実験体2号
目を覚ましたとき、目の前にいた男に恋をした。その人はわたしの通っている大学の先生で、その人が智里叔母さんの元夫だったということを最近になって知った。わたしは彼を先生と呼んでいたし、そう呼ぶことが自然であるように思えた。
先生はわたしが目を覚ましたのを見て、
「おはよう。自分の名前はわかるかな?」
と尋ねた。その声も、目元も、手の形や立ち居振る舞い全てがわたしの胸を高鳴らせた。フィーリングが合うというか、一目ぼれというか。運命の人がいるとしたら今目の前にいるこの人こそがそうなのではないだろうか。
「……自分の名前くらい言えますよ。わたしはチサ。原田チサです」
恥ずかしくてついつっけんどんな言い方になってしまう。もっとも、先生に対しては普段からそんな口調になってしまっていたのだけれど。
それはさておき、先生はわたしが自分の名前を言っただけだというのにいたく上機嫌に笑っていた。面白いことがあったり楽しかったりしてする笑いとは違うような、感情が抑えきれずに漏れ出てきてしまったという表現が妥当であるような感じだ。
「いや、どうもありがとう。これで最終段階に移れるよ」
「……? 何のことですか」
「チサがそれを知る必要はないよ。それよりも少し時間がかかってしまうから、コーヒーでも淹れてくれないか」
「またそうやってこき使って。まあ、良いですけど」
先生に言われるがままにお湯を沸かし始める。「チサ」と呼ばれることに多少違和感はあったけれど、それよりもふわふわした気持ちが優っていたので深く気にすることはなかった。
好きな人に名前で呼ばれると地に足がつかなくなってしまうということをこのときはじめて学んだ。
⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷
それから少しの間先生は作業に没頭した。その間やることが無いわたしはその作業がおわるのをひたすら待っていた。別段苦痛であるわけではなく、むしろ先生の作業を眺めていることができて幸せだった。
コーヒーを飲み終わる頃にはひと段落ついたらしく、先生は立ち上がって伸びをした。そして先生はベッドの方を向いたのでわたしも何となしにそちらに顔を向けると、一人の少女がむくりと起き上がり目を擦っていた。
先生の目には期待と不安の色が入り混じっていた。十中八九今までやっていた作業はこれに関することであるとわかった。
万が一にでも暴走して、先生が危険に晒されてはならない。そう思ったわたしはすぐにベッドに近づいていき、起き上がった少女を観察した。
「先生、問題なさそうですよ」
そう言うと先生は安心したのか、その少女に話しかけた。少女の名はチサトというらしい。叔母さんと同じ名前だなんて不思議なこともあるものだ。
少しの間チサトと話していた先生は、何を考えたのか机の横にある本棚をずらした。すると奥に扉が見え、わたしはチサトを案内するように促された。
このときわたしは既にその扉の奥には隠し部屋があることを知っていたけれど、そこにチサトを案内することが「最終段階」に進むために必要であることについてはこのタイミングで理解した。
理解したというか推し量ったのだ。先生はいたずらにこんな仕掛けを施したりしないから。
隠し部屋に入ってからのチサトが明らかに不安定な状態であることは見るまでもなく明らかだった。いつチサトが後ろを向いて先生を攻撃してしまうかと心配するわたしをよそに、先生はまるで問題ないかのように振舞っていた。わたしは出来る限りチサトに無理をさせないようにしなければならなかった。感情の暴走はたいていストレスがかかるために起こることだから。
「最終段階」を終える頃のチサトは誰がどう見てもおかしくなってしまっているようだった。先生に言われるがまま近づいていくと、急に涙ぐみながらチサトはわたしの胸に飛び込んだ。危なかった、と思いつつチサトのストレスを和らげようと丁寧に受け止めた。チサトはわたしを見つめ、わたしもチサトを見つめ返した。部屋から出ようと歩き出すとき、チサトはふいと視線を逸らしたことについて、湧いてくる不安に歯止めがきかなかったけれど力なくわたしの腕を掴んでフラフラと歩く様子を見て、大したことはできないだろうと高をくくっていた。
それが間違いだった。チサトはやはり暴走していたのだ。そしてそれを気取らせまいとしていた。おぼつかない足取りも、子猫のように震える両手も、わたしを騙すための演技だった。
チサトは冷静に機をうかがっていた。そして先生が目を離したその瞬間、わたしの手は振りほどかれてしまった。
あまりにも突然に動き出したチサトを止められるわけもなく、先生にとって大切な装置はチサトと共に外へ飛び出していった。
窓から吹き込む風は心地よく、絶句する先生を横目に、やっと二人きりになれた喜びを密かに噛みしめていた。
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