導く香り

 香りは記憶と深く結びつき、忘れかけていたものを呼び起こす。


 街中でふと鼻を掠めた香りが、昔思いを寄せていた人がつけていた香水であればその人を思い出さずにはいられない。

 古いクローゼットからカンファーの匂いがすれば、懐かしい祖父母の顔が目に浮かぶ。


 独特で強烈な香りであればあるほど、香りから導かれる記憶は固定されてしまう。

 似たような匂いであれば、様々な記憶が混じってしまう。

 弱く儚い匂いは、すぐにかき消されてしまうし、記憶から失われていく。


 それはエラも然りで、フリートとマクシムから香ってきたモグナから、即座に葬式を連想していた。

 だが、ゼインの鼻はモグナの香りでかき消された弱々しいを拾っていた。捜査に思い込みは禁物、モグナの香りは葬式の香りという方程式は、思い込みの産物。


 どこかで確かに嗅いだ匂い、それを探るように、徐に近づいていく。この男は、五感で感じたものを全て、違うことなく記憶に叩き込んでいる。

 隻眼の男が先に狙いを定めたのはフリートで、モグナの奥に隠れてしまった微かな香りを探した。


「ゼ、ゼインさん??」


 戸惑いの声をあげるフリートにかまうことなく、ゆっくりと体の周りを一周する。頭から徐々に足元に下がり、ブーツの先まで顔を近づけると首を捻った。


「違ぇな」


 次いでマクシムの周囲を周り始めれば、マクシムの全身からは汗がどくどくと流れ始めて恐怖で体が硬直している。

 流れ出る汗の匂いが邪魔をする。苛々したのか、背後で舌打ちをかませばマクシムの喉の奥からは「ひいっ」という情けない悲鳴があがった。


 足元へ近づいた瞬間、ゼインの鼻が探していた匂いを嗅ぎつけた。不意にブーツを左手で強引に持ち上げたせいで、マクシムの巨体がバランスを崩しかけた。


「ゼインさん、一体何をしてるんです?」


 様子をじっと眺めていたエラは、待ちきれなくなってゼインの右隣に腰掛ける。

 ゼインの左目はじっとブーツ裏を睨みつけていた。ブーツ裏の凹凸の隙間に右手の人差し指をぎこちなく差し込むと、そのまま捻り出す。

 人差し指の先にこびりついた黒茶の土をまじまじと見つめ、鼻先に持っていって匂いを嗅いだ。


「間違いねぇ。これだ」

「だから何なんです?」


 エラが小首を傾げていると、フリートもエラの隣に座り込んでゼインの人差し指についた土を眺め始めた。


「その土……もしかして」

「どこの土だ?」


 急くような口調に、フリートは即座に返答する。


「共同墓地のだと思います。昨日、墓荒らしの現場に行った時についたんじゃないかと」

「お前も一緒だったんじゃないのか? お前からは土の匂いはしなかったが」

「僕はブーツを洗って土を落としたので。マックスは洗うのを面倒くさがっていたのでそのまま残っていたんだと思います。あそこの土はかなりの粘着質で、落とすのに苦労しました。おまけに雨のせいでぬかるんでましたし」

「雨……雨で濡れた土の匂い……か」


 右手人差し指についた土を眺め、雨の匂いを記憶から呼び覚ます。ゼインがひとり納得していれば、頭上から申し訳なさそうな男の声がかかった。


「あのー。俺はいつまで片足を上げていれば……?」


 三人が話している間、ゼインの左手がブーツを持ち上げていたせいでマクシムはずっと片足を上げた状態を保っていなければならなかった。上半身は左右にぶれ、巨体を支える一本足はぷるぷると震えている。


