2章

お隣さんの秘めた力

「……んー………………むにゃ?」


 暗転していた世界からゆっくりと意識を取り戻せば、ベッドにうつ伏せで倒れていることに気づく。

 いつ眠りについたのかもどうやって部屋に着いたのかもうろ覚え、眠る、というよりむしろ失神に近い状態。夢など見る余裕すらなかった。それほどに疲れが溜まっていたのだろう。


「え、朝……?」


 寝ぼけ眼で窓に近づき、開けてみる。早朝のトードスカの空気が部屋に流れ込んで引きずっていた眠気が一気に吹き飛んでいく。


 窓からの眺めに、エラはしばし言葉を失った。


 昇り始めた朝日の柔らかな陽射しに照らされた木骨造の建物の群れ、その合間を縫うように敷かれた石畳の道の上を、朝市に出かける人達が歩いている。


 中央広間付近からは、活気のある朝市の商人の声が聞こえてくる。広間の奥、小高い丘の上に建つ王宮からは暁角が響いていた。

 うっとりとその美景に見惚れ、窓からバルコニーに降り立って体全体で風を感じた。ふと左側に視線を向けて、ぎょっとする。


 隣の部屋のバルコニーに肘をついて、右目に眼帯をした男が立っていた。袖がなく襟ぐりの深い黒い服と、下は黒いゆったりとしたズボンを履いている。全身、真っ黒だ。

 その二の腕は太くて筋肉質、所々薄らと切創の跡があった。右腕には、一段と深い傷跡が刻まれている。


「ゼインさん、おはようございますっ」


 声をかければ、肩が跳ね上がって顔を向けてくる。左目は、いつもの気怠さなど皆無で驚いて真ん丸になっていた。

 どうやら、眼帯のせいで右側の視界が悪く、エラがいることに気づかなかったらしい。


「な……隣、エラかよ」


 無精髭が目立つ口はもごもごと動き、不服の音を含ませる。


「トードスカの街って綺麗ですよね」

「……だな」

「でも、この街のどこかで罪なき人を苦しめたのに逃げのびて、のうのうと生きてる犯罪者がいるんですよね」

「ああ」

「こんなに綺麗なのに……美しい街を穢された気がします」


 独り言のように吐露された言葉は、朝の清々しい空気の中を冷たく彷徨う。

 真正面を向いてしまったゼインからは、眼帯があるおかげで、エラから見る右側の顔からは表情ひとつ読み取れない。

 

「だから俺達が穢した奴を捕まえんだよ」


 徐に開いた口から、強固な決意にも似た言葉が発せられる。


「ですねっ」

「その前に、まずはお前自身を綺麗にしろ」

「え?」


 再度向けられた右目は、エラの視線の少し上を見て鼻で笑った。


「ひっでぇ寝癖」

「ど、どこらへんが寝癖にっ?」

「鏡よく見ろ、バカ」


 そう吐き捨てると、ゼインは部屋の中へ消えていった。


「寝癖つけてるだけでなんでバカって言うかなぁ」


 エラもそそくさと戻って手鏡を見るや、左側の髪の荒波のような寝癖に驚愕すると同時に、あまりにも芸術的なうねりに感心してしまっていた。

 昨日は眠気が増して髪の毛がよく乾いていない状態で、しかも左側を下にした体勢で寝ていた為に、そこだけ変な寝癖がついてしまったようだ。

 強靭な寝癖に悪戦苦闘しながら、どうにかこうにか髪をハーフアップに結わえて誤魔化すことに成功した。


 改めて部屋に帰り、寝巻きにしていたチュニックから隊服に袖を通すと食堂に足を運んだ。


 普通ならば厨房に声をかけて朝食を皿に盛り付けてもらうのだが、この宿舎では隊員が自ら皿に盛り付けるスタイルを取っていた。これは少しでもメイド達の負担を減らそうというヴァネッサのアイディアだった。

 プレートを手に取ると、隣に人が立つ気配がする。


「おはよ、よく休めた?」


 見上げた先に、美しいプラチナブランドの髪を持った男の爽やかな笑顔があった。その横には、朝が弱いのか体に見合った大欠伸をかます大男のマクシムが立っている。


「フリートさん、マクシムさん、おはようございますっ。温泉のおかげですかね、よく眠れました!」

「トードスカの温泉は最高だからね」


 火山であるナシュメルク山の麓のトードスカは、至る所で温泉が湧き出ている。宿舎の風呂ももちろん温泉で、一日の仕事の疲れが湯に溶けて無くなりそうなほどに気持ちが良かった。


 エラはパンとミルク、豆と野菜のスープを手際良くプレートに乗せていく。


「いただきますっ!」


 厨房に向かって弾け飛ぶ笑顔で礼を述べる。洗い物をしながら楽しそうに喋りに興じているメイド達が、エラの声に気がついてぺこりと頭を下げてきた。


「そう言えば、ゼインさんは……?」


 きょろきょろ見渡しても、隻眼の男の姿は見えない。


「朝は食堂で見たことないかもしれない。なぁ、マックス?」

「う? うーん、たぶん?」

「二度寝しちゃったのかな。私、様子見てきます」


 プレートを持ったまま、ちょこちょこと狭い歩幅で食堂を横断して階段を上がっていく。アプリコットオレンジの髪が揺れる小さな背中を、フリートとマクシムは唖然として見送った。


