第九節 幸せは必ず来る
降りしきる大雨の中、ヤクは懸命に走っていた。どこか、誰か、助けを呼べる人はいないかと。研究施設があった村の村人たちは駄目だ。あの人たちは、きっと自分たちを助けてなんかくれない。何年間も、助けなんて来なかったのだから。
だから、どこか遠い場所にいる誰かに。
「ハァ……ハッ……」
しかし、この大雨は容赦なくヤクの体から体力を奪っていく。靴も履いていない裸足の状態で土の道を走っていては、当然ぬかるんだ地面に足を取られる。そのたびに何度も転んでは、しかしここで止まるわけにはいかないと立ち上がり懸命に走り始める。石で切った足の裏は血塗れで、走るたびにジクジクとした痛みがヤクを襲う。それでも、今までの実験で受けた痛みに比べたらこんなもの、痛いうちに入らない。
それでも、限界というものはあっけなく襲ってくるものである。実験のダメージも凌辱されたダメージも抜けきっていないヤクの体は、あちらこちらから悲鳴を上げる。視界もぼやけ、足がもつれ、体は何度目かの転倒を誘発され地面に。喉がひりつき、肺と心臓がズキズキと痛む。
「……だ、め……みんなが、待って……」
起き上がろうとしても、もう体のどこにも力が入らなかった。ぼやける視界は雨で濡れているのか、涙で濡れているのか、もう理解できる頭もない。体にのしかかってくる疲労とダメージという名の重みに、自然と口から謝罪の言葉が漏れる。
ごめんなさい、みんな。約束、守ることができそうにないです。
もう一回も立ち上がれない。もう一歩も動けない。力が入らない、体中が痛い。
助けてもらえる人を、見つけられなかった。せっかく、信じてくれたのに。
ごめんなさい、ごめんなさい。
「ごめ、んね……め、る……つ……」
瞼の裏に、自分を送り出してくれた彼を思い出しながら。
ヤクは意識を、手放しそうになっていた。
******
その日、スグリは朝から何か落ち着きがない様子だった。具体的に言葉にはできないが、何かがある。そう感じずにはいられないのだ。正体がわからずモヤモヤと考えては、答えの出ないそれにため息をつくばかり。
駄目だ、じっとしていても答えなんて見つかるわけがない。
そう考えたスグリは、木刀を持ち玄関へと向かう。外に出ようとしたスグリをヤナギが見つけ、引き留めようとする。
「若様!?こんな大荒れの天気にどこへ行こうと仰るのです!?」
「ごめん爺!でもすぐに帰ってくるから!」
「いけませんぞ!そも、傘すら持っていないではありませんか!」
「ただ剣の修行してくるだけだから!じゃあ行ってきます!」
「若様!!」
ヤナギの制止を聞かず、スグリは木刀一振りだけ手に持つと大雨の中屋敷から飛び出す。濡れ鼠になることも構わず、スグリは時折剣の修行として訪れる竹藪の方へ走っていく。剣を振るえば、この心の中の違和感も消えるだろうと信じて。
ガッセ村から竹藪までは、そう離れているわけではない。遠くに目的地が見えてきたというところで、不意にヴェルザンディが彼に制止をかけた。突然話しかけられたスグリは、思わず足を止めて彼女にどうかしたのかと尋ねる。
『……スグリ。ここが、キミの運命の分岐点の一つになる。この先の竹藪に進めばキミは、二度と戦いの運命からは抜け出せない』
「運命……?もしかして、このモヤモヤのこと知ってるのか?」
『知っているとも。けれど私はそれを教えることも、選択を強制することもしてはいけないのさ。これは、キミが選ばなければならない。今ならまだ、ほかの分岐点を選ぶこともできる』
それでも、この先に進むのかと。
まるで究極の選択を迫られているようだ。戦いか平穏か。悲観するほどの選択肢だろう。しかしヴェルザンディの予想の斜め上の答えを、スグリは出す。
彼女に振り向いたスグリの表情は、大雨の中でも晴れ晴れとしていた。
「言ったろ、ヴェル。俺は、大事な人たちを守れるような俺になりたいんだって。たとえ戦いの運命から逃げられなくても、俺がしたいことは変わらない。どんな選択も俺が納得して選ぶんだ、後悔なんてするもんか!」
だからこの先へ進む、と。
スグリの言葉にヴェルザンディは一瞬呆気にとられたようだが、ふっと硬くしていた表情を綻ばせる。
『そうだね、それがキミだったね』
「そういうこと。もう行ってもいいか?」
『ああ、もちろんだとも。行きたまえ』
「ああ!」
ヴェルザンディの言葉を聞き、スグリは再び竹藪の中へ向かって走り出した。しばらくそのまま走っていると、彼の目に何かが映り込んできた。
何かが、竹藪の中に落ちている。いや、よく見たらあれは──。
「人!?」
そう、人。しかもよく見たらそれは子供のようだと。スグリは慌てて、倒れていた子供のそばへと近付く。その体を見て、思わず声が出た。
体中が傷だらけだ。特に足首のあたりは切ったのだろうか、血で真っ赤に染まっている。袖から見える腕も傷、傷、傷ばかり。あまりにもひどい状態に、死んでしまっているのではと考えてしまった。木刀を置いて、子供の体を揺する。
「おい、大丈夫か!?返事しろよ、おい!」
「……ぅ……」
呻き声が聞こえた。とりあえずは生きているようだ。触れて分かったが、異様に体が熱い。足の怪我で発熱を引き起こしてしまったのだろうか。
「おいってば!聞こえるか、なぁ!?」
何度か揺すると、子供の目がゆっくりと開かれる。顔だけをどうにか持ち上げ、こちらを見る。今にも消えそうな、蒼い瞳の光。顔色は、予想通り悪い。色白を通り越して、もはや蒼白だ。
「大丈夫か?どうしたんだよ!?」
「……け、て……」
目の前の子供は、最後の力といわんばかりにゆっくりと腕を上げ、スグリに縋ろうとする。その手をスグリは握り、もう一度声をかける。
「おいっ!」
「……た、けて……た……す、けて……」
「助けてほしいんだな!?わかった、待ってろ!」
スグリは子供の言葉を聞くと、その子供を持ち上げ背負った。その子供があまりにも軽すぎて、面を食らってしまう。こんなに軽いなんて、生きているのすら奇跡みたいじゃないかと。
しかしそんなことよりは一刻も早く、この子供の傷を手当てしなければと。スグリは子供を背負ったまま、ガッセ村へと急ぐのであった。
なるべく急いで屋敷に戻ったスグリは、玄関を開けるなり大声でヤナギを呼ぶ。
「爺!来てくれ、早くっ!!」
スグリの帰宅に気付いたヤナギが、血相を変えて玄関まで迎えに来る。説教の一つでも言いたそうな表情だったが、彼が背負っているものを見て目の色を変える。
「若様、それは……!?」
「説明はあと!こいつ、怪我してて熱もあるみたいなんだ!助けてやって!」
「承りました、某が預かりましょう。ナカマド!」
「御意に!若様も、まずはお召し物を」
「わかった!」
スグリはまず背負っていた子供をヤナギに預け、ナカマドが用意してくれた服に着替えた。髪を乾かすのはあとだとタオルだけを借り、子供のもとへ向かう。屋敷が慌ただしくなったことにアマツも気付き、ヤナギとともに衰弱しきっていた子供へ手当てを施す。しかしそこで一つ、問題が起きてしまった。
体の傷は、幸いにもヤナギやアマツでも処理することはできた。しかし衰弱が激しく、このまま体力が戻らなければ命を落としてしまうかもしれない、と。ここのガッセ村には、医者がいない。ここから一番近い医者の元へも、最低で2日はかかってしまう。医者が来るまで、この子供の体力ではもたない。
「そんな……!!」
刻一刻と弱り果てていく子供を前に、スグリは悔しさに拳を握る。そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、様子を窺っていたヴェルザンディだった。
『スグリ、まだ方法はあるよ』
「えっ……?」
『キミが、マナを使ってこの子を癒すのさ。つまりは医療魔術を施すんだ』
医療魔術など。そんな単語は初めて聞く上に、自分はマナの扱い方については修行していない。できるわけがない、と心の中で彼女に弱音を吐く。それでもヴェルザンディは大丈夫だと、彼の背中を支える。
『私が教えてあげよう。その子の体に、手を翳してごらん』
言われるがままに、子供の体の上に両手を翳すスグリ。突然の行動に、アマツもヤナギも怪訝そうにスグリを見守る。
まずヴェルザンディは、手のひらにマナを集めるイメージを思い浮かべるように指示する。力を抜いて、リラックスしながらと。指示通りにイメージを思い浮かべていると、手のひらが温かくなる感覚を覚える。
『そう、上手だ。それを次は、その子供に与えるようなイメージをしてごらん』
「……わかった」
イメージは、桜の花びら。舞い散った花弁が子供に降り注ぐようなイメージを思い浮かべると、手のひらのマナがはらはらと零れていくような感覚に変化する。思わず力みそうになるが、そのままで大丈夫だとヴェルザンディに告げられる。
『最後に。マナよ、傷を癒せと念じて』
──マナよ……傷を癒せ。
『
脳裏でヴェルザンディがそう唱えると、スグリの手のひらに集まっていたマナが子供の体へと降り注ぎ、淡い光で包む。その光景に、スグリはもちろんアマツもヤナギも驚愕し、目を見開く。
光が収まって少しすると、子供の瞼がふるりと震えるのであった。
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