実験体"チサト"⑤ 前編

 目を覚まして身体を起こしたときに最初に目にしたのは、チサと先生の姿だった。


「先生、問題なさそうですよ」

「そうか、良かった。……おはよう、智里。調子はどうかな」


 先生は椅子から立ち上がり、ゆっくりとあたしの方に向かった。そして優しく髪を撫でつけると、これまでに見たことがないくらい穏やかな微笑みを見せた。

 チサはその光景を見てクスクスと笑っている。そんな二人の姿に安堵し、身体の緊張を緩める。


「問題無いわ。良好そのものです。むしろ少し調子が良いくらいよ」

「それは何よりだ」


 先生は再びベッドに寝転がるあたしにまたもや微笑んだ。先生の顔を見るとなんだかどぎまぎしてしまうので、つい窓の方向に顔を背ける。

 窓の外ではもう日が落ちており、そこで初めて今が夜であるのだということに気が付いた。

 月明かりは分厚い雲に遮られて濁ってしまい、街灯の光がより一層強く感じられる。


「先生。あたし今日はしばらく眠っていたのね」


 何の気なしに呟くと、先生は「そうなんだよ。チサのことで少し時間がかかってしまってね」と背中を向けるあたしに応えた。


「ほら、チサもこっちに来てごらん」

「はい、先生」


 背中を向けたままのあたしにチサが近づいてくる。そういえばチサになにか話さなければいけないことがあったような気がするのだけれど。


「智里、こっち向いて」


 チサに呼びかけられ、振り向く。チサは極めて自然に、違和感なく佇んでいる。


「どうしたの?」

「……大丈夫。なんでもないわ」

「変なの。何か言いたそうな顔してるけど」


 チサは不思議そうにあたしを眺めたが、それだけだった。何も問いかけず、何も追究しようとはしなかった。その姿を見て、抱いていた違和感は勘違いであるのだと確信した。


「本当になんでもないのよ。それより、今日はもう夜遅いしつまらないわ。どうせだったら明日の朝に起こしてくれれば良かったのに」


 チサを飛ばして奥に立っている先生に問いかける。


「それはすまない。早急に片づけてしまいたい実験があってね。智里に協力を頼もうと思っていたんだ」

「協力って?」

「一つは……もうクリアしていると言っていいよ、智里。そしてもう一つもほとんど問題なく遂行できるだろう」


 先生はそう言いながら机の左側にある本棚を横にずらした。隠されていた扉がその奥に見える。


「チサ、案内してやってくれ」

「わかりました。じゃあ智里、ちょっとだけ協力してね」


 チサに先導され、なんだかよくわからないままに奥の部屋へ入る。


「ここは本来壁だったところを特別に開けてもらったところでね。明かりが無いのは我慢してほしい。まあじきに慣れて見えるようになるさ」


 後ろからは先生の声が聞こえた。


「あたしは何をすればいいの?」


 暗闇に耐えかね、疑問を発する。これから自分がすることに別段不安なことはなかったけれど、自分の身体すら認識できないほどの暗闇が怖かったので何か言葉を発して自分の存在を認識したかった。


「すぐにわかる。……智里。お前の後ろにいるのは誰だ?」

「……先生……よね?」


 質問の意図を掴み切れず、たどたどしく答える。「そうだ」という返答はない。


「前にいるのは?」

「チサよ。……入った順番通りだもの」


 だんだん暗闇に目が慣れてくる。先生とチサ。二人の輪郭がわかりかけてくると同時に、姿も認識することができた。横たわっているそれは人形のようにぴくりとも動かない。


「——チサ?」


 まるで物であるかのようにぞんざいに扱われているチサの姿を捉える頃には、目はすっかり暗闇に慣れきっていた。

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