第6話

 龍にも歯があるからには歯磨きが要る。お兄ちゃんが龍の胃袋から出したたわしみたいなのがそうだ。実際たわしと変わらないんだけど、柄がついてるだけ違いがある。私は前歯を、お兄ちゃんは奥歯を。砂漠の真ん中でしばらく村もないから、そうしている。

 下手にすると血が出るのは人間と一緒で、だから私はその前歯をぎりぎり歯垢が取れるまで磨く。老龍も久し振りで心地良いのか。うとうとしていた。日もそれほど強くなく、風もない今日みたいな日は、お昼寝にぴったりだと思う。近くにオアシスでもあれば、だけど。さすがに砂漠化が極まったこの星ではそうは行かない。空を見上げると色んな星があって、何座、って言うのは分かるんだけど、ひしゃく座ぐらいしか元々のものと照らし合わせることが出来ないのが私だ。だから一番星ばかり覚える。アンタレス、アクルックス、アルデバラン、アークトゥルス、スピカ、デネブ、ベガ、アルタイル……星座早見かが見られない私がそれらを覚えたのは、勿論お兄ちゃんのおかげだ。成績と言う点においてお兄ちゃんは普通だけれど、私の知らないことをたくさん知っているのも事実だ。歳の差なんて二つなのに、それは膨大な時間に思える。

 そしてそれがこの龍の歯磨きでもある。一族のいるオアシスでは龍は歯磨きを必要としない。龍の水がたっぷり溜まった水辺で一晩歯を漬けていれば、ピッカピカだからだ。だから特に気を使っていなかったんだけど、お兄ちゃんは私が寝ている朝焼けの中でせっせと磨いていたらしい。まめな人なのだ、うちのお兄ちゃんは。私と違って。だって朝焼けの砂漠なんて一番涼しい時間帯、眠らずにいられない。夜は零下まで気温は下がるけれど、朝の砂漠は過ごしやすいのだ。意外と。昼は老龍で飛んでるからあんまり暑さを感じない。寒さの方が強いぐらいだ。どうして太陽に近付くのに寒くなるのか聞いてみたこともある。酸素が薄くなって保っていられる温度が少なくなりどーのこーのと教えてもらったけど、あんまり理解しているとは言えない。

 最近は龍の旗を掲げている村もなくて、そろそろ老龍に水のドロップを上げた方が良い頃かな、って所だ。龍は燃費が良いから人間の口の中で三日もつドロップが、二か月はもつ。もう一か月ぐらいは食べてないし、そろそろ頃合いかな。


 とその時。

 磨いていた前歯が嫌な感じが上がった。

 まさか。


「にーちゃん避けて!」


 その叫びは遅かった。

 ぶあっくしょんっと巨大なくしゃみに吹っ飛ばされる私。

 同時にごりっと言う嫌な音。

 お兄ちゃんが磨いていたのは奥歯。

 龍の、奥歯は、くしゃみで閉じて――


「お兄ちゃん……?」


 どろ、と出てる赤い血は、勿論老龍の歯肉炎なんかじゃなく。

 お兄ちゃんの血だった。

 身体をほぼ二分されて、お兄ちゃんは、死んでいた。

 私は茫然と。老龍はうなだれて。その身体を引きずり出す。


 ヴァニシング・ポイント――消失点。

 お兄ちゃんは私の人生から、姿を消した。


 とりあえずお兄ちゃんが持っていた水の入った龍の胃袋にその身体を突っ込んだ。せめて村に帰るまで、その身体を腐らせないためにだ。老龍は口元から垂れたお兄ちゃんの血を持て余しているようだったから、ハンカチで拭いてあげた。

 何も言わなかった。

 私も老龍も、何も言わなかった。

 何も言えなかった。

 どっちも責められないぐらいに、私はどっちも大好きだったから。

「行こっか、老龍」

 それでも龍の一族は旅をしなくてはならないのだ。何があっても、村に辿り着かねばならないのだ。そして報告をしなくてはいけない。世界を見聞した報告を、しなくては……。

 もしも。

 もしも私たちがもっと年の離れた兄妹だったなら、お兄ちゃんはこの旅について来なかっただろーか。一人粛々と任務をこなし、村に帰りつくまで無事だっただろうか。薬の管理と方位磁針ぐらい自分でもどうにかなっただろう。お兄ちゃんは賢いから。成績は真ん中でも他の色んなことを知っていたし、口も回るから。

 あるいは私がもっと、一人で何でも出来る、末っ子気質でなかったならば。お兄ちゃんは心配せず自分の成人の歳で世界を回り、知啓を得ただろう。お兄ちゃんはすごいから、老龍も楽だったろうし。二人も乗っけていくこともなく、のんびりした旅が、きっと出来ていただろう。

 でも現実はそうじゃなくて。

 私は方位磁針を見ながら、ひとり、老龍に乗っている。

 初めて任された角はほんのりと熱を感じさせて、それがお兄ちゃんの体温のように思えて。

『流花……』

 老龍に何か言われても、何も言えないぐらい、歯を食いしばって泣いた。


 そんな日が何日も、何日も、何週間も続いた頃。

 ある朝老龍が空に昇る瞬間、ぐらりと揺れた。

「ッ老龍?」

 老龍はどたんと倒れる。私は砂の上に放り出される。三つの龍の胃袋が鳴った。ちゃぷん。ころん。しゃりん。

「老龍!」

 老龍は眼を閉じていた。

 そーか、お兄ちゃんの事で忘れてた。老龍に水のドロップを上げそこなっていたのだ。私は急いでその口に――

 手を突っ込もうとして、怯えが走る。

 お兄ちゃん。

 そんな風にもたもたしているうちに、老龍の呼吸も浅くなって――

 無くなってしまった。

 二つ目の消失点。


 ――私は完全に孤独になってしまった。

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