「大丈夫かな、エラ」


 心配するフリートをよそに、マクシムは「俺は知ーらない」とプレートを持って空いている席についてしまった。



 自室の隣の部屋の前に立ち、三回律儀にノックする。気怠そうにドアが開くと、未だに袖なしの黒い服とズボン姿のゼインが姿を現した。


「良かった、二度寝してるのかと思って心配してました」

「……」


 無言の時間が数秒流れた後に、ゆっくりとドアが閉まっていく。


「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」


 閉まりかけたドアに右足を滑り込ませ、間一髪のところで完全に閉まるのを回避した。


「んだよ」


 エラの足が挟まっている故に閉じないドアの隙間から、明らかに迷惑そうな左目が覗く。


「朝食を食べようかと」

「食堂で食え」

「ゼインさんも一緒にっ」

「俺は朝は食わねえ」

「朝はちゃんと食べないと体が動かないってよく言うじゃないですか」

「俺はずっと朝は食わねえできたんだ、今更お前に何言われようと変える気はねぇよ」

「私は、ゼインさんと食べたいんです」

「……く……」


 エラに寂しそうな顔で上目遣いをされると断ることも躊躇われ、居たたまれなくなってくる。

 ゼインの力が緩んだところで扉を押し開けた。

 明らかに不機嫌な顔をしたが、エラは気にすることなく部屋に押し入る。バディとなった以上、少しでもゼインと仲を深めておきたかったからだ。


 ゼインの部屋は、お世辞にも綺麗とは程遠い。

 クローゼットは開けっ放しで、中から畳まれていない服が折り重なってぐらぐら揺れる塔を形成している。

 小さなテーブルから床にかけて羊皮紙が雪崩れ、まるで晩秋の落ち葉の山のようだ。


 ベッドの上を陣取ったエラは、プレートは羊皮紙が積まれたテーブルに置き、かまうことなくパンを一口頬張って幸せそうに咀嚼する。

 半ば苛つきを隠せないゼインが睨みつけていても全く動じない。ゼインは諦めたのかため息を吐き捨て、腕を組んで壁に背をつけてもたれかかった。


(危なっかしい奴だ。俺だから良いが、男の部屋に上がり込んでベッドに座って呑気にパン食って。下手したら襲われるぞ)


 ひとつめのパンを平らげたエラは、ふたつめを手に取るとゼインに向けて腕を伸ばした。


「ゼインさんもどうぞ? 美味しいですよっ」


 あどけない笑顔は、身の危険など微塵も感じていない。ゼインの脳内では、思考を整理する為に稼働し始めた。


(ここまで無防備なのは警戒心が皆無だからか? それとも、万が一襲われたとしてもそれを回避できる秘策でもあるのか?)


 何も答えないゼインに、エラは小首を傾げてしまっている。


「ゼインさんが食べないなら、私、食べちゃいますよ?」

「食いたきゃお前が食え」


 すると、ぱあっ、と笑顔が咲き誇り目を輝かせた。


「いいんですか? じゃあ遠慮なくっ」


 ぱくり、と大きな口を開けてパンを頬張るほんわかした笑顔からは、危機を脱する手段を持ち合わせているような雰囲気は感じられない。

 ゼインの頭の中には昨日のエラの行動が、一秒の狂いもなく流れ始める。この男、記憶力に関しては人一倍良く、一度見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、触ったものを忘れることはない。


(この余裕はどこからきている……そういえば、名前を呼べとしつこく迫ってきた時、俺はこいつを抜き去ることができなかった。あの瞬発力を可能にしてんのは何だ? それなのに、ナージェン魔術大学校の寮では簡単にこいつの口を塞げたな……逃げる素振りなんて全くなかった。何が違う、何が——そうか)


 ——目、だ。


 口を塞いだのは後ろからで、エラの視界にゼインは入っていなかった。道で見合った時は正面で、即座にゼインの行く方向を把握して回り込んだのだろう。

 更にゼインの脳裏に思い浮かべたのは、ヴァネッサの髪紐が千切れた時のことだ。

 恐らく紐が少しずつ切れていく瞬間が視界に入り、千切れることを予測して紐を買い込んだ。千切れる瞬間の僅かな紐の動きも見逃すことはなく、秒単位で予測ができたのだろう。


(こいつ、瞬間視力に長けてんのか)


 瞬間視力。

 一瞬で物事の全体像を把握し、次なる行動を即座に判断する力のことだ。違和感や異常等を一瞬のうちに感知することもできる。

 だから、例え襲われそうになったとしても相手の行動を即座に把握して、逃避行動もしくは先制攻撃を仕掛けることも可能だ。


 彼女のも、目から入ってきた情報から受けた印象をもとにした勘なのだろう。


(見切ったぞ、お前の力をな)


 片方の口角をあげて満足気に笑うゼインを、くりっと大きなオッドアイが捉えた。すると、恥ずかしそうに赤面し、パンを食べていた手を止めてもじもじしている。


「あの……ゼインさん?」

「なんだ?」

「そんなに見つめられると……恥ずかしいですっ」


 どうやら、エラの秘めた力を解明している間、片時も目を離すことなく見つめ続けていたらしい。


「あ……悪い」

「もしかして、私のこと……好きなんですか?」

「んなわけねぇだろ、自惚れんな。バカか」


 速攻で否定されたエラは、一度拗ねたように頬を膨らませる。だが、良からぬことを思い付いたのかニヤニヤと笑みを浮かべ始めた。


「そんなに必死に否定するってことは、逆に私のこと本当に好きな——」

「天と地が逆になったとしても、お前を好きになることなんて絶対にない。ありえない」

「好き、って言っても、恋人どうしの好きじゃなくて。人間としての好き、でもありえないんですか?」

「ない」


 ゼインは即答し、エラはぐうの音もでないのか口をすぼめてしまっている。


 ゼインはエラから心を閉ざすように、そっと左目を閉じた。

 人を好きになることは、一生ない。恋人でも友達でも仕事仲間でも、深い付き合いは絶対にしないと固く決めていたから。



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