幸福と、崩落

 ——二十二年前。


 ゾグダール邸ではベンと夫人、そして息子のジュゼロッタと妻のミレネが和気藹々あいあいと食卓を囲んでいた。


「父上、母上。お話があるのですが」


 朝食がひと段落し、メイド達が片付けを始めた時だった。ジュゼロッタが両親に声をかけると、途端に隣に座っていたミレネが頬を赤く染める。


「どうした?」

「実は……ミレネが子を授かりました」

「まあ! なんて素晴らしい日なのでしょう!!」


 夫人は感極まって涙を流し、その肩をベンが優しく抱きしめる。ジュゼロッタとミレネの若夫婦は互いに微笑み合ってから、ミレネのお腹に視線を落とした。まだわずかな膨らみしかないが、そこには確かに愛しい我が子が宿っている。


 幸せだった。

 数分後、予期せぬ来訪者が押し入ってくるまでは。



「ジュゼロッタ•ゾグダール、遺体損壊の疑いで身柄を拘束する」


 当時、王国内の治安維持を担っていた王国軍が、ジュゼロッタの両脇を抱えて屋敷から引きずり出した。


「どういうことなの? 一体何がどうなっているの??」


 息子が連行されていくのを、夫人は訳もわからず泣き叫ぶしかできなかった。ミレネは血相を変えて立ちすくみ、ベンは何かの間違いだと王国軍に食ってかかる。

 その中で、ジュゼロッタだけは抵抗する事なく王国軍に従っていた。身に覚えがある、とでもいうように。



 ——法廷では、ジュゼロッタによって行われた『巡還のウロボロス』の実験内容が、証言台に立ったふたりの男の口から告げられていた。


「——我々は、彼からの質問に答えただけです。私は神官として精霊と人間の関わりや神話に基づく魔力に関する論述を教えただけにすぎません。それに、ドヴォルは医術師として人間の体の構造について意見を述べただけ。それだけで共同研究者に名を連ねられていたとは……それに、ジュゼロッタが身元不明の遺体を用意し、錬金術を駆使して金を精製し、度重なる悍ましい実験をしていたなんて。もし知っていたならば、友人として彼を止めていました」


 ユーリウスが心痛な面持ちで述べ、その隣でドヴォルが終始俯きながらも同調するように頷いている。

 ふたりの証言に異議があるかと問われたジュゼロッタは、無言を貫いた。



「主文、ジュゼロッタ•ゾグダールを禁錮五年の刑に処す」


 判決が下ってもなお、ジュゼロッタは控訴することもなく受け入れた。同時に、魔術師界からの永久追放と、博士号の取り消し、更には出所後の妻子への接近禁止令も出された。

 裁判官から刑が言い渡されると、傍聴席にいたベンと夫人は項垂れた。そこにミレネの姿はない。犯罪者の妻というレッテルを貼られ、怒り心頭の両親が実家に連れ帰ったからだ。


 トードスカの『ザリアント監獄』に投獄されたジュゼロッタは、五年の刑期を静かに過ごした。

 出所後、彼の帰る場所などどこにもなかった。ゾグダール家はジュゼロッタを家の敷地に入れることはなく、彼は路上での生活を余儀なくされた。



 ——出所から約半年後。

 執事やメイド達にいとまを出し、夫婦ふたりで質素な生活を送っていたゾグダール夫妻のもとに、神官のユーリウスと医術師のドヴォルが訪ねてきた。


「ジュゼロッタの遺体が見つかりました。医術院に安置していますが、どうされます?」

「……そんな男は知らん。私達に息子などいない」


 名だたる魔術師を幾人も排出してきた名門ゾグダール家に泥を塗り、可愛い孫を抱くことも叶わず、魔術師達から後ろ指をさされ、惨めな生活を送らなければならなくなったのは他でもないジュゼロッタが如何わしい魔術の研究などしていたからに他ならない。

