第二十五節 あなたはとても素晴らしい友達

 口論になりスグリが走り去ってから、ヤクは逃げるように図書館に引きこもっていた。図書館の奥にある角っこ。そこが孤児院に来てからのヤクの定位置だった。

 世界保護施設に幽閉されていたときは、文字を理解するためにと無理やり本を読まされていた。本の世界の中は平和そのもので、文字の羅列でしか語られないものたちに対して憧れを抱いていた。

 空とは何か、月とは何か。花とは、草とは、森とは、自然とは、人とは。ありとあらゆるものを、本は白い大人たちとは違って痛みを伴わずに教えてくれていた。だから本を読むことは、ヤクにとっては安心できることそのものだった。本を読んでいる間なら、ほかの怖いことを考えずに済む。


 それなのに今はどんな本を読んでも、頭に入ってこなかった。先程自分が言ってしまった言葉が、頭の中で反響する。


 ──怖いって言ってるのに無理やり連れだそうとするスグリなんて嫌いだ!!ここにいるのがスグリじゃなくて、メルツだったらよかったのに!!


 本当はそんなこと、言うつもりなんてなかった。しかしそれはもはや後の祭り。その言葉を聞いた時のスグリの顔が、頭から離れない。ショックを受けた、なんて表現じゃ生ぬるい。あんな、絶望したような表情を、よりにもよって命の恩人であるスグリにさせてしまった。


 ヤク自身、理解しているつもりだったのだ。この孤児院にいるのは自分とは関係のない、しかし境遇が近しい子供たちだと。ここの子供たちは、そんな境遇の中でも毎日楽しく遊んで、笑って過ごしていることに対して、ヤクは一切関係がないということを。

 しかしどうしても、思ってしまった。こんな温かい日々を心から望んでいた、自分の家族にも等しい実験体だった子供たちがどうして今、ここにいないのだろうかと。どうして自分の隣にいるのが、メルツじゃなくてスグリなのだろうかと。


 それに加えて、怖いのは何も世界だけではなかった。ヤクが何よりも恐怖していたのは、自分自身に対してだった。ここ最近、彼は悪夢ばかりを見る。研究所で自分が殺してしまった子供たちや、スグリの父親であるアマツの死体が足元に転がっている中、自分一人だけが立ち尽くしている夢を。足元は真っ赤な血の池が広がっており、そこからいくつもの声が聞こえるのだ。


『どうしてヤクにーにだけが生きているの』

『みんな一緒だって言ってたのに』

『痛いよ、苦しいよ、寒いよ、冷たいよ』

『何故私を殺した、救いの手を差し伸べた結果がこれか』


 それらはまるで怨嗟の声で、ヤクを責めるような言葉ばかり。その夢も相まって、ヤクは己が恐ろしくなった。助けようとしてくれた人たちを、自分は最悪の形で裏切ってしまうのだと。誰かの優しさに触れたら、その光を自分は壊してしまう。これからもきっと、変わらないのではないか。自分はすべてを壊してしまうのではないか。そう畏怖しているのだ。

 その夢の影響で寝不足でもあり精神的に不安定だった状態だったために、スグリの放った言葉に思わず噛みついてしまった。彼に対して、一番言ってはいけないことを口走ってしまった。しかしどうやってスグリと向き合えばいいのか、ヤクはわからないでいた。


 無駄に時間だけが過ぎていき、図書館も真っ暗になりかけていたその時。ランプの明かりと共に、ある人物がヤクのもとを訪れた。


「こんなところにいたんだね。ダメだよ。夕食はみんなで一緒に食べなきゃって、リゲル院長から言われていただろう?」

「あっ……え、と……」

「僕のこと、覚えてくれたかな?こうやってキミと二人だけで話すのって、はじめてだよね。改めて自己紹介すると、僕はルーヴァ・ヴァイズング。キミの味方だよ」


 にこ、と笑うその男性のことは覚えていた。スグリと共に密航したとき、窮地を救ってくれた人物だ。あの時は白い服を着ていたために恐怖心があったが、今はその服は着ていない。隣に座っていいかと尋ねられ、一つ頷く。


