第13話
地図の赤丸も大分増えて半分は世界を回っただろう頃、私達は海にやって来た。はじめて見るそこは赤茶けてお世辞にも綺麗とは言えなかったけれど、巨大な水の塊にちょっと圧倒させられるのも本当で。これが本当の水のドロップみたいな青だったらどんなに綺麗だろうと思うと、ご先祖様達をちょっと恨みたい気分にもさせられた。砂漠で珍重される水のドロップはオアシスで偶発的に生まれるものだから。凝固剤で収縮して収縮してそうなるらしい。その凝固剤も、風に乗って来るものだけれど。うー。恨みたいような恨めないような。ぶー。
「ねえお兄ちゃん、この海結構広いけどどのぐらい掛かるの? 抜けるのに」
「二、三日ってところじゃねーかな」
「そんなにっ!? ごはんはもつけど眠れないよー」
「だから今のうちに眠っとけ。俺は夜に寝る。その間老龍はお前に任す」
お兄ちゃんに龍の手綱を任されるのは初めてで、ちょっと驚いてしまう。ふ、ふふん、私だって一人前の龍使いだって認めたってことねっ。ちょっと動揺しながら、私達は雲の上を飛んでいく。難破船なんかがあったところで私達にはどうにも出来ないから、雲の上だ。さ、さぶい。さぶいよにーちゃん。それでもなんとかお兄ちゃんの背中でうとうとし始めた頃に、おーい、と龍の声が聞こえた。何だろうと顔を上げると羽の生えた龍がうねうねとこっちに飛んでくるところだった。応龍。龍の形態の一つだ。羽が生えているのが特徴の。龍が老いて応龍になる、とも言われてるけれど、少なくとも老龍にはその気配がない。どんどん近付いてくる応龍は、随分大きな体をしていた。老龍より大きな龍を見たことのない私は、ほわーっと驚いてしまう。
『やはりお前か。まだ人間に飼われているのか』
『まあな、今は老龍と呼ばれている』
『そのまんまな名前だねえ。乗っけてるのは龍の民かい? 二人ってことは夫婦者か』
「ちがいます、兄妹ですっ」
思わず口をはさむとお兄ちゃんにまたエルボーを食らう。やっぱり頻度上がってるよお兄ちゃん。敵か味方か分からない龍に迂闊に声を掛けるなってことなんだろうけれど、老龍がこんなに砕けた話し方してるなら悪い龍じゃないだろう。否、龍の良し悪しを決めるのは私達じゃないけれどさ。それにしたってそろそろ青痣になりそうだよ。ドメスティックにバイオレンスなにーちゃんなんだから。老龍はその辺知ってるのかな、そう言えば。そのうち聞いてみよう。
かんらかんらと笑った応龍は、そうかそうかと納得する。ほら、悪い龍じゃなかった。私達には、悪い龍じゃなかった。応龍はばさりと翼をはためかせ、縦飛びになる。そうすると雲が避けて、下が見えた。
そこにいたのは――海賊船に襲われる商船だった。
「っお兄ちゃん」
「海に出る前に言ったろ。俺達に出来ることは何もない」
『そう、我に出来ることはあってもな』
応龍の言葉に、私は顔を上げる。黒雲が少しずつ集まって来ていた。やがて雷雲になり――
荷物を積めようとしている海賊船に、雷撃が落ちた。
メインマストを綺麗に割るような、落雷。
慌てた海賊たちは積み込みもせずに逃げていく。そして商戦からは歓喜の声が上がる。人間にも、悪い龍じゃなさそうだ。ほっとして私は龍の胃袋から水のドロップを出す。
「あの、食べますか?」
『久し振りの淡水か。それも良いな、おくれ、娘』
「はいっ」
あーんっと開けられた牙でいっぱいの口の中にドロップを放り込むと、くぅ~っと身体をうねらせる。バルバトスたちもだけど、水のドロップって龍をそんなに喜ばせるものなのかな。老龍にも放ってあげるけれど、こっちは慣れてるのか、反応が薄い。でも老龍って元からそんなところがあるか。老人っぽいって言うか。パオの中で静かにお茶を飲んでいる感じって言うか。でも怒るときにはすごく怒るから、カミナリオヤジ? って言うのに似てるのかもしれない。実際雷落とすし。
「龍って清水でしか生きられないって聞いてますけど、こんな濁った海の中で生きていられるんですか?」