 死んだとて、ゾグダールの先祖の墓に入れることなど断じて許さない。ベンが頑なに拒絶した為に、ジュゼロッタは『124番』目の身元不明遺体として埋葬された。



 事が動いたのは、今から五年前のこと。夫人が心労で倒れ帰らぬ人となった年のことだった。

 足腰が衰え杖を使わなくては歩けなくなっていたベンは、夫人の月命日の墓参りの帰り道、石につまづいて転倒した。


 道ゆく人は、見窄らしい哀れな老人を避けるように歩いて行ってしまう。惨めで悔しくて、しょぼくれた目から涙が溢れてきてしまう。

 立ち上がる気力もなく転んだままの体勢で倒れていると、駆け寄ってくる靴音が耳にこだました。


「あの……大丈夫ですか?」


 風が吹けばかき消されてしまうほどに、か弱い女性の声だ。哀れな老人に同情してくれるのは一体どんな女性なのかと顔を見て、絶句する。

 艶のある栗色の髪は、肩上で一回くるりとカールされ、陶器のような肌と黒い瞳は大人しい印象を与える。それでいて、厚い唇と泣きぼくろからは色気すら感じる。


 彼女の黒い瞳に覚えがある。

 ジュゼロッタのそれとよく似ていた。

 か細い女性になんとか起こされベンチに腰掛ける。


「あの……失礼だがお名前は?」


 恥ずかしそうに俯きながら、女性は消え入りそうな声で名を告げた。


「ハンナ•クレメンスです」

「クレメンス……もしかして、お母様はミレネという名では?」


 ベンをはっとした顔で凝視し「何故母の名を知っているのです?」と訝しげに問いかけてくる。

 ちょっとした知り合いでとはぐらかせば、ミレネは数年前に病でこの世を去ったと、寂しそうに俯いていた。


 ようやく巡り会えた孫が、母を失った悲しみに打ちひしがれている。その悲痛を和らげてあげたかったが、貧しい暮らしを強いられている老人には出来ることなど限られていた。


「不思議ですね。あなたと話していると、どこか懐かしいように思えます」


 ふっ、と微笑んだ笑顔がたまらなく愛しくて、ベンとハンナはまた会う約束をしていた。


 ふたりは何度も、初めて会ったベンチで落ち合って他愛もない話で盛り上がった。

 近所とも友人達とも疎遠になっていた老人にとって、ハンナといる時間はかけがえのないものだった。家族で食卓を囲んでいた温かさが蘇ってくる。


 ハンナも、ベンから漂う懐かしい雰囲気に心を許し、ナージェン魔術大学校に通っていることやそこでユーリウス教授を師事していることを楽しそうに話して聞かせた。そして、自身の家族のことも。


「私の父は、生まれる前に亡くなったと聞きました。ベンさんと話していると、父親ってどっしりと構えて温かく見守ってくれる感じなんだろうなって思えて。一度でいいから、会ってみたかったな。お父さんに」


 不意に淋しそうな顔をするハンナを見ていると、胸の奥が痛む。


(娘にこんな悲しい顔をさせて、あのバカ息子)


 心の中で悪態をつきながら、それを顔に出さないように必死に取り繕った。

 

 ハンナはあまりにもベンといる時間が心地良すぎて、ついには家に行きたいと口走っていた。

 ゾグダールの廃退した家を見せたくない、と頑なに拒んでいたものの、どうしても諦められなかったハンナはベンの後をつけて屋敷に足を踏み入れたのだ。


###


「本当にいいのかい? 手入れなんてしばらくしていから」


 申し訳なさそうにしているベンの前には、ハンナとその友人である四人の男性がいた。


「お任せください! 草むしりくらいお手の物です」

「じゃあ……お言葉に甘えて……」


 荒れ放題だった裏庭で、土まみれになりながら一生懸命草むしりに勤しむ孫の顔が眩しくて、ベンはひとり幸福感に浸っていた。

 ただ、ひとつだけ懸念していたことがある。ゾグダールという苗字から、ジュゼロッタの事件のことをハンナが知ってしまったら。この幸せな時間も終わってしまうだろう。

 でも、だからといってハンナを拒むことはできなかった。その日がくるまで、愛しい孫の姿をまだ見ていたいという欲に駆られていたから。



 ——三年前の夜。寝室に戻ろうとしたベンの耳に、慌ただしいノックの音が聞こえてきた。久しく訪問者などいない為に聞き間違いかと素通りすれば、ノックをしながら聞き馴染んだ女性の声がした。


「ハンナ? こんな夜更けに——」

「お聞きしたい事があります」


 ドアを開ければ、深刻な表情で強い眼差しを向けてくる。夜も遅く、このまま帰すわけにもいかなくて部屋に通せば、単刀直入に本題に入った。


「父は……私の父はジュゼロッタ•ゾグダールですね」


 知られてしまった。幸せだった日々は全て終わりだ。いつかは、と覚悟はしていたが、いざその時を迎えると苦しくて仕方ない。


「すまない、ハンナ……隠しておくつもりは——」

「父は」


 ベンの言葉を封じ込めたハンナの声音は、普段のか弱くて儚いものではなかった。憎悪を孕ませ涙で掠れた、鬼気と胸に迫るような苦しい声。わなわなと震える唇が告げた真実に、ベンの表情が凍った。


「父は……ジュゼロッタは……殺されたんです。ユーリウスとドヴォルによって」



 ハンナが手渡したのは、ジュゼロッタからミレネに送られた何通もの手紙。路上生活をしている最中に書いたものだろう。


 そこには、ユーリウスとドヴォルは研究に深く関与していること、『巡還のウロボロス』の研究はふたりから誘われたこと、そして、ひとりで罪を被ったのは従わなければミレネと生まれてくる我が子を手にかけると脅されたことが書かれていた。


 ジュゼロッタの手紙の締めくくりには必ず、ミレネと我が子への愛の言葉がしたためられていた。


「そろそろ処分しなくてはと母のクローゼットの整理を始めた時、奥に隠し棚があることに気がついて。そこに入っていました。母は、父が手紙に記したことを信じていたようです。母が私に宛てた手紙が一番奥から出てきてそのように書いてありました……。あのふたりは裏切ったんです……父だけに全ての責任を押し付けて……何食わぬ顔で、生きているんです……」


 ハンナの黒曜石を思わせる黒目から大粒の涙が溢れて、拳を作った手の甲にボタボタと落ちていく。

 悔しくて悔しくて、父を奪った怒りを涙に込めて流し出す。愛しい孫の悲哀に満ちたその姿を見ていられずに、ベンは目を閉じる。


 例え罪を犯したとしても、ハンナにとってジュゼロッタは父親であることに変わりはない。

 ひとりだけに罪を着せ、ユーリウスとドヴォルはのうのうと生きている。ハンナに辛い思いをさせていることも知らずに。


 ベンは、彼女の涙に誓った。

 あのふたりにも、相当の罰を与えることを。



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