「スグリはもう、みんなと夕食を食べたよ。ヤクは食べなくてもいいの?」

「……僕、おなかすいて、ない……です……」

「そう……。でも、ちゃんと食べないと大きくなれないよ?」

「……っ、関係ない、です……!」

「そうでもないよ。僕はこの孤児院の臨時……簡単に言えば、時々様子を見に来る先生だからね。キミを保護する責任者の一人だよ、心配もするさ」

「頼んでない、そんなこと……頼んでない、です……!」


 反抗的な態度に、ルーヴァは無言になる。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと手を挙げたところを見て思わず身を固くする。殴られると咄嗟に感じたのだ。しかしいつまでたっても痛みは来ず、代わりに温かい温度で頭を撫でられていたことに気付く。

 その意味が分からずに恐る恐る顔を上げると、そこには優しい笑顔があった。


「キミが頑なに周りを拒否するのは、過去の経験があるから……かな?」

「っ……!?」

「ごめんね。スグリにも言ったんだけど、キミ達のことを軍で内密に調べちゃったんだよ。それでわかったんだ、キミ達のことが。……世界保護施設の実験の被験者、だったなんてね。それじゃあ、白い服を着ている大人が怖いのも当然だよね。あの時気付いてあげられなくて、本当にごめんよ」


 ルーヴァの言葉にヤクは言葉を失う。謝罪の言葉を受けてもどう返答したらいいのかわからず、うまく言葉を紡げない。ルーヴァはそんなヤクから無理に聞き出そうとはせずに、話を続けた。


「調べていくうちに、わかったよ。キミは、自分のせいで仲間や大切な人を殺してしまったと。そう思ってるんだよね?」

「ぁ……」

「でも、それは違うよ。キミはその事件の被害者なんだ。加害者なんかじゃない。それにキミは、誰も殺してなんかいない」

「そんなこと、ない!だって、僕がもっと早く助けてって言ってたら、みんな死ななかった!メルツも、みんなも、楽しく生きられた!スグリのお父さんを、殺すことなんてなかった!!全部僕が悪いんだ、僕が生きてたら、また誰かを殺しちゃう!」

「ヤク、それは間違いだ。キミが生きているだけで誰かを殺すなんてこと、絶対にないんだ。……スグリから聞いたよ、キミは彼から"命を託された"って言われたよね」


 ルーヴァの言葉を聞いて、ヤクの脳内で流れたのはスグリの言葉だ。己の父親は、ヤクに命を託した。笑って幸せに生きてほしいと願いを込めて、生かしたのだと。その意味を常に考えてはいるが、いつも答えは出ない。本当に意味なんてあるのだろうかと、最近はそのように考えてしまうことも多くなっていた。


「命を託すってね、言葉よりも深い意味があるんだ。誰かに命を託した人の人生は、託した時点で終わりなんかじゃない。託された人と一緒に、繋がっているんだよ」

「……繋がって、いる……?」

「そう。その人が見たかったであろう景色を、体験を。託した人が見ることで、一緒に体験するんだよ。楽しいことも苦しいことも、託した人の経験はそのまま託された人の経験にもなるんだ」

「っ……」

「キミは確かに、恐ろしい体験をした。そのせいで外の世界に恐怖を抱いている。それを責めるなんてことはできない。当然のことだ。でもね……キミの仲間が見たいのは、殻に閉じこもってばかりいるヤクの姿かな?」


 優しく抱きしめられ、背中を撫でられる。ぽん、ぽんと時折優しく叩かれると、高ぶっていた気持ちが落ち着いていく感覚を覚えた。研究所に置き去りにしてしまった家族たちが、見たかったもの──。


「キミは、キミを愛している人たちから生きてほしいって願いを込められたから、今ここにいる。スグリと喧嘩したときに愛されたことがないなんて言ってたけど、そんなことはないよ。キミは沢山の人から愛されたから、生きているんだ」

「僕が、愛されていた……?」

「キミの仲間だった子供たちは、そう思っていたはずだよ。僕はそう信じてる。だからヤク、少しだけ……勇気を出してみよう?その子たちが見たかった景色を、一緒にたくさん見ようよ」


 キミは一人じゃないんだから。その言葉が何よりも心に痛いほど沁みて、ヤクは思わずルーヴァに縋った。そこから悔恨や感謝などの感情が溢れて、口からは謝罪の言葉が零れた。

