第9話

「龍洗い?」

「流花?」

 下の市にその看板を見つけたのは、龍王寺を出て少ししてからだった。

「下の市に出てるの、何だろうね」

「龍洗いってからには龍を洗うんだろうが――」

 どういう事だろう。ちょっと離れたところで老龍を下りて、私たちは市に行ってみる。水のドロップも欲しかったし、龍の関係ない所で龍洗いとは何ぞやと思ったこともある。ぼーっと簡素な椅子に座って空を見上げているお兄さんがいた。あの、と声を掛けててみると、ぽやーんっとした笑顔で何だい、と尋ねられる。

「龍洗いって、何するんですか?」

「読んで字のごとく龍を洗うんだよ。普段は少し東にある龍王寺って言う龍を祭るお寺まで行くこともあるけれど、今日は市でやってみようかとね」

 龍王寺の御用達なら信用できる。お兄ちゃんを見上げると、こくん、と頷いて見せた。自分の水袋から老龍を出してみると、市の中がざわっとする。別に機嫌がいい時は何にもしないのに。老龍だって。ぶーっとなりながらも、呆気に取られているお兄さんに、ああ、と頷かれた。

「君たちのベスト、その色、龍の民かあ。さすがにこの規模の龍はなじみがないなあ」

「無理ですか?」

「いや、龍洗いにも意地がある。でも一人でやってると日が暮れちゃいそうだな」

「俺達も出来る限りお手伝いします。な、流花」

「う、うん、お兄ちゃん」

 砂漠で水洗いなんかしたらそれこそ汚れまくるだろう。というわけで、龍洗いとは龍のうろこに詰まった砂を落とすのが基本のようだった。珍しがってわいわいと見に来る人達がいるのは恥ずかしいけれど、ブラシで身体を擦る度に老龍が気持ち良さそうな声を出すから堪らない。えいえいと擦っていくと、若い子は体力があるなあとお兄さんに笑われてしまった。でも私もお兄ちゃんも一生懸命になって、半身を洗い終わる。お兄さんはその間にもう半身を洗い終えたようだった。早い。やっぱり私たちはまだ子供だ。

「顔はしわも多いから慎重にするんだ」

 確かに老龍の顔はしわしわだった。そのしわを細いブラシでそっそっと掃いていくと、老龍も気持ち良さそうに目を閉じる。

「老龍、洗ってもらうのって何年ぶり?」

『百年は下らんなあ。こんなに心地よいのは久しぶりだ』

「百年ぶりに洗ってもらって、気持ち良いの久し振りだって」

 老龍の言葉を翻訳して伝えると、お兄さんはいやぁと照れて見せる。

「こちらこそこんな貫禄のある龍の世話をできるなんて光栄だよ。何歳ぐらいなんだい?」

「千五百、と自分では言っていました」

 ブラシの動かし方を入念に見入りながらお兄ちゃんが答える。千五百、とお兄さんが素っ頓狂な声を上げる。老龍は老龍だから年寄りなのだ。本当の名前を付けた人はもういない。龍には真名がある。私も小龍に名前を付けなかったのは、名で縛ることをしたくなかったのもある。老龍も誰にも教えていないのは、思い出がその名前にあるからだろう。良いと思う。それで。私も家族以外に豚とか言われるの嫌だし。ぶーぶー言うけど、親しくない人にからかわれるのは嫌だ。それと同じことだろう。

 そしてステップは私達のトラウマである歯磨きに映るのだけど、これがまた驚きだった。

 柄の長いデッキブラシでごしごし洗うだけ。

 それだけなのだ、本当に。

 いままでお兄ちゃん、老龍に尽くしすぎてたんじゃないかな、と思うぐらい。

「鼻くそもたまってるなー、どうする? 掃除しとく?」

『最近鼻が詰まって夜に目が覚めるからなあ』

「お願いします。ついでに耳くそも」

 お兄ちゃんに言われるまま、お兄さんは細長いブラシを老龍の鼻に突っ込む。乾いた茶色い鼻くそがごっそり取れた。隣の穴にも別のブラシを突っ込んで、取る。きちゃないのが本音だけど珍しくって、耳垢も別々のブラシで取るのをほわーっと眺めていた。

「はい、おっしまい」

「ありがとうございました! それでえっと、お代なんですけど」

 お兄ちゃんを見上げると、フルコースはやりすぎたかとちょっと後悔している顔だ。でもお兄さんはひらひら手を振って、

「良いよ良いよ。こんな立派な龍から金はとれない。それに耳くそと鼻くそ、漢方薬になるんで高く売れるんだ。しっかり儲けているから、気にしないで良いよ」

「あの、でしたら」

 お兄ちゃんがぐいと身を乗り出す。

「顔用のブラシ、頂けませんか?」

 お兄ちゃん……どこまでも龍に尽くすつもりなんだね……。


 老龍の頭に乗って市を後にすると、夕暮れが見えた。青と紺のグラデーションが綺麗だけど、そろそろ方位磁針も見えなくなる頃なので、適当に降りて久し振りにとぐろの寝床だ。食事も水のドロップも補充してある。老龍に水のドロップをあげて、私たちは炙った干し肉だ。おかゆとか一汁三菜とかはしばらく望めないだろう、と思うとちょっと寂しいけれど、清貧たれと言う旅の掟もある。昔いたらしいのだ、龍を見世物に一儲けした人が。帰ってきたら龍から他の龍、龍使いに伝わって、こってり絞られたらしけど。

