ゲーンズウォルガー兄妹
トードスカの南西部、巨石を積み上げて作られた空まで届くほどの真っ白で巨大な塀で囲まれている地区がある。
ここは『ザリアント監獄』と呼ばれ、ハドニオーネ王国でも凶悪な犯罪者達が収監されている。一度投獄されれば脱獄不可能の監獄だった。
今朝は、監獄中が異様なまでの静けさで支配されていた。石造の監獄には大きな窓がないために、空気の循環の為に空けられた小さな隙間から細々とした光の筋が冷たい廊下に差し込んでくるだけ。
その中を、ひとりの囚人が看守に取り囲まれ、重い足取りで歩いていた。廊下の両脇の檻からは、収監されている囚人達が視線を送っている。廊下を歩く囚人への憐れみと、明日は我が身かと恐れるように。
廊下を進み、幾つもの重たい扉を抜けた先。
円形状の広間にたどり着けば、広間を取り囲むように設置されている椅子には幾人もの見物人が一様に口を閉ざして囚人を見つめていた。
その中に、ヴァネッサの姿もあった。一際険しい顔つきで座っている。
その隣には、体格の良い男が狼にも似た鋭利な視線を囚人に向けていた。男の着ているカーキ色の軍服の胸元には、彼の功績を称えるいくつもの勲章が輝いていた。ヴァネッサと同じ暗い赤茶色の髪はオールバックに整えられて、清潔感が漂っている。
彼の名はワイアット•ゲーンズウォルガーといった。ヴァネッサの兄で、王国軍の将軍の座についている。
囚人は広間の真ん中に立っている太い木の柱に体を固定された。死刑囚であるこの囚人は、今日、刑が執行される。
囚人を確保したのは東部守護隊で、ヴァネッサは刑の執行の見届け人としてやって来た。
死刑執行の際は、囚人を確保した守護隊の隊長の他に、担当した裁判官や王国軍の将軍、守護隊総司令官、法務大臣が見届け人として立ち会うこととなっていた。
気持ちは重い。ただ、重い罪を犯した者を捕らえ、最期を見届けるまでが隊長としての任務だと、自分自身に言い聞かせてこの場にいる。
やがて松明を持った執行人達が現れると、ヴァネッサの眉間には深い皺が刻まれる。
隣にいる兄に動揺が知られぬよう、平静を装ってはいるものの、松明の火が傾けられるのと同時にきつく瞼を閉じてしまった。
ハドニオーネ王国では、死刑執行は火刑で行われる。イリュトゥナの御胸に、罪を犯した穢れた魂が還らないようにする為、火の力で魂を浄化する。
水や土、風の力でも魂は浄化される。しかし、その中でも火を使うのはこの世の全ての源である四つの元素の中で、爆発的な力を持っているからだった。
だが、あまりにも強大すぎる故に魂は炎に包まれた肉体から離れ、虚空の彼方に消えて夜闇を彷徨い歩く亡霊となってしまうと考えられている。
離れていった魂が肉体に戻る道標として、ヒービスという木の葉を遺体の近くで焚く風習がある。それは、不慮の火事でも火刑でも同じだった。
刑の執行を見届け、ザリアント監獄の外に出た瞬間。ヒービスの、ただひたすらに甘ったるい匂いをかき消すように、新鮮な空気を体いっぱい吸い込んだ。
重くなった気持ちが少しだけ和らいだのも、イリュトゥナの眠るトードスカの清らかな空気のおかげだろう。
「まだ慣れないのか」
冷徹で低い声音がヴァネッサにふりかかる。振り向き見れば、鋭い眼差しを向けてくる兄のワイアットの姿があった。
「平気です」
口から出た声はいつものヴァネッサの張りのあるものではなく、強がって吐き捨てたことでぶっきらぼうな声音になっていた。
ヴァネッサがいくら虚勢を張ったところで、幼い頃から妹を見てきた兄には通用しない。
「嫌ならやめてもいい。無理をして続けることはない」
「平気だと言っているではないですか」
ワイアットが親切心で言った言葉に、ヴァネッサは一歩も引かない。兄に対抗する姿勢は昔と変わらない。そういう妹はいつまでたっても可愛いのだ、とワイアットはつい口角が緩んでしまう。
「……ゼインは元気か」
話題を変えてやれば少しは落ち着くだろうか、と妹を気遣って出たのは、旧知の男の名前だった。
「元気ですが、それがどうかしました?」
「いや、気になっただけだ。元気なら……何よりだ」
そこで言葉が途切れてしまう。昔から口下手な男は、お前は元気でやっているのか、とか、たまの休みくらい実家に帰って来てほしい、とか、今度時間が合えば食事でもいかないか、とか、本当に言いたいことを言えずに口をもごもごさせることしかできない。
ふと、ヴァネッサの髪を結わえているアイボリーとモスグリーンの二本の紐が目に止まった。お洒落などに無頓着なヴァネッサが選ぶとは考えにくい。
(誰かからの贈り物か? まさかっ……男か、男なのか!? 恋人がいるなら兄である俺に一言あってもいいのではないか? もしかしたらまだ恋人未満の関係なのかもしれない。時が来たらきっと話してくれるはず…………気になる。気になりすぎて午後の業務に支障をきたしかねない。聞くべきか、否か。だが今は仕事中、そんな私的な事を聞くわけにも…………だがやっぱり聞——)
いつもは冷静沈着な鉄仮面の将軍の心は、ざわめいてしまっていた。
ワイアットにとって十歳も年が離れたヴァネッサは可愛い妹。まだ自分の後をくっついて歩いていた幼い頃のままでいてほしいという気持ちが席巻している。だが、同時にいつの日か愛する人と結ばれる未来を望まずにはいられない。
心の揺らぎを悟られぬよう、くるりと背を向けてしまう。
「……俺はここで失礼する」
「お気をつけて」
大きな兄の背に向かって首を垂れる。ワイアットは悶々としたまま、馬屋に待たせていた愛馬に跨って颯爽と駆けていった。
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