第八節 幸運を祈る
実験と凌辱の日々が続いた、ある日。自由時間でのことだった。ヤクはメルツやほかの子供たちから、話があると伝えられる。研究員たちに聞こえないようにと円を囲み、小さな声でまずメルツが話し始めた。
「ヤク、聞いて。ここから出られるかもしれない」
彼の言葉に、思わずヤクは大声を上げそうになる。手で口を押えてからゆっくりと呼吸を繰り返し、落ち着いたところでふう、と息を吐く。
この研究所は研究員たちの箱庭であり、子供たちにとっては監獄だ。どこにも逃げられる場所なんて、ないはずなのに。本当のことかと尋ねれば、メルツは一つしっかりと頷く。そしてとある子供に視線を移す。どうやらその子供が、抜け道を見つけたらしいと。そのことをまず、メルツに話していたのだ。
メルツに説明を求められた子供が、小さな声で話す。
「あのね、ぼくおトイレに行ったときにね、男の人が壁を壊した音を聞いたの。とってもイライラしていたのかな、大きな音がしちゃって。それでね、ぼく、怖くて。でもそしたら別におっきい音がしてね、言ってたの」
「なんて、言ったの……?」
「ロッカーで壁の穴をふさげば、子供たちには絶対にバレないって」
「……!じゃあ、つまり……」
ヤクの呟きに、メルツが言葉を続ける。今の言葉が本当なら、ロッカーの奥には研究所の外に通じる抜け穴がある。脱出できれば、誰かに助けを求めることができるとのことだ。
それは実験の中で失っていた子供たちの、唯一の希望の光に見えた。
「助けを呼んで、みんなでここから出るんだ……!」
メルツの言葉に頷くほかの子供たち。そして彼は助けを呼ぶ係を、ヤクに任せたいと頼んできた。突然の言葉に、ヤクは驚愕して問い詰める。
「僕が……!?どうして……!?」
「ヤク。実はこれはぼくだけじゃなくて、みんなの意見だよ」
「えっ……」
「この中で一番実験を受けているのは、ヤクだよね。つまり、僕たちの中で一番力があるのはヤクなんだよ。ヤクの力なら、誰が追いかけてきても追い返せるはず。だから、ヤクに任せたいんだ。ぼくたちじゃ、できないから」
メルツの言葉に賛同するように、ほかの子供たちも笑顔でヤクを見つめる。しかし一方のヤクには不安要素があった。もし脱走がバレてしまったら、と。研究員たちは悪魔だ。自分の代わりに、誰かをいたぶるのではないか。そう考えたら、簡単にわかったと頷くことはできなかった。
「でも、それじゃあみんなが危険な目に……!」
「大丈夫、きっと大丈夫だよ。だって、ぼくはヤクを信じてるもん」
「メルツ……でも……!」
それでも渋るヤク。するとふと、ヤクの腕にぴとりとほかの子供がくっつく。その子に視線を落とせば、子供はにぱっと笑う。
「ぼくもヤクにーにのこと、しんじてる~」
「えっ……?」
「ヤクにーに、あたしたちのこと守ってるもん。だから次は、あたしたちがヤクにーにを守るんだ~」
ほかの子供たちが、連鎖するようにヤクに対し声をかける。ヤクが縋るようにメルツを見れば、彼も子供たちと同じように笑っていた。大丈夫だ、と。
「ここから出て、これからずっと一緒になるためだもん。ぼくたちみんなが、一緒に笑える世界に行くためだよ。だからヤク、お願い」
彼らの言葉から、子供たち全員の意志の強さを感じたヤク。それ以上反論することはできなかった。これ以上の反論はむしろ、彼らの意思を無駄にする行為だと。自分自身を納得させ、彼は一つ頷いた。
それから作戦会議が始まった。
脱出口のあるトイレに行くのはヤクともう一人、重力操作の実験をさせられていた男の子だ。トイレに入った後にロッカーに潜入し、ロッカーの壁を破壊することはできない。トイレに行くためでさえ、子供たちには研究員の監視が付く。その監視の研究員に、破壊の音で気付かれてしまうからだ。熱で溶かすにも、臭いで気付かれる可能性もある。そこで、なるべく音が出ない操作でロッカーを動かせないかと考え付いたのが、重力操作だった。重力ならば動かす際の音も出ないし、臭いも発生しない。
そして決行の時間は、メルツが実験を受けている時が好都合だと彼から伝えられる。実験中ならば研究者たちの目の届かない場所も出るだろうから、と。
「メルツ、でも……」
「大丈夫だよ、ヤク。ぼく、ヤクのこと心の中で応援してるから」
「……」
「心配しないで。ちょっとの間離れ離れだけど、また一緒になれるもん」
「……うん……」
にこり、と笑うメルツ。不安でいっぱいだったヤクの額に、己の額をこつんと当てて呪文のように何度も、大丈夫だよと繰り返す。メルツの立てた作戦に、ほかの子供たちも賛同したことで、作戦が決まった。
その夜、ヤクはメルツの隣で横になる。メルツもまだ起きていたのか、ヤクが隣に来ると体の向きを変え、彼に向き直る。
「メルツ……本当に、大丈夫……?」
「うん、大丈夫だよ。怖くない、なんて言えないけど……でも、ヤクがきっと助けを呼んで、戻ってきてくれる。ぼくはそう、信じてる」
「……僕がもし、失敗したらなんて……考えないの……?」
「そんなこと思ってないよ」
「なんで……?」
きゅ、とメルツの服を握るヤクに、彼は答える。
「だって、好きなんだもん。ヤクだけじゃないよ、みんな大好き。大好きだから、信じることができる。ヤクは一番強いんだよ、ぼくたちみんなの力を合わせれば、できないことなんてないもん」
「メルツ……」
「だから、ヤクのこと信じてるぼくを、ヤクも信じて?」
にこ、とやはり笑顔で自分を抱きしめるメルツに安心感を覚える。同じようにメルツを抱きしめたヤクは、小さくわかったと答えるのであった。
******
それから数日後。いよいよその時がやってくる。
休憩場所で休んでいたがメルツが実験に呼ばれ、立ち上がる。メルツは最後に、ヤクの手を握ってから笑う。
「またね、ヤク……待ってる」
「うん……また、ね……」
握っていた手が離れる。メルツとは、ここでいったんお別れだ。ヤクは、メルツのためにも必ずここを出て助けを呼ぶと心に誓う。メルツが出ていき、しん、と静まり返る休憩場所。ヤクは作戦に同行する子供を連れて、休憩場所の出入り口にあるモニターへと向かう。
外からは自由に開閉できる休憩場所の扉は、子供たちの脱走防止のために内側からは開けられない仕組みとなっている。それでもトイレなどに行く場合は、そのモニターから研究員たちに伝えなければならないのだ。実験以外で休憩場所の外に出る場合は、研究員の監視が付く。監視付きでようやく、休憩場所から出ることができるのだ。
ヤクはモニターに向かって、こう伝えた。トイレに行きたいと。
『チッ……監視が行くまで我慢しろ』
「わかりました……」
いよいよだ。いよいよここから脱出するための作戦が始まる。数秒後、一人の若い研究員が監視として扉を開けた。顔色の悪い、薄い藍色の髪。初めて見る研究員の男だった。
男は不機嫌な表情を隠しもせず、早く来いとヤクと男の子を連れだす。トイレへ向かう途中男はぶつぶつと何かを唱えていたが、呪文の類ではなかった。
「くそっ……なんでこの天才であるキゴニス・マキナに、ガキのションベンの監視をさせるんだ……。これだから凡人どもは……!!」
などといった、恨み言しか男は吐いていなかった。
やがてトイレの前に到着し、男はヤクから一人ずつ入れと命じてきた。しかしそこで男の子が股間を押えて駄々をこねる。
「やだやだ、出ちゃう!!」
「我慢しろガキ!!」
「やだー!!もれちゃうよ~!!」
いやいや、と地団駄すら踏み始めた男の子に、男はイラつきを覚えたのだろう。投げやり気味にわかったと言葉を吐き捨て、二人で入れと命令を変えた。言われるがままに、ヤクと男の子は一緒にトイレへ入る。ここまでは順調だ。ここからが作戦の要になってくる。
先ほどの男の子の行動は、彼の精一杯の演技だ。トイレに入った瞬間にヤクの手を引き、こっちだと案内する。トイレの最奥。不自然に置かれたロッカーの前に到着した男の子が、手をかざす。ややあってから、ロッカーが浮遊し始めた。
ロッカーの奥から現れた穴の大きさは、幸いにもヤクが屈んで通るには十分な余裕があった。なるべく男の子に負担をかけないようにと、ヤクは己が通れるギリギリまでロッカーが上がると、動き始める。体を屈めたとき、ふと男の子から言葉をかけられる。
「ヤクにーに、まってるね……!」
「……!うん、必ず戻ってくるよ……!」
そう告げて、穴を通り過ぎたとき。背後から男の声が聞こえた。
「テメェら何してる!!」
男の声に驚いた男の子がマナの放出をやめてしまい、重力を取り戻したロッカーは床に落下。大きな音がトイレに響き渡る。男の声に気付いたヤクが振り返った時にはすでに、穴は再びロッカーで塞がれていた。壁の奥側から、男に殴られてロッカーに激突したのだろう、鈍い音が耳に届く。今すぐにでも男の子を助けに行きたいが、それでは作戦が水の泡になってしまう。それに、この騒ぎを知った研究員に追いかけられてしまうかもしれない。ヤクに残されていた選択肢は、ひとつしかなかった。ぎゅっと拳を握る。
「ごめんっ……ごめんね……!」
絶対、すぐに助けを呼んでここに戻ってくるからと。
ヤクは実験施設から踵を返し、精一杯に走り出すのであった。
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