第16話
とは言え地図の半分を占める海はさすがに老龍一人きりで渡れるものではないので、私達は商船に乗せて貰うことになった。労働は付くけれど食事も付くので持ちつ持たれつ、嬉しい旅でもある。なんかのムニエルのほかはほとんど干し肉だったからなー。最初はお母さんのおにぎりとかもあったけど、もう遠い昔のようだ。あとは砂漠の食堂のシチューとか。龍王寺のゴマ塩がゆもおいしかったな。毛先生のところのおかゆも。って食事で振り返ってる場合じゃない。食べ歩きだったわけじゃないんだから。売り飛ばされそうになったりお兄ちゃんが死んだり老龍が死に掛かったり、砂風邪の発作を起こしたりで大変だった。うん、大変だったと言うことにしておこう。でも色んな街で雨を降らせて喜んでもらったり、黒雲食べてお礼言われたりしたのは、案外覚えてるな。お兄ちゃんは日記付けてたみたいだけど、私はそんなまめなことしてないからアバウトだ。地図の赤丸に沿って思い出せばいい。
そして商船のお仕事と言うと荷下ろしと荷揚げになるんだけど、それ以外はむしろ暇な方だった。甲板に出てぼーっとしていると、外套が暑い。でもまだ、せめて東の大陸に着くまではこのままでいなきゃならない。暑くないかい、とギルドの人に心配されたけど、赤い顔で大丈夫です、と言うのは無理があった。ので、部屋に引っ込む。お兄ちゃんは寝ころびながら村へのお土産に買った本を先に読んでいて、それお土産になるんかいと突っ込みを入れたかったけれど、その前に水が飲みたかった。お兄ちゃんの腰の龍の胃袋を取り上げて、こくこくと飲む。結局他の水に慣れることはなかったな、と自分の舌を思うと、なんとも贅沢なものだと思う。でも龍の水でシチューとか作ったら絶対美味しいと思うんだもん。英国風カレーとかも。そう思うとルゥとか買っていればよかったかな、なんて今更思う。行商人の人が来たら頼んでおこうかな、と私はお兄ちゃんの隣のベッドに横たわった。このままの好天が続けばしばらくは暇で居られるだろう。風も良い。小さな窓にカモメが止まって羽休めするのを、おおーと眺めると、お兄ちゃんは呆れたため息を吐く。
「暇なら暇なりに何かしていろ、お前は。勉強道具ぐらい持ってきてないのか」
「旅そのものが勉強だら良いかな、って」
「愚か者め。学校に戻って苦労するのはお前だから俺は構わんが」
「うわひどっ。まあでも数学以外は大丈夫だと思うよ。新しい数式が十個も出てたら詰むけど」
「詰んでしまえ人生ごと」
「更にひどっ。にーちゃんは旅の間も変わった気がしないなあ」
「お互いだ、うつけ」
と、そこでカンカンカンカン、と鐘の鳴る音がする。カモメが飛び立つ。帆の上げ下ろしの準備だけど、お兄ちゃんはまるで動かない。妹に労働を押し付けて、優雅に読書だ。このお兄ちゃんは、本当にー。俺様過ぎるんだよ、もう。だからモテないんだ。毛先生にこっそり手紙出そうかな。俺様なので止めた方が良いですって。でも人の恋路を邪魔して馬に蹴られるのもやだしなあ。ちなみにこのことわざは大陸で覚えた。馬は後ろ蹴りが強いらしい。でもラクダよりは乗りやすかったかな。龍は生まれた時から乗ってるから別格で。
帆を上げると雷雨を伴う黒雲が近付いてくるのが見えた。これは一嵐来るぞ、思ったところでさっさとしろと帆を上げる準備に蹴り出される。ひょいひょいひょいっと一番上まで行けるのは、龍で慣れてるからだ。これでも身軽なのよ。体重は言わないけれど。乙女の純情よそこは。とりあえず帆を巻き上げて行き、下に下にと下りて行くと、見知った顔にぶつかった。同じ船員さんだ。と言うことは私の仕事は終わったな。べ、別に上の方が布が軽いからってんじゃもごもごもご。はーっと息を漏らされて、なんか手持無沙汰だから湿気で重くなり始めている帆を上げる。
「ルーファちゃんは身軽だねえ、お陰で帆の上げ下ろしが断然楽になったよ」
「そ、それはどうも……」
「東の大陸までって話だけど、このまま船乗りにならないかい? みんな歓迎するよ」
「いえ、旅は一族の宿世ですから。村に帰るまでが、旅ですから」
「そっかあ、残念だねえ」
ぽつ、と鼻に雨の粒が当たったのは、帆を全部たたみ終わった直後だった。