「悪い、もういいぞ」


 ようやく両足をつけることのできたマクシムは、立ち上がって見上げてくるゼインの視線に酷く怯えて巨体を小刻みに震わせていた。


「お前がズボラな奴で助かった。おかげで少しは推理が捗る」


 守護隊として働き出してから、ゼインから初めて言われた褒め言葉、しかしズボラと言われたマクシムは少々複雑で、はにかんで笑って誤魔化した。


「ゼインさんの推理、聞かせてくださいっ。すごく気になります!」


 すっくと立ってキラキラと目を輝かせ、期待に胸を膨らましながら見つめるエラの目の前に、土のついた人差し指を突き出した。


「この匂い嗅いで何も思いださねぇのか?」


 くんくん、と小鼻をひくつかせて匂いを搾取する。念入りに嗅いで自分の記憶を呼び起こそうとして、そして、諦めた。


「わかりません!」


 清々しいほどにきっぱりと放たれた言葉に、先輩守護隊員は苦笑いを浮かべる。


「ハンナの部屋から匂ってきたモグナの香りの他に、この土の匂いが混じってた」

「そうでしたっけ?」

「見る力だけじゃなくて、少しは記憶力鍛えろ」

「善処しますっ」

「何が善処だ。本気でやれ、バカ」

「バカは余計ですっ。そんなにバカバカ言うなら、私だって言っちゃいますから!」

「あ? 何だよ」

「くんくん人の匂い嗅いでる姿、まるで犬みたいですねっ。ゼインわんこっ!」

「わ、わんこ!?」


 まさか犬呼ばわりされるとは予想だにしなかったのか、ゼインは唖然としてしまう。

 新人の女隊員相手に狼狽えているその姿は、まるで飼い主に突然怒られおろおろして威厳も何も感じられない大型犬のようで、フリートとマクシムは吹き出すのを必死で堪えていた。


「そ、それで……ハンナという方の部屋からこの土の匂いがしたというのは?」


 笑いをどうにか押し殺したフリートが問いかけると、我に返ったゼインはいつもの安易に人を寄せ付けない強面に戻っていた。


「ひとつ聞くが、共同墓地は土ではなく芝生が敷かれてるはずだが」

「墓荒らしがあったのは『名無しさんの墓』で、そこだけは芝生ではなく土が露出している場所でした」

「ハンナさんは『名無しさんの墓』に用があったんでしょうか? お墓参り、といっても、見ず知らずの名無しさんの所に行くでしょうか?」


 腕を胸の前で組んで、エラは考える仕草をする。その隣で、ゼインは脳内で思考の整理をし始めた。


(名無しの墓にわざわざ行くのは、その墓で眠っている者が何者か知っていたのか? 雨が降ったのは一昨日の夜。それ以前のトードスカの天気は晴れが続いていた。ハンナの靴に雨に濡れた土がつくには、一昨日の夜から俺達が聞き込みをしに行った昨日の午前中までの間に墓に行かなければならない。もしかすると——)


「ハンナさんが墓荒らしに関わってたりして?」


 ゼインよりも先に、エラがまさに今言おうとしていた言葉を口走った。考えを巡らせていたゼインとは違い、恐らく、いやかなりの確率で、ただそう思っただけだろう。


「でも棺に遺体が入ってたら、重さは結構ある。それを女性が持つにはかなり無理があるんじゃないか?」


 マクシムが指摘すると、エラは閃いたように目を大きく見開いた。


「共犯者がいるんですよ、きっと」

「……同じモグナの香りがしていた、あの男子学生か」


 エラがなんとなくの勘で声をかけた男子学生を、ゼインは記憶の奥から引きずりだした。エラの勘も少しは役に立つのかもしれない、今度その勘が働いた時は記憶の隅の隅に置いてやるかと心に決めた。


「モグナは葬式の時だけじゃない。死者を埋葬する時、香りを封じ込めた香り袋も一緒に棺に収められる。かなりの年月が経っても、強い香りは消えずに残っているはずだ。ハンナや男子学生から香ってきたのは葬式に焚かれたモグナではなく、棺を開けた時に香り袋から移ったものなのかもしれねえな」

「なるほど。でも、そもそも何で名無しさんの墓からご遺体を盗んだりしたんでしょう……」


 考えろ、とゼインに叱られたこともあって珍しく頭を動かす。しかし、考えれば考えるほど思考が螺旋階段を全速力で駆け降りるが如くぐるぐる回転し始め、遂には熱を帯びて顔が真っ赤になった。

 エラは、ぷしゅー、と口から息を吐き出し一旦考えるのを止め、一度視線を外して気分転換に首をくるくる回し始めた。


「それも含めて、ハンナさんとその男子学生に任意で尋問を——」

「お? あれは?」


 フリートの言葉を遮ったエラは、首を回し途中なのか斜め右を向いたまま停止している。

 エラの目には、澄み切った青空の中をたなびくおどろおどろしい黒色の煙が映っていた。

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