新田ハジメ⑤ 1/3
横たえるサチをベッドに運んで一息つく。しかしいくら時間が経っても、高揚感で跳ね上がる胸の鼓動を抑えることはできなかった。
なにもかもが上手くいっている。むしろ上手くいきすぎて恐ろしいくらいだった。智里の加護だろうか、とつい非科学的な考えも浮かんだ。
しかし好事魔多しとも言うくらいだ。あまり浮かれすぎるのもよろしくないと自分で自分をいさめる。
立ち上がり、サチを見下ろす。今にも折れてしまいそうなくらい華奢な身体。吸い込まれるような黒髪。小さな瞼からは長いまつ毛が垂れている。その姿を見て、智里との出会いを思い出した。
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智里と出会ったのは俺が大学生の頃だ。当時はかなり人間不信をこじらせており、いつも一人で講義室の端っこに座っていた。
他人が猿にしか見えなかった。あるいは俺自身、少し頭の良いだけの猿であるのかもしれないけれど、とすると俺以外の存在は「頭の悪い猿」と言えるだろう。
動物が苦手だった俺はそれまでの人生、キイキイと喚く動物から常に一定の距離を置いていた。
仮に苦手でなかったとしても、一日中わけのわからない連中とつるむことなんて考えられなかった。別に世話をしてやる義理もない。
同年代に限らず教師や政治家、あるいは親ですらほぼほぼ等しく見下していた俺にとって、唯一の救いはクマのぬいぐるみただ一つだった。
彼はしゃべり散らかすこともないし、なによりただそこにいるだけだ。害もないが得もない彼を心の拠り所にしていたのは、人並みに寂しいという気持ちがあったからだろう。俺が猿に構われ続けて精神的に壊れることがなかったのは、彼という存在がいたからである。
人類すべて俺になれば良いと思ったことがないわけではなかったが、しかしそんな願いが叶ったところで救いにはならないだろう。
全員が自分と同じだなんて——つまらないじゃあないか。
だからずっと、「人間」が現れることを願っていた。しかし小学校、中学校と上がり、高校生になる頃にはそんな夢もみなくなった。
「ねえキミ。わたしとお昼ご飯食べに行こうよ」
講義室の端に寄って来た女がそんなことを言ってきた。大学は講義が終わって、一旦昼休憩に入っていた。
変なことを言う猿だな、と。そう思った。しかしながら多少の興味もあった。それは彼女がカノンの法則のごとき美しい造形をしていたからではなく、単に群れを外れている俺に話しかけることが疑問だったからだ。
「別に良いけれど。なんで俺なんだ」
「お、はじめて声聞けた。新田くん……だよね。なんか食べたいものある?」
「質問に質問で返すな」
「別に理由なんてないよ。ただなんとなく」
智里は少しむっとして答えた。いくらなんでもなんとなく疎外されている奴を誘うはずもないだろう。何か魂胆があって、それを隠している。
怒りはなかった。まあそんなところだろうさ。
「あいにくだけど嘘つきとは一緒にいたくないね」
「……結構するどいじゃん」
「もういいか」
席を立って外に出ようとする俺を、智里は妨害した。
「そんな鋭いキミには、特別に後で訳を話してあげよう! ……ってことで、ダメ?」
「どけよ。それか今、ここで訳を話せ」
流石に怒って諦めるだろうと少し語気を強めたのだけれど、意外なことに智里は話しはじめた。
「……なんとなくっていうのは本当。なんとなく、キミとわたしは似ていると思ったの。それが当たっているのか確かめたくて、話しかけました」
最後だけ丁寧語になる。それだけ切実な思いを抱いているということだろう。
「……もし似ていたら何だって言うんだ」
「満たせると思う。わたしと、キミで」
「何を」
「……渇きを」
智里の話はさっぱり要領を得なかった。とうとう俺は根負けして、昼飯くらいならば付き合ってやると返答してしまった。
この出会いが俺の人生にとって最大の転機となったことに、この時は気づくべくもなかった。
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