嵐は結構長く続いて、三半規管が弱い船員が次々トイレに走っていった。ゲロ吐くんだろう。私も龍に乗って最初の頃は、酔って酔って仕方なかったから、気持ちは分からんでもない。食事も作れないから各自保存食で、と言われて、久し振りに干し肉だ。いい加減油が固まって不味いんだけど、贅沢は言わない。食堂はカラで、みんな船室に引きこもってるのが分かったから、そこでもぎゅもぎゅと干し肉を食べる。お兄ちゃんもトイレの住人だ。龍の一族でいつも龍を操作してるはずなのに何で。なんて疑問は無意味だから、私はただ非常食を食べ続ける。もぎゅもぎゅ。美味しくない。
一人で食べるご飯は美味しくない。一緒に食べるんでなくても一緒に誰かがいてくれたらそれで良いのに、今は誰もいない。商船の台所はいつも賑わっててそこが好きだったのに、今はこうだ。コックさんもぐったりしてるし、大体こんな揺れる船で火なんか使ったら大惨事だろう。下手をすると船を沈めかねない。だから仕方ないんだけど――チャプン、と音がして、私は腰を見た。袋が二つ。そう言えばお兄ちゃんに返し忘れていた水袋。龍の入った水袋。これは。もしかして。使えるのでは。
「老龍。この嵐食べられる?」
緒を緩めてそう話しかけると、そうさなあ、と考え込まれる。
『三十分もあれば食い切れるだろうなあ』
やった。
「じゃあ食べて、お願い!」
部屋に戻るとまだお兄ちゃんは帰っていなかった。私は窓を開けて水袋を外に向ける。すぐに出て行った老龍の姿なんて、引っ込んでる皆には誰にも見えなかっただろう。ばくばく食べて行くと嵐が次第に収まっていく。最後の一かけらまで食べたら、すぐに船に戻って来た。水袋に入って貰って、万事オッケー。
「流花」
地獄の底から這いずるような低い声にびくっとドアを見ると、真っ青な顔で酸っぱい息を吐くお兄ちゃんの姿が見えた。
え、えーと、えーと。私何にもしてないよ、てへぺろっ☆ って言うのが通じる相手じゃない。ずかずか部屋に入って来て、頭をゴンッと殴られる。関節立てて。い、痛いよにーちゃん。
「物見台で嵐を観察してた奴が龍を見たと言い触れ回っている。どうするつもりだ。どう責任を取るつもりだ」
「そ、れは、その」
「商船と言えど座敷牢ぐらいはある。そこに閉じ込められて一生龍使いをさせられる可能性は考えなかったのか」
「……はい」
「愚か者め。だからお前は目が離せない」
「ゲロ吐きに行ってたのはお兄ちゃんの問題じゃ……」
「ああ?」
「なんでもないですごめんなさい」
「ルーファちゃん! フェイウェン! なんでもさっきの嵐、龍が食ってくれたらしいぞ!」
さっそくの第一報だ。そうなんですか!? と無暗に驚て見せてお兄ちゃんに睨まれる。だってここで驚かなかったらそれこそ怪しいじゃんか、お兄ちゃんのバーカ。ぶー。
「これで夕飯はまともなもんが喰えそうだぜー……おぇっぷ」
慌ててトイレに走っていく船員さん。お兄ちゃんの顔色もまだまだ悪いから、窓の前を空けると、案の定海にゲロ吐いた。ろくすっぼ食べて無いから胃液みたいなもんだけど、あの無理に胃を押し上げられるのはつらいんだよねえ。私は巫術書を取って毛先生に貰った薬研も出す。船酔いの薬も確か載ってて、湿原で取って来たはずだ。ゴリゴリ擦ってお兄ちゃん用の薬袋に詰める。苦いのは苦手だから甘いシロップか糖衣じゃないと飲みたがらないのが、この兄の悪い所だと思う。はい、と渡すと露骨に嫌な顔をされたけれど、おばーちゃんに巫術書をぐぐいッと無言で突き出すと、仕方なさそうに飲んで、私から取り返した龍の胃袋から水を飲む。と。
「おー……何かすっきりした」
薄荷もちょっと入ってるから、その所為もあるんだろう。お兄ちゃんはみるみる顔色を良くして、私の頭を手の甲でてしてし叩く。これがお兄ちゃん最大の賛辞なんだから、仕方ないなあと思いつつも、えへへーっと私は笑った。
「西のばーさまには、良いものを貰ったな」
「うん。でももし村に毛先生が来ることになったらこれは先生に託すから、安心してね? おにーちゃん」
「なッ俺が何の心配をしているとッ」
「大丈夫大丈夫、私シャーマン向きの性格してないから」
「それはそうだが」
「失礼なお兄ちゃんだなもう! ぶー」
