三好討伐⑦ "日本の副王"の滅亡
両軍は吉野川を挟み、1里半(約6km)ほど離れて布陣した。三好軍は寺倉軍の出方を窺い、渡河しようとはしない。それは寺倉軍が水を掛けても燃え盛ると噂される"妖術"を使うのを警戒したためである。
本来ならば戯れ言だと一笑に付すところだが、既に「木津川口の戦い」で"消えない炎"が目撃されており、三好義興も信じない訳には行かなかったのだ。
「やはり同じ轍を踏むはずもないか。"鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰"だな」
そこで正吉郎は、勝瑞城の前に布陣する三好軍から吉野川を挟んで東に1里半離れた位置に寺倉軍を布陣すると、三好軍を勝瑞城から誘き寄せるため我慢比べに出たのである。
そして、膠着状態が続いた12月18日の巳の刻(午前10時)。寺倉軍が梃子でも動かないのを悟った三好義興は、痺れを切らして三好軍を勝瑞城から1里(約4km)ほど東に移動させ、吉野川を挟んで寺倉軍と対陣した。
三好義興もまさか5万もの大軍が陽動だとは思うはずもなく、徒に長く滞陣することにより厭戦気分が蔓延し、士気が低下するのを危惧したのだ。
◇◇◇
「ようやく動いたな。では順蔵、手筈どおりに動け」
「はっ」
正吉郎が植田順蔵に命じた策が炸裂したのは、両軍が対峙してから4時間が経過した未の刻(午後2時)を過ぎた頃だった。
「勝瑞城が燃えているぞぉぉー!!」
「勝瑞城が落ちたぞぉぉー!!」
三好軍の陣中に忍び込んだ志能便たちの叫び声が、三好軍の本陣の義興の耳に届いた。
耳を疑うような言葉に驚いた義興が本陣の陣幕から出て背後に目を向けると、それが真実だと信じざるを得ない光景が視界に飛び込んだ。
西の勝瑞城の方角から黒煙がもくもくと立ち上っていたのである。
勝瑞城は吉野川南岸の低湿地帯に立地する平城であるが、勝瑞の城下町は吉野川に隣接していたことから古くから水運で栄え、阿波国の政治・文化の中心地であった。
そして、蛇行する吉野川の本流や支流に囲まれた勝瑞城には、吉野川から引き込まれた水堀が城内を幾重にも囲うように張り巡らされていた。東西南北が100mほどある勝瑞城の敷地の外郭は堅固な土塁で囲まれており、漆喰を塗られた城館に火を放つのは容易ではない。
そこで正吉郎が着目したのはその水堀だった。ナパームを塗り込んだ筏を吉野川の上流から流し、城内の水堀で筏に火を付けて黒煙を上げさせ、遠目からはまるで"勝瑞城が燃えて落城した"かのように見せる。これが正吉郎が考えた策略であった。
今回の戦で相当な無理をしている三好家の懐事情は厳しく、兵糧の調達も厳しかった。村人に扮した志能便が『三好家に大恩がある』と適当な理由を付けて、勝瑞城に筏で兵糧を運び込むと、兵糧欲しさに非常に甘い判断が下され、容易に敷地内に忍び込むことができた。
兵糧を運んだ志能便はそのまま敷地内に隠れて潜伏し、順蔵からの指示を待ってナパームを塗り込んだ筏に火を付けることにまんまと成功したのだ。実際に、勝瑞城の敷地内から黒煙が立ち上る様子は、1里離れた距離から見れば勝瑞城が落城したようにしか見えなかった。
「これは罠だ! 皆の者、狼狽るではないぞ!」
義興は直感的にこれが罠だと察すると、動揺が全軍に広がる前に将兵を落ち着かせようと声を発した。しかし、本拠の勝瑞城から黒煙が上がる様を見た将兵の動揺を防ぐことはできなかった。
「今だ! 川を渡り、一気に畳み掛けるのだぁ!!」
「「「うおおおォォォォーー!!!」」」
大倉久秀の喊声が騒然とした戦場に響き渡ると、寺倉軍はすぐさま渡河を開始し、動揺して陣形が崩れた三好軍の正面や側面から怒涛の勢いで突撃を仕掛けた。
勝瑞城の落城を信じた三好軍の将兵は士気が低下し、崩れた陣形を整えようにも寺倉軍は目前に迫りつつあり、最早間に合わない。退却を命じようにも、将兵が燃え盛る勝瑞城に退却できるはずもなかった。
