実験体"チサト"⑤ 後編

 何度目を擦ってみても、目の前で横たわっているチサの姿に変わりはない。先生も、そして近くに立っているもう一人のチサも平然としている。自分だけが事態を飲み込めていない。


「チサはそこに立っているじゃあないか」


 先生の声に反応し、恐る恐る立っているチサの方を向く。そのチサは両手であたしを優しく抱き込み、囁いた。


「かわいそうに。よしよし」


 髪を撫でつけるチサ。その顔はまさしく自分の知っているものであり、そうとわかった途端、目の前で横たわっているチサの形をしたモノに対する嫌悪がふつふつと沸き上がって来た。今この場に「チサ」が二つ存在しているという矛盾に対する違和感はもちろん、それ以上に何か言いようのない感覚がある。


「さ、智里。キミに対するお願いとはそこに転がっているモノに関連していてね。……端的に言ってしまうと、始末してほしいんだ。目の前のソレを」

「智里、できる?」


 先生とチサは穏やかな表情を見せている。その顔を見ると理由もなく安心することができた。嫌悪や憎しみに似た感情がそぎ落とされ、ただただ目の前の物体をどのように処理するかということのみに思考が注がれた。


「……ええ、大丈夫。できるわ」

「それはよかった! もはやソレに使い道はなかったから処理に困ってしまっていたんだ。智里が片をつけてくれるならそれに越したことはない」


 チサの手から離れて、ゆっくりと前へ。横たわるソレはチサと同じく、人の形をしている。見たところ機能は失われているようだけれど、「始末」ということはつまるところ再起不能にしろということだ。


 人型のモノを再起不能にするには——さしあたって人の弱点をついてみるのが良いだろう。


 慎重に近づいていく。不測の事態に備えてゆっくり、ゆっくりと。

 そして十分に近づいたら首だ。首を締めあげることにする。


「智里、音を立てないように。首を絞めて始末するんだ」


 先生の言葉を背中に受けながら進む。ゆっくり。ゆっくり。そしてついに両手がしっかりと届く位置に辿り着いた。

 膝をつき、狙いを定める。チサに似た華奢な首元に手をあてがい、その脈動が最も強いところを——締め付ける。


「……? …………!!」


 目を覚ましてしまったソレはジタバタともがき始める。「効いている」という確かな手ごたえと絶対に放してはいけないという思いが沸き上がり、一層強い力をかける。


 ソレの口元から、目元から。ダラダラと液体が滴り落ちる。何とかして首から手を引き離そうと、首をよじり、あたしの手を掴んでくる。


——もう少し、もう少しだ。


 そう自分に言い聞かせながら、なおも力を緩めることはしない。悶えていたソレは段々と弛緩していく。


 ようやく終わる。そう思った瞬間——ソレは抵抗することを止めた。


「……チ……。……っあ……サ……ヂ……」


 絞り出すような言葉とは裏腹に、優しく暖かな感触があたしの髪を伝った。

直後にソレは最後の涙を床に零し、再び地に伏せる。完全に動きを止めてしまい、もはや一分の力も残してはいないだろう。


……そうであるならば、床に未だ零れ続けている雫は一体何なのだろうか。


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