原田チサ②

「チサ、あたしエーガっていうのが観てみたい」


 飲み終えた黒糖ミルクティーの中に沈んでいたタピオカを吸っていたサチが、出し抜けにそんなことを言った。サチの持つ容器のそこには大量のタピオカが積まれている。(先にドリンクを飲み干してしまったサチに「なんですぐ飲み干しちゃうんだよ、そのタピオカどうするの」と問うと、「え! これも食べるの?」と驚いていた)。


「エーガって、映画のこと? なんでまたいきなり」

「若者はエーガをよく観るらしいじゃない? 実際どんなものか気になっちゃって」


 らしい、というので気が付いた。たぶん先生がそういう「情報」を与えたのだ。


——「映画」というものがある。読みは「エーガ」であり、芝居またはノンフィクションの映像を大衆に見せるものである。観客には十代から二十代の若者が多い。


 といった具合だろう。だからサチは概念としてしか何事も知らない。

タピオカも、映画も。サチは全てを知っていて、しかし何も識らないということなのだろう。


「わかった。何が観たい?」

「何でもいいわ。あまり遅くなるのも良くないし、すぐ観れるものにしましょう」

「オッケー」


 わたしたちは渋谷の街を歩いていく。サチは群衆の中にみごとに溶け込んでいる。すれ違った人の中で誰一人、サチが人間でないことに気が付いていないだろう。

 これでも先生にサチの面倒をみるように頼まれたときは、重大な何かをやらかすのではないかと気を張っていたのだけれど、杞憂も杞憂だ。もうこれは完成しているじゃないか。拍子抜けだ。


「ふおお……。これが、エーガカン……!」


 結局大した問題もなく目的地にたどり着いたサチは、子どもみたいにはしゃいでいる。十分後に始まる映画の券を買って、客席へ。


「チサ、あたしなんだか心拍数が上がってきたわ」


 サチは興奮しながら、しかし小声で話しかけた。室内の異様な静けさに気をつかったのだろう。


「そういうの、なんていうか知ってる?」

「ええ。あたし、ワクワクしてきたわ」


 なんだよ、知ってるのか。

 画面が切り替わり、本編の上映が始まる。そういえば映画を観るのも久しぶりだ。スクリーンの光に照らされて、わたしも少しワクワクしていた。




 映画の内容は、よくあるSFといった感じだった。人間と、人間を模したアンドロイドの戦い。作中で同じ顔の二人が殺し合ったり、クローン側がオリジナル側にスパイとして潜入したりと、両サイドの視点が切り替わっていったので途中で何がなんだかわからなくなってしまった。


「なんか、よくわかんなかったね」


 エンドロールが終わって観客がまばらに立ち上がる。サチは「そうだね」と笑った。


「あたしは人間を襲ったりしないわ」


 サチは立ち上がり、ぞろぞろと帰る人の波に入っていく。はぐれないようにわたしはサチの手をつかんで歩く。人のようで人でないサチの手はやっぱり冷たかった。



 予想外に遅くなってしまったので、わたしの家に泊まらないかとサチに提案した。夕飯が遅くなってしまうだろうし。サチは喜んだけれど、その後でわかりやすいくらい落ち込んだ。


「先生が帰って来いって言うから帰るわ。ごめんね、チサ。せっかく誘ってくれたのに」


 しょぼくれるサチがいじらしくて、わたしはつい頭をなでてしまった。

 ふわふわとした手触り。


「いいよ、全然。また今度ね」

「ええ、ありがとう。チサ」


 髪をなでるわたしの手を慈しむようにサチの手が重ねられる。サチの手にわたしの温もりが伝わり、私の手は少し冷たくなってしまった。

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