 でも先立つものがないと何にも出来ないのも事実だよなー。市で僕と握手! とか、龍乗り十分銀貨一枚、とか考えた方が良いんじゃないだろうか。いざという時のために。

 と言う話をしたらお兄ちゃんに心底呆れた顔をされた。そして出る声。阿呆か。

「金ならちびちび稼いでるんだよ、お前の知らないところで。龍のうろこも漢方になるからそれを溜めたり、龍の水をリットル単位で売ったり」

「お兄ちゃん私が市場で迷子になってる間にそんなことを……」

「その時のためのベストだろうが。これで龍の民を探せ、愚か者。市に一人二人いれば珍しい方なんだからな」

「ぶー……」

「大体お前は注意力が散漫で何か欲しいものを見付けると一直線に行くから悪いんだ。団体行動に全く向いていない。学校でも備考欄に注意力が散漫だと――」

「わーもう、いーから! 今日はもう寝よう、ねっ!」

「またそう睡眠に逃げだすつもりか」

「逃げる! 否定できないときは逃げる! お休みお兄ちゃん!」

 ばふっと龍王寺で貰った毛布をかぶると、水の匂いがした。

 小龍、りっぱな龍になるんだよ。鼻くそで儲けられるような。


 かり……かり……

 何かをひっかくような音に目を覚ますと、お兄ちゃんも気付いているようで訝しげに老龍の肌を撫でていた。老龍はちょっと魘されているようで、うう、とか、あう、とか言ってる。かりかりが増すごとにそれが酷くなるけれど外で何が起こっているのかは分からない。お兄ちゃんに見られて、私はうんと頷いた。砂を掘って外に出る。小柄な私の方が出やすいから、しゃかしゃかと老龍の下を掘った。流れてくる砂をどうにか掻き入れて、一人分通れる穴を作る。そうして外に出ると、外はまだ真夜中だった。そしてかりかりの主は。

「何やってんのよあんた!」

「げっいつの間に!?」

「それは問題じゃないでしょ、あーひどいっ!」

 知らない男は老龍のうろこを剥いでいたのだ。手のひら一面分ぐらいハゲになっちゃって白い皮膚が出ているのを見ると、痛々しいことこの上ない。男はうろこを入れた袋を手に砂船に乗ろうとするけれど、足にしがみついて阻止してやった。その間に目を覚ました老龍がとぐろを解き、カァァッと男を威嚇する。そのまま砂船も噛み千切ってしまえば、男は茫然としてしまっていた。さり気にうろこの入った袋を奪い取っておくと、男はがくんと頽れる。

「龍のうろこは良い漢方薬になるからな、それ狙いだろ、あんた」

 お兄ちゃんが立ち上がってそう言う。そっか、耳くそも鼻くそもそれこそ糞ですら良い堆肥になる龍の、そのうろこだ、高く売れないはずはないだろう。それにしてもなんてことを。寝てる間に動物の生皮剥ぐなんて、人間として恥ずかしいと思わないのか。恥を知れ、恥を。

「ちょっとあんた、方位磁針出しなさいよ」

「や、やめてくれっ悪かったから! 金なら出すから、それだけは! こんな砂漠の真ん中で放り出されたら死んじまうよ! 砂船も壊されちまったし、温情掛けてくれよ、な? な?」

 哀れっぽく頼むその姿には何も感じない。だって、男の胸元にはきらりと光る。

「ペンデュラム持ってんでしょ」

「!」

「それ目当てに自分の村に帰れば?」

「そ、それは」

「村にも帰れない理由があるよーな奴に掛ける情けはない! はやく方位磁針を出す!」

「この……下手に出てりゃいい気になりやがって、たかが龍の民が!」

 哀れっぽい皮の向けた男はきっと私を睨んで、うろこを剥いでいたナイフをこちらに向ける。でもそんなの怖くない。怖いものなんてもっと別にあるものなのだ。私は知っている。思い知っている。だから不思議と落ち着いていた。大丈夫。今の私には老龍もお兄ちゃんも――私もいる。

 手を掴んで引っ張り、無理やりナイフを私の方に引き寄せる。焦った男はナイフを落とし、そのまま私は男の腕を固めた。体重を掛けて砂に落とせば、吸い込んだ粉塵でゲホゲホ噎せる。私は体育の成績だって悪いと言うほどではなかったのだ。苦手なぐらいで。お兄ちゃんがナイフを確保して、男の首からペンデュラムを切り取る。

「選べ。こっちか方位磁針か」

 男はくぐもった声で、ペンデュラムを選んだ。やっぱり帰りたい場所があるんだろう。広い砂礫の世界では、一度発った場所には二度と戻れないと思え、と言う教訓がある。一期一会だ。

「流花」

 呼ばれてごつんと頭を殴られる。這う這うの体で逃げ出す男を見送りながら。な、何で? 今日の私割と大活躍だったと思うんだけれどなっ!? ちゃんと凶器も落とさせたし、うろこは取り戻したし、にーちゃん怒らせるようなことしてないよ!?

「凶器持った相手を追い詰めるな。お前が刺されたらどーする。これは『お前の旅』なんだぞ」

「違うよお兄ちゃん、私とお兄ちゃんと老龍の旅」

「だが今年のメインはお前なんだ。つまらん怪我をして大事に至りたくなければ俺と一緒に老龍の歯磨きだ」

「いきなりだねっ!?」

「そうでもない」

 東を見ると太陽が昇り始めているようだった。

「……ブラシでごしごし?」

 訊ねるとお兄ちゃんは雑貨袋から昨日貰って来た顔用のブラシを取り出す。

 お兄ちゃん……本当にやる気満々なんだね……。

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