途中までついていこう、と言ってくれた応龍――名前は聞かない、意味なんてないだろうから――は、そうさなあ、と目を細めて遠くを見る仕種を見せる。
『ここがこうなるまでは結構な時間があってな。その間に慣れてしまったんだろうと思う。我も龍の中ではそこそこ長生きだったが、一気に広まるものではないのだよ、こういった海洋汚染と言うのは。ゆっくり蓄積していつの間にか取り返しがつかなくなっている。それが、この状態だな』
「砂漠化みたいなものか……」
『そうか、東の民は砂漠暮らしだったな。そう、そういうものだよ』
うーむ、考えてみてもお兄ちゃんに無い頭使っても無駄だぞ、なんて言われる。考えるだけなら考えてみたって良いじゃない。ぶーっと口を尖らすと、ちょっと眠気が戻って来る。しっかりストラップで巻いた方位磁針を持って、私はうとうととお兄ちゃんの背中に額を付けた。とくんとくん聞こえる心音に安堵しながら、今度こそ私は眠りにつく。
『しかし龍の民は相変わらず成人が早いな。まだ子供ではないか、娘など』
『まあな、それでも一端の龍使いになって貰わなければ困る。西の民のように絶えてしまっては、困る』
『西の民は絶えたのか』
『ほぼほぼな。今は龍になる娘と龍が二匹、ばんばん増やすと言っていたがどうなるやらだ』
『人間は龍を聖別視したり邪悪視したり忙しい。我らは我ら、彼らは彼らと言うだけの事だと言うのに』
「それでもお前たちは人と共にあってくれるんだな、感謝するよ、本当」
『ほう、飛文からそんな言葉が出るとは珍しいな』
「俺だって弁えてるところは弁えてるつもりだよ、老龍。少なくとも妹よりはな」
『ドメスティックにバイオレンスにしながらもな』
「げっ。知ってたのかよ」
『この老龍、お前の家に仕えて三代だ。お前が流花の哺乳瓶を奪い取っていたころから覚えているぞ』
「げー……」
『大人げない兄だのう』
「流花が甘やかされてだらけない様にする為の戒めだ」
『一番甘やかしているのはこの旅に同行しているお前だと思うがな』
「ぐ」
『はっは、人の兄妹と言うのは面白いな。我らにはないことゆえ、どういった感情が沸くものなのか気になる』
「……まあ、大事だよ」
『そうか。大事か』
「ああ。大事」
『ならばしっかり、守ってやるのだぞ。この先の大陸では龍を蔑視する傾向があるからな』
「解った」
すかすかと私が寝ているうちに、空は暗黒になり――
「流花、起きろ」
「んぁ?」
「交代だ。あと薬よこせ」
「あぁ、はいはい……ってうわーすごい星空だ!」
『雲の上だからな』
「良いなー、村もきれいだけど海もこんなに綺麗に見えるんだ! 大発見!」
「良いから薬」
「けぶっ。お兄ちゃん最近エルボー多いよ……」
『な?』
『そのようだ』
老龍と応龍の掛け合いの間に、お兄ちゃんに雑貨袋に入ってもらい、私はずりずりと前に出て老龍のパイロットになる。前にこうしたのはお兄ちゃんが死んだ時かな、とちょっと複雑な気分になりながら、角を掴んだ。お兄ちゃんの体温がまだ残っているのが、少しだけ心強い。
「応龍はどうしてここにいるの?」
『唐突に切り込んでくる娘だのー。まあ、この海域で生きていけるのが我だけだからかの』
「って言うと?」
『龍には水が必要だ。汚染されたこの海域で、生きて行けるだけのバイタリティがあったのが我だけだった。気が付いたら一人で、何とはなしに人助けをしてみたりしているだけだよ。龍の娘』
「確かに私達がこの辺に落ちたら、色んな意味で死ぬな……」
汚いし、塩水だし、汚いし。
「老龍は水が青かったころの事知ってるの?」
『まあな。千年前までは海で生きていたぐらいだ。応龍と知己を得たのもその頃だ』
「長いお付き合いなんだねー……老龍は、堪えられなかったクチ?」
『そうとも言える。今はいくらか平気だが、当時は空も汚くてなあ。雲の上でも咳が止まらなかったほどだ。今は文明も退化して、ほどほど暮らしやすくなったと言うところだよ』
