第十九節 旅立ち
ヤクの手を握りながら走り続け、スグリは村の近くにある森の茂みまで来た。屋敷からは、いったいどれくらいの距離を走ってきたのだろう。ちらりと後ろを目視する。どうやら、誰も追いかけてきてないと確認が取れた彼は、足をゆっくりと止める。その場にへたり込み、ぜいぜいと肩で息をする。ヤクも同じように、むしろ自分よりも苦しそうに呼吸を繰り返していた。
あの時。ヤクが連れ去られそうになっている場面を目撃して、冷静ではいられなくなっていた。もう二度と、彼を泣かせたくないと心から感じた。気が付けば体の方が勝手に動いていたのだ。そう考え、スグリは一つの答えを導き出す。
呼吸を整え、ヤクもだいぶ落ち着いてきたであろうことを見計らい、スグリは問いかけるように言葉を紡ぐ。
「ヤク……。もうこのまま、二人でどこかに逃げよう」
「え……?」
スグリの言葉に、ヤクは意味が分からないといった様子。それもそうだろう。自分でも、なんてことを口走っているのだろうと考える。しかしこの考えは間違っていないと、スグリは確信を持っていた。
「あの村にいたままじゃ、お前は幸せになれない。いつまたあの叔父上がお前を施設に連れて行こうとするか、わからない。だったらいっそ、村から……ううん。この大陸から二人で逃げよう。俺たちのことを誰も知らない場所に行って、幸せになるんだ」
「で、も……そんなこと、したら……。それに、あの村のこと……」
「ああそうさ。俺はずっと父上から次期領主として、あの村で生活してきた。けど今は、そんなのを投げ捨ててでも、俺はお前のことを守りたいって思うんだ」
「……僕に、そんな価値なんてない……。僕は、あの人のことを殺して──」
「殺してねぇ!!」
俯くヤクの肩を優しく掴み、スグリは彼の顔を見据える。恐る恐る上を見上げたヤクの瞳は、後悔と絶望に揺らいでいる。そんな目を、もうさせたくない。言い聞かせるようにスグリは言葉を、丁寧に連ねた。
「お前は、俺の父上を殺してなんかいない。だから俺は、お前のことを恨んでなんかいない。言っただろ、お前のことを守りたいって。お前が泣かなくていいように守っていくって」
「っ……」
「そのためにも、村を出た方がいいんだ。そうすれば、叔父上はお前を探すことなんてできなくなる。誰もお前を傷付けない場所に、二人で一緒に逃げよう。今まで沢山、いっぱい傷付いてきたんだ。お前は幸せにならなきゃ、ダメなんだよ」
だからヤクを村から連れ出す。これがスグリが導き出した答えだった。
村にいたままでは、いつまたコウガネがヤクを施設に連れ去ろうと襲来してくるかわからない。今は助けることができたが、次にまた絶対に助けることができるかと尋ねられたら、正直わからないという現状だ。自分はアマツから、ヤクを託された。それ以前に、彼を何からも守りたいと強く感じたことは、スグリのむき出しの本心でもある。
二度と泣かせたくない、怖い思いをさせたくない。あの村にいたままでは無理ならば、いっそのこと逃げ出してしまえばいい。そのために全てを投げ捨てても、構わない。次期領主だろうと、知ったことではないと。
「お前はどうなんだ。幸せになりたくないのか?」
ヤクに問いかける。その問いに対し、ヤクは苦痛に表情を歪めた。掴んでいる肩が震えている。やがて、小さく首を横に振る。哀願が含まれた言葉が、彼の口から零れ落ちる。
「……みんなを守れなかった僕が、幸せになるなんて……ダメだよ……」
「ヤク……」
そのまま小さく震えていたかと思うと、やがて啖呵を切ったようにヤクは声を荒げ反論する。その姿は、まるで駄々をこねる子供のよう。どこに感情をぶつけていいかわからない、そんな様子が見て取れた。
「たとえあの人を殺してなくたって、僕は沢山殺しちゃったんだ!みんなを、メルツを、僕は守れなかった!助けられなかった!そんな僕が、生きてていいはずなんてないんだっ!」
ついに彼の双眸から後悔がぽろぽろと零れ落ちる。生きてていいはずがない、その言葉に対しスグリに去来したものはなにか。小さく唇を噛んでから、彼はヤクの言葉に真っ向から反対した。
「生きてていいはずがないなんて、そんな命を無駄にするようなこと言うな!!」
「っ……!」
声を荒げたことに対する恐怖か、それとも驚愕に体が硬直したのか。ヤクが小さく息をのんでから、スグリを見上げたことを確認する。スグリはヤクの瞳をじっと捉える。
「父上はどうしてお前を助けたと思う?お前に生きてほしいからだよ!生きて、楽しいことをたくさん感じて、笑って、幸せに生きてほしいから!!自分の命を投げ捨ててまでも、父上はお前を生かした!お前は命を託されたんだよ!!」
「命を、託された……?」
「ああ、そうだよ。捨てられるだけだったお前の命を、父上は救った。そして自分の命をお前に託したんだ。これからのお前が笑って過ごせるようにって、願いも込めて!」
「あの人が、そんな……」
「だから!そんな父上の願いを、勝手に捨てるなよ!!生きることを諦めようとするんじゃねぇ!何のために父上がお前を俺に託してくれたのか、それくらいは考えてくれよ!それに俺だって、まだお前と友達になれてないのに!」
そこまで言うと、スグリは一度大きく息を吐く。少しばかり冷静さを取り戻し、突然叫んだことを詫びる。
「ごめん……急に、怒鳴るようなことして」
「……だい、じょうぶ……」
「でも、今言ったことは俺の本当の考えだ。お前は命を拾われた。もう、お前一人だけの命じゃないってことは……わかってほしい……」
「一人だけの命じゃ、ない……」
「そうだよ。……今すぐにわからなくても、それだけは覚えていてほしいんだ。そうじゃなきゃ……誰も、救われない」
呟くように話してから、沈黙が二人を包む。少し経ってから、ヤクからゆっくりと言葉が漏れ出す。
「……言ってること、よく……わからない……。でも……わかるように、僕も考えたい……」
「……そっか。……ならなおさら、一緒に逃げよう」
「うん……」
ヤクの手を取り立ち上がらせ、ふと彼の足元を見る。何の準備もなく出てきたこともあり、素足のままでここまで走らせてしまっていた。幸いにもまだ怪我はしていないようだ。スグリは服の裾をびりびりと破き、布の状態にする。そしてそれをヤクの足を包むように巻き付けた。即席の足袋だが、何もないよりはマシだ。
「怪我すると悪いからな」
「でも……」
ヤクが不安そうにスグリの足元を見る。脱走のための準備がないことは、己も同じだと言いたいのだろう。スグリもヤクと同じく素足のままだ。しかしスグリは彼を安心させるように笑顔を見せてから、からりと答える。
「俺は慣れてるから大丈夫だ。心配すんなって」
「ほん、とう……?」
「お前に嘘は吐かないよ」
「……あり、がとう……」
「どういたしまして」
ひとまずの準備を終えて茂みから出ていこうとした瞬間、遠くから聞きなれた声が聞こえる。この声は、ヤナギとナカマドの声だ。こんなところで見つかるわけにはいかない。
スグリは今一度茂みに隠れるように身を屈めた。ヤクにも指示して、自分と同じように隠れてもらう。そのまま息を殺して様子を窺う。幸いにもヤナギはまだスグリたちに気付いていない様子だった。
「若様ー!ヤクー!いたら返事をなされよ!」
「……ヤナギ様、駄目です。どこにもお二人はおられません」
「……よもや、若様までもがいなくなられてしまうとは……」
「若様は、ガッセ村領主の唯一の跡取りにございました。その方がいなくなられるということは……」
「うむ……村の存続にも関わりかねない事態となろう」
二人の会話が聞こえる。村を放ってしまったことに、罪悪感がないというわけではない。しかしそれ以上に、ヤクを救いたいという願いの方が強いのだ。
「もし、このまま二人が見つからなかったら……」
「滅多なことを言うでない、ナカマド。……しかし、もしもの場合は。某が代理として、村を守ろうぞ」
「ヤナギ様……」
「ご当主様の喪失に加え、若様の失踪……村がこれから辛い事態に直面することは必須。じゃが、いつか若様がお戻りになることを信じ、村を守りお待ちする。もしかすると我らにできることは、それくらいのことしかないかもしれんの」
「……微力ながら、我らも尽力いたします」
「感謝するぞナカマド。しかしまずは、今一度この辺り一帯を捜索するのが先よ」
「はっ」
その短い会話を後に、二人はまたスグリとヤクを探しに森の奥へと駆けていくのであった。二人の気配が消えたことを確認したスグリはゆっくりと立ち上がり、ヤナギとナカマドが走り去った方角を遠い目で見つめる。
ありがとうと、ごめんを呟きながら。
きっと、二度と村に戻ることはない。
村のことを捨てても、ヤクを選んだのだから。
「えっと……」
「もう二人はいなくなったよ。さっさとこの森を出ないと、見つかっちまう」
「うん……」
「行こう。俺がついてるから、お前は一人じゃないぞ」
「……ありがとう、す……すぐ、り……」
俯きながらもヤクが己の名前を呼んでくれた。そのことが、純粋に嬉しい。彼の手を優しく握ると、どういたしましてと返事を返す。次にスグリは心の中で言葉を思い浮かべる。
「(……ヴェル)」
『聞こえているよ』
「(ここって、どの辺りなんだ?どこに行けば、この大陸を出られる?)」
『そうだね……そこから一番近いのは、海の街ビネンメーア。そこの港からは、大陸間を移動する船が出ているよ』
「(わかった。そこまでの道案内……お願いしたいんだけど)」
『任せたまえ。風を送って教えるよ』
それだけ言うと、直後に優しい風がスグリたちの頬を掠めた。それが道案内のための風だと理解した彼は、ヤクに振り向き声をかけた。
「じゃあ、行こう」
「どこ、に……?」
「ガッセ村から離れた街に、だよ。そこで船に乗って、ここを出よう」
「でも……ここ、どこかわからないのに……」
「大丈夫、風が教えてくれてる。俺を、信じてほしい」
しっかりとヤクの目を捉えて告げれば、ややあってから彼が一つ頷く。
それを確認したスグリはヤクと共に、この土地を離れるための一歩を踏み出したのであった。
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