新田ハジメ④
「あの子ったら注文したもの飲まないで行っちゃったわ。ごめんなさいね」
「いえ、気にしないでください」
「そういえば、あの子、新田さんの講義をうけているんですよね?」
「ええ、そうです」
「たしか……専門は脳科学でしたよね」
「はい。脳の機能、とりわけ記憶について研究しています。……智里の専門と同じものを」
「そう……。あの子もその研究をしているのかしら。恥ずかしい話、娘が大学で何を学んでいるかよくわからないもので……」
「チサさんは……そうですね。熱心に私の講義をきいてくれてはいますが、研究対象であるかどうかはわかりません」
「そうですか……。あ、よかったらコレ飲んでくださいな。あの子の注文した黒糖ミルクティー」
「いえ、悪いです。それに甘いものは少し苦手で」
「あら。じゃあ頂いちゃいますね」
「…………」
「……ところで、あの子。よく似ていると思いませんか」
「智里に、でしょうか」
「そう。智里ちゃんに。あの子はこう言うと先刻みたいによく怒ってしまうのだけれど、本当にそう思うんです。よく似ている。喋り方も趣味嗜好も。まるで昔の——死んでしまった智里ちゃんが蘇ったんじゃないかっていうくらい」
「…………」
「大げさだとは思うんです。でもこれはとても大切なことだから答えてほしいの。新田さん。あなたからみても、チサは智里ちゃんによく似ているように見えますか」
「私は。……私は妻を愛しています。今までも、今もずっと。記憶の中の彼女はいつも鮮明に私の中にある。それを踏まえて誤解のないように言わせていただきます。
——似ています。とても。十年前、智里の魂が若いチサに乗り移ったと言われても差し支えないくらいだ」
「……やっぱり、そう見えますか」
「しかし、どうしてそんなことを訊くのですか」
「……チサがあなたと接点を持っているということは予想していませんでした。できるだけ自由に育って欲しいからと、進路についても特に口を挟むことはしてきませんでした。でも、もっと調べておけばよかった。あなたがいることがわかっていたらチサをそこに入れさせることはしなかったのに」
「待ってください。話がよく見えません」
「……あなたとあの子はどういう関係なんですか」
「どうって……。普通の、よくある教授と教え子ですよ」
「普通の教え子? 中学や高校じゃあるまいし、大学の教授が学生を一人一人把握するなんて普通じゃないわ」
「彼女は熱心に講義をきいてくれているんです。そりゃあ印象深くもなりますよ」
「……サチっていう子は、あの子の知り合いですか」
「そうですよ。そして私の教え子です。チサさんも、サチも。——あ、ウエイトレスさん、おかわりは結構です」
「……あの子は智里じゃない。人の魂が他の人に移るなんてありえないわ。ただよく似ているだけで別人なのよ。でもね、問題なのはやっぱりよく似ていることなの。幸運だったのよ。あなたにとってチサが脳科学に興味を持っていることは。チサが智里ちゃんによく似ていることは。そりゃあ印象深いでしょうよ、あなたにとってチサは——」
「圭子さん!」
「……っ!」
「……すみません、声を荒げてしまって。しかし圭子さん。あなたが何を心配しているのかようやくわかりました。そして……こう言ってもすんなりと信用してくれるかわからないのですが、その心配はまったくありません」
「…………」
「……智里は、死んでしまいました。それは紛れもない事実です。そして圭子さんの言う通り、智里の魂がチサさんに乗り移っただなんて、そんなことはあるはずがないのです。チサさんの魂……記憶の中に私は入っていなかったのですから」
「…………」
「記憶というのは本来曖昧なものです。しかし忘却のラインを超えた——こびりついた記憶。これによって人格は形成されるのです。チサさんはたしかに智里によく似ている。きっと同じような記憶を持っているからでしょう。しかしやはり、チサさんの人格と智里の人格は違うものなのです。……私はそう信じています」
「……よく、智里ちゃんも言ってました。記憶がどうとか人格がどうとか」
「……智里とは気が合いましたから」
「きっと、そうなんでしょうね。あなたも智里ちゃんも同じような顔をしていたもの。
……ずいぶんと長いこと話してしまってごめんなさい。そろそろ、出ましょうか。ちょうど雨も止んだみたいですし」
「……ええ、そうですね。急がないとまた降りだしそうだ」
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