「ぶんめい? たいか?」
『村に帰ったら先生に訊いてみると良い』
「うん、分かった」
『素直な娘だのう。何も考えていないようにも見えるが』
「シツレーだよ応龍! 私だって考えることは考えてるよ!」
『例えば?』
「さ、さんかくかんすうとか」
『それが何の役に立つ?』
「ぶー」
『はっは、それで良い。流花はそれで、良いんだよ』
老龍のよく解らないフォローで私が三角関数を知らないことが露見するのは免れた。お兄ちゃんの教科書覗き見しただけだってばれないですんだ。さいんこさいんたんじぇんと。訳の分からない言葉が頭をぐるぐるさせるのは。百年の恋のようにぐるぐる回る言葉たち。青い海。赤茶けた海。それでも人間を助ける応龍。人と永らえることにした老龍。
「憎んで……ないの? こんなにした、人間のこと」
『憎むべき人間はとうに灰だからなあ。個々の人間にいちいち復讐して回るほど、暇でもなかった。今生きているんだからそれでいい、そう思い始めたのがこの五百年だよ』
「残りの千年は?」
『散れ猿と思っておった』
「やっぱり恨んでたんじゃん!」
けらけらけらっと私が笑うと、老龍もくつくつ喉で笑う。
『面白いだろう、人間と言うのは』
『ああ、面白い』
「人を面白人間にしないでくれないかなっ」
『褒めているんだよ。これでもな」
「ぶーっ……」
絶対嘘だ、思いながら私は冷える海を渡って行く。水に月が写って、それは綺麗だな、と思えた。
龍の胃袋の中では時間がゆっくり進む。だからお兄ちゃんを起こしたのは、次の日の夕暮れ時だった。それでも寝足りなそうなお兄ちゃんの背中にもたれて、私はすーかー眠る。お兄ちゃんもそうすればいいのに、と言ったところ、自分より小さい背中に身体を預けられるか愚か者、とエルボーを食らってしまった。本当そろそろ青痣出来てるんじゃないかと服をぺらりめくってみると、そーでもない。物的証拠にはまだまだ遠い。でも証拠になるほど肘食らうのも嫌だな、思っているとお兄ちゃんは応龍が近くを飛んでいないことに気付く。おい、と言われて、うん、と返す。ツーカーなのだ。兄妹とは。
「さっき襲われてる商船見付けたからまた雷落とすって、離れてったよ。そろそろ追い付くんじゃないかな」
「なら良いが――」
カッと光が走り、次にごろごろと音が鳴る。音の方が遅いのはちゃんと学校で習ったことだけど、実感するのは初めてだ。雷はいつも身近だったから、あんまり怖くもない。お母さんのカミナリは、ちょっと怖いかな。
戻って来た応龍は、戻って来たというより逃げて来たという様相だった。
よく見るとその腹には銛が何本か突き立てられている。
「老龍!」
龍ともツーカーなのが龍の一族である。応龍の銛にしがみついて、一本二本と抜いていく。三本目、ラストで応龍はげふっと血を吐いた。えーとえーと、私は雑貨袋から西のおばーちゃんに託された巫術書を出して見やる。手当の仕方。手を当てる。そのまんますぎるよおばーちゃん! と嘆きながらも私はその傷にそうっと手を当ててみる。ぼあ、と光が灯って、傷が治っていくのが分かった。驚いているのは応龍も老龍もおにーちゃんもだけど、誰より私だったと思う。これが龍の一族の力の一つなのか。三つの傷に『手当て』すると、ああ、とやっと応龍は落ち着いたようだった。
「どしたの応龍、こんなに怪我するなんて」
『人間が新しく兵器を開発したようでなあ。原始的だが中々に効く。これからは商船守りもやめて、空でのんびりしている方が良さそうだ』
「そ、」
そんなこと言わないで。今までみたいに助けて。
言えるわけもない、手の中の龍の血。
「そだね……その方が良いかもしんない」
『聞きわけが良いな? 流花』
「だってこんなにたくさん血が出ちゃうような物使う奴らなんて、構ってらんないよ。西洋の龍みたく殺されないうちに、どこかねぐらを作って、飛ぶのは時々にしたりした方が良いと思う。人間なんて見捨てて良いんだよ。龍の慈悲が分からない人間なんて」
最初の商船狩り。応龍は人ではなくマストに雷を落とした。単に高かっただけじゃない、死人を出さないためだ。なのに人間は恩を仇で返す。それならいっそのこと、一切合切を見捨てた方が良い。少なくとも私にはそう思えてしまう。そう、まるで砂漠の街で黒雲を喰ってあげたのに近くでの逗留は拒否された、あの時みたいに。
お兄ちゃんのエルボーが軽く入る。
「俺個人の気持ちで言うなら、流花と同じだ。でも決めるのはあなただ、応龍。こんなになってまで守る価値が人間にあるとは、思えないけれど」
「にーちゃん」
「あなた個人が人間に思い入れがあるのならば、続けてみればいいと思う。やがて力尽きるとしても」
「にーちゃん!」
「それは龍の自由なんだよ、流花」
てしてし頭を叩かれて、理解を促される。砂時計の砂が落ちるようにゆっくりと理解して噛み締めていく。龍の自由。その為なら死んでも良いの? それが自由の結果ならば。そんなの。そんなのって。
分かりたくなくても解ってしまう。だって私は龍の民だから。龍は何にも縛られないと、これでもかと教え込まれてきた龍の民だから。
せめてその口に水のドロップを放り込むことぐらいしか、出来ない。
『ああ――心地良いなあ』
応龍は目を細める。
『お前たちのような者がいるから、人間は助けたくなる。未練よなあ』
もしかして西の龍の一族の発端って――
お兄ちゃんを見上げる。こくん、と頷いて、だけどシィ、と口元に指を立てられた。まだ秘密。もしかしたらずっと秘密。ずっとずっと、秘密。
「俺達はただ龍の一族だからですよ。一族は一族を見捨てられない。それだけです」
『そのそれだけ、が、どれだけの人間と龍を救うのだろうな』
「三人ぐらいです。父と母と妹と。その程度ですよ」
『十分ではないか。家族がいるのだ。我らにはそれがない』
「あの、」
思わず私は口を出す。
「応龍も私達の村に来たら良いんじゃないかな。ちょっと身体は大きいけれど、歓迎してくれると思うんだ。だから、こんな赤い海なんか捨てて、恩知らずの人間なんか捨てて、龍の一族と一緒に――一緒に、暮らせば」
お兄ちゃんがゴツンと私の頭を叩く。余計なことなんだろう。だけどしたいんだ、私は。お節介が、焼きたいんだ。
応龍は少しの間目を閉じて。おかしそうに笑いだす。
『龍の一族は、龍に甘いなあ』
「そりゃそうですよ。ご先祖様ですもん」
『生憎それほど年は取っていないさ。子供に匿われるほどに落ちぶれてもいない。さて、我の旅の付き添いはここまでだな』
「え?」
『傷はふさがったが、中がまだ膿んでいる。毒だな、おそらくは。半日ともつまい。だから、ここでお別れだ。流花。飛文。老龍」
「え、そんなそんなっ」
私はまた巫術の本をめくる。けれど流石に解毒の方法は、海では出来ないことだらけだった。草に灰にと。
「水袋に入れば、龍の胃袋だからいくらかもつかもっ」
『良いのだ。我はもう覚悟は決まった。ではな、三人とも』
そう言って、応龍は赤い海に落ちて行った。
次の日の朝早く大陸に辿り着いて龍の胃袋に老龍をしまっていると、砂浜に打ち上げられた応龍が腑分けされているのが見えた。毒を抜いたら喰うらしい。龍の肉は逸品だと聞いたことがあるけれど、いくら食いしん坊の私でも食べる気にはなれず、ただそこをお兄ちゃんと離れた。
世界中の人たちが龍の民のように龍の言葉が聞けたなら、こんなことにはならなかっただろうか。
否だろう。
人間は同じ言葉を話せても、争うことをやめないのだから。
ぐずっと鼻水が垂れて来るのを目頭を押さえて堪えながら、何で涙の方が早く出てくれないかなあ、と思う。
馬鹿げたことを考えてないと大泣きしてしまいそうだった。
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