夕飯は大分席も埋まって、話題は龍のことばかりだった。龍が付いてるならこの旅も安全だとか、しかしどこからとか。こっちの海では龍は嫌われておらず、むしろ信仰の対象のようだった。西と東でこんなに見方が変わるなんて、へーんなの。応龍はこっちの海に来れば良かったんだ。まだ水の色も青が混じっててマシだし。でも応龍はもういない。向こうの商船はこれからどうなっていくんだろう。ま、関係ないけどね、今となっちゃ。土と食料になってしまったあの姿は、あまり思い出したくない。貝柱を切ってホタテのバター焼きをあぐあぐ食べる。今度は美味しいな、なんて思いながら。
天候の良い日が数日続き、そろそろ東の大陸に着くかと思われた頃。
「かっ海賊船だ!」
それは現れた。
物見台らか響いた声に、全員が震え上がる。海賊ってあれだっけ、商船の荷物全部持って行っちゃって、下手すると船員をマストから吊るすあれだっけ? 傍らのお兄ちゃんを見上げると、チッと舌を鳴らしていた。もしも私達が龍の一族だとばれたら、また人買いに連れて行かれることになるし、お世話になった船を無下にも出来ない。一番槍が飛び込んできたところで、お兄ちゃん決心したようだ。
水袋を取り出して、呼び出したのは、鏡の龍。足元を崩した一番槍はそのまま海の中。浮き輪を投げていたから死にはしないだろうけれど、それは海上の方が安全だともいえる。
「龍!? 龍だと!? 本物なら金貨五百枚は下らねーぞ!?」
「で、でもお頭、あの龍でかいですぜ!?」
「銛でも差しちまえば大丈夫だろ! おい、用意!」
しかしそれを許さないように、老龍は敵船のデッキを一気に尻尾で薙ぎ払った。一斉に落ちていく海賊たち。勿論船長もだ。豪奢な格好をしていたせいか浮かんでこない。それならそれで良いかと、私達の船は最速で海域を去った。
そして老龍を水袋に戻すと、次に待っているのは味方への説明で――
お兄ちゃんと一緒にそろーりと後ろを振り向いてみると、船長以下船員の全員が、私達に向かって膝を折って頭を垂れていた。
え。何コレ。さすがに予想外の事態に、私と兄ちゃんは顔を合わせる。
「龍の民とは知らず、失礼もあったこと、お許しください」
「いえ、身分を隠していたのはこちらです。どうか顔を上げてください、船長。あなたには妹と共に船に乗せて頂いた恩義がある。それを返したまでの事です」
「……私達はみな、龍の民の子孫です」
「えええっ!?」
流石に声を上げると、お兄ちゃんに殴られる。関節立てられて。龍に乗ってる時はエルボーで済むけれど、地上ではこれなんだから堪らない。船上だけど。
「海沿いに住んでいた一族の者が残したのが我々だと、先祖代々聞いています。今は血も薄く、龍もいない村ですが、こうして商船貿易で生計を立てております」
龍のいない龍の一族。そういえば船長さんのバンダナにはうっすらとうろこ柄が浮かんでいる。龍染めの名残だろうか。
「どうかこの旅だけでも、龍のお力を貸して頂けませんでしょうか。嵐や海賊から、我々を守っては頂けないでしょうか」
「本当に」
お兄ちゃんが声を出す。
「本当にこの旅に限った事なら、吝かではありません。ですが我々は旅の途中、陸に上がったらお別れの人種です。それをどうか、お忘れなきよう」
「勿論です、龍の民よ」
と。
言ったくせに、夜盗に入られた。
水袋は相変わらず身に着けて眠っていたから、被害はなかった。毛布を剥がれた途端にお兄ちゃんが船員さんを締め上げたからだ。言う事には、船長の命令。龍さえいればどんなに快適な航海が待っているだろうと、夢想してしまったらしい。部屋の外に出ると、誰もいない。甲板に出ても、月明りがあるだけ。海は大分過ぎた。ここからなら老龍でも陸に辿り着けるだろう。私達は龍を出して、そのまま船を後にする。
「待ってくれ!」
船長さんの声が聞こえた。
「待ってくれ、龍一匹、龍一匹だけで良いんだ! 頼むから!」
その一匹の価値の重さを知らないものに、龍は与えられない。
遠ざかる声を聴かないように、兄ちゃんの背に耳をぴとっと付ける。
心臓の音がした。
海賊船の人たちは大丈夫だったかな、なんて今更白々しく考えたりした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます