本編

新田ハジメ

 幼い頃からぬいぐるみが好きだった。どれもこれも見境なくというほどではなく、ただ一つのクマの形をしたぬいぐるみにずっと話しかけていた。反対に同年代の子どもとの交流はほとんどなかったのだが、特に支障はないだろうということで親は俺のことを問題視しなかった。人と話すことが苦手な俺にとって、放任ともいえるその姿勢はむしろありがたいくらいであった。


 ぬいぐるみと人の最も大きな違いは意思を持つか否かということである。当たり前だが前者はそれを持たないし、後者に関しても言わずもがなだろう。意思とは得体の知れないものである。自分の意思はともかくとして、理解の出来ない他人の意思と関わるくらいだったら多少退屈でもぬいぐるみと過ごしている方がまだ楽だ。


 今となってはもはやおぼろげに覚えているのみだが、そのころの俺はたしかに彼と対話していた。彼に自分なりの意思を与えていたのだ。

 自分自身で想像した「意思」を持つ彼が唯一の拠り所であった。


⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷


 大学の一室、研究室の隅に置かれたベッドの上では一人の少女が眠っている。コンピュータに入っている目の前の少女に人格をインストールすることができれば、かつての俺の妄想が現実になる。

 ぬいぐるみが動き出すのだ。

 不安感と高揚感から心臓が脈打つ中、エンターキーに手をかける。

 

 インストール開始――するところで学生が一人、ドアを開けて室内に入ってきた。息が荒いところを見ると、どうやら走ってきたらしい。


「先生ってばホントずるい、今抜け駆けしようとしてましたよね!」

「原田か。別にずるいことないだろう。開発したのは俺なんだから」

「私も散々協力させられましたから! ていうかこんな大事なこと朝一番でやることないでしょう」

「ばか、最後の仕上げは朝にするものだろう。何事もそうだ。昼にするのは中途半端だし、夕方だと夕飯の準備をしなくちゃいけない」

「夜はどうなんですか」

「夜は眠いだろう」

「なんですかその変なこだわり!」


 はあ、とため息をつく原田をよそに俺はエンターキーを押しこんだ。なんてことはない。失敗することもあるのだからこういうことはさっさとやってしまった方がいいのだ。百回失敗することも千回失敗することも考えられるのだからいちいち大仰にリアクションなんてとっていられない。

 しかしながら今回に限っては隣の原田がとっているような、大仰なリアクションをとらなければならないだろう。

 先刻まで横たわっていた少女はむくりと起き上がり、第一声をあげた。


「あなたたち、だあれ? あたしお腹が空いたのだけれど」


⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷⊷


 原田が講義のために研究室を出てから一時間ほど、研究室では無言の時間が続いていた。空腹を主張した少女にはあらかじめ買っておいたおにぎりを渡した。それを食べ終えてからはきょろきょろと辺りを見渡すばかりである。

 年の頃は原田と同程度。傍から見たら生きているようにしか思えないであろう少女の身体はぶかぶかのパーカーとスウェットに包まれている。少女がベッドから起きてすぐ、「どうして何も着せてあげないんですか!」と原田に非難されたのでとりあえず俺の着替えをあてがったのだ。


「ねえ、センセイ」


 少女は尋ねた。


「あたし、眠たいのだけれど。ここで寝ても良いかしら」

「ああ、問題ない」


 それを聞き少女は再び眠りについた。ここまでの動作はあらかじめ決めておいた通りだった。問題がなければしばらく経った後、食べたものをエネルギーに変えて、更に自ら得た情報を整理した上で目を覚ますだろう。そうしたら第二段階通過だ。


 立ち上がり、少女に近づく。呼吸もせず、脈動もない。しかし先ほどまでは動いていた。物を欲した。言葉を発した。その一つ一つの行動は、まさしく俺が長年追い求めていたことに他ならなかった。

 少女は俺の考える通りに動き、そして話した。


 しばらくして原田が研究室に戻り、またしばらくして少女が目を覚ましたとき、日は既に傾きかけていた。


「あ、起きた」


 少女がとてとてと原田のもとに歩み寄る。やはり老けた中年より同世代の方が少女にとって親しみやすいということなのだろうか。それとも単に、原田を近くで観察するためなのだろうか。


「おーよしよし。 先生、そういえばこの子の名前は何ていうんですか?」

「そういえば決めてないな」


 どうしようかと二人で考える。


「あたし、チサがいいわ」


 意外なことに最初に提案したのは少女であった。


「チサって、わたしの名前じゃん! だめだめ、わかりづらいから」

「じゃあ逆にしたらいいわ」

「サチ、か。まあ、それならいいか」


 二人の間で話が進んでいく。若干取り残されている感じはあるが、まあ名前なんて何でも良いだろう。


「それでいいだろう。よろしく、サチ」


 サチは満足そうにうなずいた。まるで赤ちゃんみたいだなと少し変な気分になった。

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