兵数差は戦力差そのものである。何の策も無しに倍以上の5万2千もの軍勢と力勝負すれば、2万の三好軍に勝てる術などあるはずがない。歴戦の勇将である篠原長房や安宅冬康も自ら槍を振るって奮闘するも、圧倒的な戦力差の前には焼け石に水に過ぎなかった。
「勝瑞城の戦い」が終わったのは、勝瑞城から黒煙が上ってから半刻余り経った申の刻(午後4時)の少し前であった。
ひと度陣形が崩れた三好軍は態勢を立て直せないまま寺倉軍に殲滅され、三好軍の将兵の3割以上が討死し、残りは散り散りになって逃げた。
篠原長房や一門衆の十河重存も討死した。三好家に連なる重臣もほとんどが討たれた。
ただし、安宅冬康は茫然自失した三好義興や生き残った側近らを引き連れて南に退却し、2日後に那東郡の桑野城に命辛々逃げ込んだ。
だが、寺倉軍の追撃の手は緩まない。翌日、義興は堅城とは言えない桑野城を捨て、さらに南に撤退すると、負傷した家臣は逃避行の途中で次々と命を落としていった。
3日後、阿波国の南端である海部郡の海部城に義興が入った時には、手勢はわずか5百ほどにまで減っていた。全力を投じた戦いで大敗を喫した三好家に、寺倉家と戦う力は最早残ってはいなかった。
◇◇◇
阿波国・海部城。
義興が海部城に入ってから2日後、3隻の南蛮船が沖に姿を現し、程なくして海部城は南蛮船の艦砲射撃の餌食と化した。
海部城城主の海部左近将監友光は「勝瑞城の戦い」で討死し、嫡男の海部義清が家督を継いでいたが、海部城の守備兵はわずかであり、南蛮船に対抗できるはずもなかった。
せめてもの"武士の情け"か、城下町は砲撃されず、海部城の建つ小高い山腹だけが砲撃されたが、それでも義興や将兵が戦意を喪失するには十分であり、やがて城下町に寺倉軍の追手が到着した。
「最早降伏する他あるまい。あれほどの南蛮船に対抗する術はない」
一時は父・三好長慶が「日本の副王」と呼ばれ、天下を治める寸前まで登り詰めた三好家が、義興の一代で呆気なく凋落したのだ。"降伏"という言葉を絞り出した義興は比類なき屈辱感を味わっていた。
「已むを得ませぬな。ならば某が使者に赴きまする」
「……頼んだぞ」
義興は伏目がちに安宅冬康に告げた。
◇◇◇
安宅冬康の必死な抗弁により三好家は大名としては滅んだが、東土佐の安芸郡を安堵され、御家存続が叶った。安芸郡を安堵された理由は、阿波では三好家の影響力が強すぎ、一揆の恐れなど今後の寺倉家の統治に悪影響が懸念されたためである。
ただし、降伏の条件は三好義興が切腹し、嫡男の孫次郎(三好義資)が当主となることであった。
「申し訳ございませぬ。某が不甲斐ないばかりに筑前守様に腹を召させる破目となり、冥府で兄上(長慶)に詫びるため某もすぐに後を追いまする」
冬康は自分が力不足でなければ義興を死なせずに済んだとの後悔の念が強く、自らも責任を負う決意を固めていた。
「いや、それには及ばぬ。叔父上には幼い孫次郎を支えてもらわねばならぬ。私はこの期に及んで命を惜しむつもりなどない。土佐で御家存続を許されただけでも僥倖であろう」
「ですが!」
「叔父上、これまでよく私を支えてくれたな。礼を申すぞ」
「筑前守様。う、うっ」
俯いた冬康の目から溢れた涙が床を濡らす。己の無力さと主君との永遠の別れ。様々な感情が去来し、冬康は嗚咽を漏らすばかりであった。
「孫次郎を頼むぞ」
毅然とした口調で冬康に後事を託した義興は安堵感からか、目尻に涙を浮かべた。
「はっ、必ずや孫次郎様を立派な当主にして見せまする」
義興は冬康と別れの盃を交わした後、冬康の介錯によって果てた。
「日本の副王」として畿内で圧倒的な権勢を誇った戦国大名としての三好家は、今ここに滅びの日を迎えたのである。
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