な事件も相次いでおりますが、このひと時だけでも楽しんでいただきたく存じます」
そう挨拶の言葉を述べてから、彼女はヴァダースの肩に手を置いた。悲痛に瞳を閉じ、静かに語る。
「そして……ご存じの方もいらっしゃいましょうが、わたくしと主人の大切な宝でございますヴァダース・ダクターが、先日魔物の被害に遭われました。ですが彼は奇跡的に回復し、今日この時を迎えることができました。それはひとえに、皆様方の応援があったからこそ。本当に、感謝いたしますわ。さぁヴァダース、みなさまにご挨拶を」
ヴァダースは一つ頷きドルチェからマイクを受け取ると、まずは一礼する。そして顔を上げ、しっかりと前を向きながら話し始めた。
「みなさま、こんにちは。ヴァダース・ダクターです。この度は、みなさまにご心配とご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした。魔物からの被害を受けたときは、もうおしまいなんだと絶望しました。ですが、皆様の声援があって、周りの人たちの協力もあって、僕はここに立つことができました」
話している間彼の頭の中では、走馬灯のように傷を負ってから今までの思い出がよぎっていた。つらかったリハビリや、遅れていた練習を取り戻すことは容易ではなかった。それでもここまで頑張ってこれたのは、周りの人たちに恩返しをしたい一心があったから。
「この眼帯もはずしていいと、医師の方からお言葉をいただきました。傷も塞がったので、皆様の前でこの眼帯を外そうと思います」
一度マイクの電源を切り、彼は眼帯に手を伸ばす。留め具を外したところで、ふとある声が聞こえた。
──時は、来た。
え、とその言葉に疑問を持つもすでに眼帯は手に収まる。そしてゆっくりと瞼を上げて、前を見ようとして──。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
まるでヴァダースを中心としてステージも、ホール内も、会場も、その付近も。一気に紙をくしゃくしゃに丸めた時のような、粘土を手で握りつぶしたような、いいようのない感覚に襲われた。
ヴァダースが我に返ったのは、隣から何かが倒れた音が聞こえたときだ。
いったい何がと振り返り、ドルチェがその場に倒れこんでいる光景が目に飛び込んできた。
「お母様!?」
突然の出来事に、ヴァダースはスピーチ中であるにもかかわらず彼女に近寄る。彼女の肩をゆするも、反応はない。まったく身動きしない。
「お母様、どうなされたのですか!?お母──」
ドルチェの顔を覗き込んだヴァダースは、思わず言葉を失う。
ドルチェの顔から、つい先程まであった微笑みは消え失せていた。瞳孔は開き、白目の両端に追いやられている。舌は口からだらん、と垂れている。その姿はまるで、絞殺された死体。
「あぁあああ──!!」
悲鳴を上げる。誰か医者は、と観客席を見たヴァダースの目の前に、目を覆いたくなるほどの光景が飛び込んでくる。
観客の誰も、身動きしていない。脱力したように椅子に体を預ける男性。血反吐を吐いたのか、ドレスを真っ赤に汚したまま固まっている女性。泡を吹き、天を仰ぐ学園の友人たち。音など一切聞こえない。息遣いすらも聞こえない。まさしく、静寂が会場を包んでいる。おぞましい光景に悲鳴を上げながら、彼は舞台袖にいるであろうアニマートのもとへと駆ける。
「こんなの、嘘だ!お父様、何が起こっているんですかっ!?」
舞台袖で倒れ、身動きしていないアニマートの体を必死に揺さぶり声をかける。しかし一向にアニマートは動く気配がない。子供の力ながら、どうにかうつ伏せだったアニマートを仰向けにして、ヴァダースは目を見開く。
父親の顔は、その聡明さが一切消されていた。白目をむき、口から泡と血と涎と舌を出したその顔は、まさしく絶望を張り付けたようで。あまりの恐ろしさに、ヴァダースはそこから悲鳴を上げながら、一目散に逃げることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます