第17話

 しばらく行ったところで、妙に地形がでこぼこした海域に出た。船で通るのが難しそうなそこは、お兄ちゃんいわく、昔は島国だったんだけど地球温暖化による海面上昇でなくなってしまった国の跡であるらしい。そういえば先生の本棚でそんな小説を見たような気がする。ずっと、千五百年以上前に掛かれた物語で、日本沈没、とか言ったかな。

「じゃあここは日本だったの? どこからどこまで?」

 結構なデコボコが目立つ海域だったからお兄ちゃんに聞いてみると、あっちの水平線からこっちの水平線に至るまで、ずっとだったらしい。島国にしては大きい、と言うか、水平線までの距離って何キロだっけ。四キロぐらいって聞いた気がするから、あっちからこっちまでで八キロかと思うとそうでもない気分になる。でもデコボコはなくならない。いくら行ってもなくならない。

「おにーちゃん、ほんとに水平線まで?」

「そんなわけあるか。そのずっと向こうまでだよ」

 船長さんが龍を欲しがった訳がちょっと分かった気がする。こんな海域を月一で横断してたら神経も磨り減るだろう。龍に船をぶら下げるつもりだったのかな。どっちにしてもこの海域、軽く地獄だ。たまに良い道があったとしても溶岩で塞がってるし。小型の商船じゃあの広い海は渡れないだろうし、嵐なんかに遭ったら覿面だ。絶妙な設計、絶妙な航海士。二つ揃ってやっと運が良ければ渡れるって所か。砂漠も厳しいけれど海も厳しいんだなあ。思いながらお兄ちゃんの背中に引っ付くと、暑苦しい、と言われる。暑苦しい? 海の上で、雲の上で?

「お兄ちゃんちょっと、お熱を拝見」

 ぺたっとおでこに触れると、若干熱かった。熱さましの薬も薬研で擦ってたから、老龍にちょっと止まって貰って、お兄ちゃんに差し出す。

「いらねーよ、ちょっと日が眩しいだけだ」

「私が肌寒いぐらいなのに暑苦しいとか言うからだよ。良いから飲んで。予防も大切だよ」

「いらねーっつってんだろ」

「病は気からだよ。はいあーん」

「あー……」

 仕方なさそうに口を開けたお兄ちゃんは、龍の水でそれを飲み込む。まじぃ、と言っていたけどそれはあれだ、良薬口に苦しってやつだ。私の薬が良薬かは分からないけれど、解熱効果だけは確かなはず。なんてったっておばーちゃんの巫術書にあったんだから。あと水はもっと飲んで。

 老龍は昔島国だった頃の海域を眺めて、懐かしそうにしていた。ちょこんと頭を出している岩場を見ては、あの山も昔は四千メートル近くあったんだとか、それを囲む湖があって富士五湖と呼ばれてたとか。へー、と頷いてみる。岩場は時々火山性ガスを噴いていたから、まだ活火山なんだろう。その内噴き出してまた新しい大陸を作るかもしれないけど、それはそれで船乗りさん達が可哀想でもあった。デコボコ海域にさらに大陸。

『昔は島国を迂回して行ったりしたもんじゃが、今ではどこまでがその国だったか分からなくなっているからなあ。見て行くしかないと言うのは面倒なものよ。その辺りは少し船乗りに同情するが、我は手伝ってやれることもないからなあ』

「老龍に船を吊るすとか」

「無茶言うなお前。揺れて嵐の方がましだってぐらいになるぞ。船乗りは船乗り、砂船乗りは砂船乗り、龍使いは龍乗りだ。下手なことをするとただ損するだけになる。お前のよーなうつけには分からんようなことが起こるかもしれない。大体吊るしてる紐が切れたらどうする。そんな丈夫な紐はそうそうないぞ」

「ぐぬぬ。何も言えない」

「あー涼しくなってきた……お、大陸が見えて来たな」

「ほんとだ! そんでもってやっぱりにーちゃん熱出してた」

「あまり漁村の近くに降りると船乗りたちの家族に触れることになるもしれないからな。もう少し行った砂漠で、今日は龍のパオだ。久し振りに」

「わー砂漠かあ。戻って来たんだなあ」

「村まではまだ少しあるがな。げほっ」

「お兄ちゃん?」

「何でもない」

 何でもないと言いながらお兄ちゃんの咳は続いた。目的地の砂漠地方に着くころには咳が止まらないほどに。

 龍のパオを作って貰って、お兄ちゃんの背中をもたれさせると、ヒューヒュー息が言ってるのが分かった。背中を撫でるとゴロゴロ音がする。海とか湿地とか荒れ地とか慣れない場所を行ったせいだろう、砂風邪の発作を起こしている。私はランプの明かりを頼りにお兄ちゃんに毛布を掛けて、龍王寺の毛布も使ってあげた。すると水分で少し良くなったのか、咳が収まる。私は巫術書の砂風邪の項にあった薬草を薬研で擦る。ごろごろごりごり、粉状になったものを紙に乗せて、お兄ちゃんの口に流し込む。それからすぐに龍の水を。ひゅ、と何とか喉が戻ったらしいお兄ちゃんは眼を薄く開けて、私を見る。

「存外向いてるかもしれないな。シャーマン」

「だからこれは毛先生にあげるの。その為にはラブレターいっぱい書かなきゃなんだから、こんなところで立ち止まっていられないよ、お兄ちゃん」

「なっ何でそんなこと知って」

「妹は何でも知っているのです。最後にお兄ちゃんがおねしょした歳まで」

「嫌な奴だ」

 チッと舌を鳴らされる。嫌な妹ですよ。だから早く殴れるぐらい元気になってよね。でなきゃ出発も出来ないんだから。兄ちゃん泳げないし時間が狂っちゃうから龍の水袋に入れられないし。雑貨袋は何かと狭いし。龍の餌とか入れてた袋はまだましなのかな。それでびゅーんっと村まで行っちゃう? ナンセンスだ。旅のラストスパートがそんなんじゃ、お兄ちゃんが何のために私と一緒に来てくれたのか分からない。お兄ちゃんだって最後の最後で足手まといになるなんて御免だろう。兄妹だから考えてることは大体分かる。らしくない褒め言葉だってそうだ。私を持ち上げるなんてお兄ちゃんらしくない。間抜けうつけ愚か者と言われてる方が、よっぽどお兄ちゃんらしい。そして私は間抜けでうつけで愚か者だから、いざとなったら老龍のうろこを剥ぐ気でさえいる。

 そう言えばあの村の男の子は大丈夫だろうか。私のいい加減な薬より強力な毛先生の薬と龍のうろこを置いて来たんだから、大丈夫だとは思いたいんだけれど。これで最悪の結果だったりしたら、また龍の敵が出来ることになるから嫌だな。おかしいな、良いことしてるつもりなのになんだって結果はいつも伴わないんだろう。船長さん、あの海域抜けられるかな。応龍のお肉、せめて美味しく食べてもらえればいいけれど。毛先生は無防備な砂浴び止めててくれるかな。星流さんの手配書、無くなってると良いな。西の街では無謀な龍取り合戦止めてくれてると良いな。色んな思い出がこみ上げて来る。そのどこにもお兄ちゃんがいる。老龍と二人で旅してたら、こんなにたくさんの思い出はなかっただろう。そもそも砂漠の途中で行き倒れてたかもしれない。半分も行かないままに、リタイアすることになってたかも。だからお兄ちゃんは必要なんだ。大事なんだと言っても良い。こんな所で発作起こしてる場合じゃないよ。額にぺとっと手を付ける。熱は下がったみたいだから、残りは咳だ。それが一番長引くのだけど、明日からは毛先生特製の龍のうろこ入りの薬包を使おう。とりあえずは水。龍の一族は水さえ清浄なら生きていける。龍と同じように。

 普通の毛布を一枚拝借して、私も眠ることにする。食欲もないのは、別にお兄ちゃんが心配だからって訳じゃない。ダイエットしたいお年頃なだけだ。うん、それだけだ。お兄ちゃん。

 夜中は何度も咳の発作があって、眠っていられなかった。


「起きろうつけ」

 げしっとお尻を蹴られて、ふぇっ? となりながら身体を起こす。見上げれば朝焼けにお兄ちゃんが立っていて、その顔色は随分良くなったようだった。私の薬でお兄ちゃんが治った? あれ、すごい事した気がするのに何で蹴られるんだろ。ニヤリと笑ったお兄ちゃんは、私にデッキブラシを渡す。まさか。

「龍の歯磨きだ。終わったらすぐ発つぞ」

「お、おにーちゃん……」

 自分が良くなったらすぐ龍なの?

 強すぎるよ、おにーちゃん!


 歯磨きに飽き足らず顔掃除までされた老龍は気持ち良さそうに飛んでいく。久し振りに見かけた龍の旗に水を降らせたり、黒雲を食べたり、懐かしいことで大忙しだ。そう言えば生きた龍の胃袋の中で黒雲ってどうなるの、と聞いてみると、多少小さくなるけれど殆どお腹いっぱいに膨らんだままで、雷雲だとぴりぴり胃を刺すこともあるそうだ。それがまた満腹感を与えて良いのだと言う。マゾだ、と言いそうになるのを抑えながら、長年の謎だった成龍の満腹感の覚え方を知れてちょっと嬉しかったりもして。そっかー、雷雲かー。龍王寺で食いはぐれずにいられるだろうか、あの小龍は。かなりの数の龍がいたけれど。龍の一族の村ぐらいには。

 その一族の村はまだ遠い。とはいえ大陸を跨ぐのに比べたら近い方だ。海を二つ跨ぐのに比べたら断然近くまで来ている。お兄ちゃんの背中を机代わりにぐりぐり赤丸を付けるのも、慣れた事だ。向こうの大陸ではあんまりやんなかったけど。すすけたウェスタンはそれでも龍に媚びずやって行こうって言うんだから気概があると言うか物知らずと言うか。あんな乾いた街ではお酒ぐらいしか作れなかっただろう。お酒。良いなーお酒。成人してるけど下戸だからあんまり楽しめないうちにぐるぐるになっちゃうからなー、私。我ながらもっと丈夫な胃と肝臓が欲しかったぜ。その辺お兄ちゃんに負けてるのはやっぱり悔しい。張り合うウザい妹ですもの。ぶー。

 市に降りて水のドロップを買って、久し振りに外套は脱いで路銀にしてしまう。テントもだ。珍しいもの持ってるねえと質屋のおじさんに言われたけれど、まあ世界を一周してるからね、こっちは。ふふんっ。

 砂船は欲しかったけれど、私もお兄ちゃんもノーコンなのは青龍さんに教えてもらった時に思い知っているからお互い無言でやめておいた。良いのだ、私達は龍の民なのだから龍を操れればそれで良い。良いったら良いんだ。負け惜しみに思いながら、市でいろんなものを見る。リンゴだー。向こうの大陸よりお高いー。砂に馴染まない植物なのかな。どんなのかも知らないけれど。弦? 木? 木だったらちょっと難しいだろうな、砂漠のオアシスでも。このリンゴはどこから来たんだろう。あの商船が運んでいたのもこういうものだったとしたら、私達は随分恩知らずなことをしたなあと思う。思うだけで別に行動は起こさない。今までスルーしていた干した薬草も吟味していると、お兄ちゃんに頭を引っ叩かれた。曰く、はぐれるな。そうか兄ちゃんまた私を置いてずんずん行ってたのか、と今更ながらに気付く。くそー、いもーとはおにーちゃんのためにだなー。でも薬草は買ってくれたので良しとしよう。お兄ちゃんの場合自分の命にかかわって来るからね。砂風邪で死んだ人は聞かないけれど。

 そんな中で段々砂漠の冷えが襲ってきて、慌てて老龍に乗り町は見つけられなかったから今日も龍のパオだ。お兄ちゃんに薬を渡してから、干し肉をあぐあぐと食べる。油が溶けるとほどほど美味しいのだ、この保存食は。だからランプで炙って食べる。しかし一酸化炭素中毒にならないのは不思議だな、砂は防ぐけれど案外風は入ってるのかも。否否ビバークもどきしたときにそんな事はなかった。じゃあ、龍の皮膚呼吸?

 お兄ちゃんにも分からないらしく、老龍に呼びかける。頭をにゅっと伸ばして、けらけらと老龍は答えてくれる。

『そうさな、皮膚呼吸と言うのもあるし、うろこの呼吸とも言える』

「うろこ単体で呼吸するの?」

『ああ、まあな。だから剥がれると痛い』

「あう。ごめんなさい」

『まあ済んだことを言っても仕方あるまいて』

「ほじくり返したの老龍じゃんかー……ぶー」

『ぶーぶー言うな、豚になっても知らんぞ』

「老龍までそれ言う!? 年頃のいつ嫁に行ってもおかしくない娘にそれ言う!?」

「お前が嫁に、ねぇ」

「おにーちゃんも笑わない! 毛先生にあることないこと書きつけるよ! じつは誑しであらゆる一族を集めてハーレム作ってるとか!」

「俺の体力でハーレムがもつと思うか?」

「ぐぬぬ」

「先生は俺の体調の事も知ってるのに?」

「ぐぬぬぬぬ」

「良いからそろそろ休むぞ。久々の砂漠ではしゃぎすぎだ、お互い。やっぱりこっちの方が、水に合う」

 ころんっと横になったお兄ちゃんにつられて、私も横になる。一瞬視線がぶつかったけれど負けたのは私で、仕方なく身体を起こしてランプの光を消す。それから目を閉じて、私も眠ることにする。明日はどこまで行けるかなあ。思いながらぎゅっとコンパスを握り締めて、私は眠りについた。

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