 その時の"ごめんなさい"の六文字は、己が殺してしまったことに対しての謝罪ではなかった。今まで怖がるばかりで勇気を出せなかったことに対する謝罪だった。


「自分で自分をそれ以上責めたら駄目だよ。自分を責めたら、ヤクに命を託してくれた人たちの人生を壊しちゃうことになるからね」

「うん……うんっ……!ごめ、んなさい……ごめんなさぁああい……っ!」

「うん、たくさん泣いていいからね。辛いことは一人で抱え込んだら駄目だよ」

「ごめ、んなさ、い……ぼく、頑張る……!外の世界を、見れ、るように……これから、がんばるっ……!」

「偉いよ、ヤク。一緒に頑張ろう」


 その後ヤクが泣き止むまで、ルーヴァはヤクを慰め続けていた。ようやく落ち着いた時には、図書館の窓から星が見えていた。ルーヴァから離れたヤクは目元をこすりながら、ぽつりと呟く。


「……僕、スグリに謝らなきゃ……。ひどいこと、言ったから……」

「……そっか。そうだね」

「でも僕、どうしたらいいのか分からない……!どうやった、ら……またスグリとお話しできるか……」

「それは大丈夫。僕も一緒についてってあげるよ。スグリならきっと、二人の部屋にいるから」

「本当……?」

「嘘は吐かないよ。安心してほしいな」


 ね、と優しく微笑みかけてくれるルーヴァ。ヤクはいつの間にか、ルーヴァに感じていた恐怖心が消えていたことに気付いた。一つ頷いておずおずと彼の服の裾を掴めば、ルーヴァはやはり微笑んでその手をそっと握り返す。そしてそのまま、ヤクとスグリに与えられた部屋まで二人で一緒に向かう。

 昨日までは普通に開け閉めしていた扉だが、今はものすごく高くそびえているように感じる。それでもこのままではいけないと、意を決して扉を開ける。部屋の中ではベッドの上で膝を抱えているスグリの姿があり、彼はヤクとルーヴァを見ると息をのんで近くまで寄ってきた。その表情はどこかばつが悪そうで、しかしヤクもどう切り出していいのかわからず、俯いて目線を逸らす。そこに助け舟を出したのは、二人を見守っていたルーヴァだった。


「ほら、二人とも。お互いに言いたいことがあるんだろう?」


 その言葉に二人は頷く。スグリは頭をかいて何か言いたそうな仕草をする。ヤクは一度目を強く閉じてから、弾かれるように顔を上げて言葉を紡ぐ。


「えっと──」

「スグリ、ごめんなさい!!」


 ヤクの反応が予想外だったのか、スグリは何か言いかけた口を閉じることができずにそのまま彼の話を聞く。


「僕、スグリのこと嫌いって言ったけど、本当は嫌いなんかじゃないから!本当はずっと、ありがとうって言いたかったんだ!でも僕、いつも怖くて何も言えなくて、でも本当にスグリが一緒にいてくれて、嬉しくてっ……!でもひどいこと言って傷つけちゃって、だから、あれ……?」


 喋っている最中だが、視界がぼんやりと歪む。話している途中から感情が混乱し始めてしまい、嬉しいのか申し訳ないのか安心しているのか、脳が処理しきれずにいた。それが涙となって両目から零れている。泣きたくないはずなのにと目をこするも、涙は一向に止まらない。一人混乱する中、スグリの言葉が聞こえた。


「俺の方こそ、ごめんなさい!俺、ヤクのためになんて言ってたけど、本当はヤクのこと全然考えられてなくて。お前が臆病者なんかじゃないって、わかってたはずなのに、お前のこと傷付けて、ひどいこと言って……って、なんで……?」


 前を見れば、スグリも同じように両目から涙が溢れている。彼の涙につられて、自らの涙も止めどなく溢れてくる。やがて両者の"ごめんなさい"という言葉をきっかけとして、二人は大声で泣き始めた。


「あらら、大丈夫だよ二人とも。お互い、安心したんだよね?」


 二人の様子にルーヴァが苦笑して、彼らを慰める。ヤクもスグリもその言葉に同意するかのように彼に縋り、わんわんと泣き始めた。よしよしと背中をさすられる手が優しく、それがさらに二人の涙を誘発してしまったということは、言うまでもない。

 やがて泣き疲れた二人は、こくりこくりと頭を揺らす。安心したことで、眠気が一気に呼び起こされてしまったのだ。


「仲直りもできたし、今日はもう寝た方がいいよ」

「うん……だけど……」

「……ルーヴァさんも、一緒がいい……」


 二人が、離したくないといわんばかりにルーヴァの服の裾を掴む。その様子を見た彼は小さく苦笑しながら、仕方がないねと一緒のベッドに入った。ルーヴァを左右から挟む形で川の字に寝転んだ三人。優しく頭を撫でられながら、おやすみという彼の言葉を聞いて、ヤクもスグリも眠りに落ちるのであった。

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