原田チサ⑤

 昨日と変わらず空は厚い雲に覆われており、朝から清々しい気分というわけにはいかなかった。両親は既に出かけているようで、家の中は空虚で、気持ちが悪いほどに静かだ。

 冷蔵庫から卵と納豆を取り出し、白飯の上で適当に混ぜ合わせて食べる。あまり美味しいとは感じないけれど、短時間で作れるし栄養もあるので良しとしていた。


 寝起きのせいか上手く頭が回らない。霞がかった思考。霧の中を当てどなく歩き、気づけば同じところをぐるぐる回っているかのような微かな焦りを感じるのは、やはり気が揉めているせいだろうか。


 鏡の前に立ち、自分の姿を眺める。「わたしは原田チサだ」 そう自分に言い聞かせるように呟いた。鏡に手を当てるとひやりと冷たい感覚があった。安堵し、そして同時にサチのことが思い浮かんだ。


 昨日見た光景は夢かそれとも幻覚か。そういう類のものだったら良いのに。外に出て歩いていても、電車に揺られながらも、その淡い期待が消えることはない。しかし恐ろしい光景というものは忘れようとすればするほど脳裏に焦げ付いてくるものである。目を閉じるたびにあの人形の姿が映し出される。鏡で見るのとは全く違った、自分の身体。ひたすらに不気味で、異様に奇妙で、逃げ出したくなるほど恐ろしかった。


 何よりも、あれは空っぽだった。——わたしと同じで。


 大学に到着しても結局自分がどうしたいのかよくわからなかった。先生を信じるべきなのか、サチに同情するべきなのか。有無を言わさず装置を破壊したり、先生を問い詰めるか。あるいは全てを投げ出して、もう研究室に行かないか。


 しかしわたしの足は自然と研究室まで身体を運んだ。逃げ出してしまうのが一番楽で、かつ安全であると頭ではわかっていても、智里おばさん譲りの好奇心が呪いのようにわたしを掴んで離さなかった。

 講義が始まる前の、誰もいないがらんどうの廊下にわたしの足音だけが響いた。


「おはようございます」


 扉を開けて中に入る。自然に、さりげなく。怪しい動作をしないよう最大限注意しながらいつも通りに挨拶をすると、先生は机の上に寝かせていた頭をゆっくりと持ち上げた。


「ん……。おはよう」

「また泊ったんですか。いくら遅刻しないとはいえ、たまには家に帰ったらどうです。実験も無事に進捗しているんだし」

「ふ。原田。昨日と違って今日はよく喋るんだな」

「……別に、普通です」


 しまった。焦りが緊張となり、額をじわりと湿らせる。わざとらしかっただろうか。


「まあそれならいいさ。お前の言う通り、全てが順調なんだからな。上手くいきすぎて怖いくらいだよ」

「それは何よりです。でも正直こっちとしては拍子抜け。サチは完璧すぎます。あれじゃあ人間のような人形というよりも、人間そのものですよ」

「それは俺の優秀さが問題なんだな」

「優秀すぎます。涙を流すロボットだなんて聞いたこともない」

「……涙?」


 先生の声色に呼応して空気が一変する。先ほどまで寝ぼけ顔だったはずの先生からは突き刺すような視線がわたしに向けられた。


「サチは涙を流したのか?」

「ど、どうしたんですか先生」


 声が上ずり、動揺していることが露ほども隠せていないことが自分でもよく分かった。


「いいから答えろ。いつだ」


 声を荒げているわけでもないのに、先生の感情が剥き出しになっていることがわかる。その雰囲気に委縮して、わたしの足が震えだす。


 どこまで本当のことを言っていいのだろうか。その答えを見つけ出すために、今までに無いほど思考が巡った。


「……訊き方を変えようか。昨日、サチと何を話した」


 気圧されて言葉を発することのできないわたしに焦れたのか、先生は続けて尋ねた。パニックに陥りかけていても、その質問に対して正直に答えるべきではないということだけがわかる。

 ごまかさないと。話題を変えないと。答える寸前、ベッドに横たわっているサチの姿が見えた。


「サチは……。わたしが昨日研究室に戻ったときに……泣いていました……」

「それで?」

「……理由を尋ねたら、寂しいからだ。って」

「……そうか。それは悪いことをしたな。他には何もなかったか」

「はい。なにも」

「そうか」


 先生がいつも通りの、ふてぶてしくのらりくらりとした様子に戻り、再び安堵する。


「それで、あの人形についてはどうなんだ」


 安堵したところに不意をつかれ、なおかつ自分にとっての急所である話題を示されたわたしが、先生の罠に引っかかってしまったことは仕方のないことだった。演技をすることも忘れて、先生の指の向く先——あの部屋が隠されている方向に振り返ってしまう。


 直後に先生の両の手がわたしの首を締めあげた。ぬるりと暖かい感触が、意識を失う前の最後の記憶だった。

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