関東大連合と信長の軍師

相模国・小田原城。


梅雨も明けた7月中旬、小田原城は賑やかな蝉の鳴き声と共に盛夏の熱気に包まれていた。


小田原城が落城した後、既に降伏した北条家は甲斐国の山梨郡と八代郡に国替えとなり、織田家は相模国の内、相模川以西の足柄上郡と足柄下郡、餘綾郡、大住郡、愛甲郡、津久井郡の西相模を制圧していた。


長期に亘る籠城から2ヶ月が過ぎて、それまでの緊迫していた空気も胡散霧消し、小田原城下は穏やかな日常に戻っていた。


ただし、それは西相模だけである。北条家の織田家への臣従を良しとしない北条家の残党は、主家の意向に従わずに逃亡し、玉縄城の北条綱成や鉢形城の藤田氏邦らと共に東相模や南武蔵を実効支配し、織田家に徹底抗戦する構えを見せていたのだ。


しかし、残党とは言え、所詮は大名にも満たない小勢力に過ぎない。織田信長は虱潰しに残党狩りをするため、秋の収穫後には相模川以東の高座郡、鎌倉郡、三浦郡へ侵攻する腹積もりであった。


そうした状況の小田原城内では、信長が戦後処理や領民の慰撫など西相模の統治に忙しく勤しんでいると、忙しなく廊下を軋ませる足音が近づいてきた。


「尾張守様! 火急の報せにございまする!」


穏やかな空気に似つかわしくない切迫した声色に、政務を執る信長が僅かながら身を強張らせたのも束の間、重臣の村井貞勝が急ぎ足で居室へ入ってくる。


織田家中で最も行政手腕に長けた文官である村井貞勝は、常日頃から理性的な男である。その貞勝が慌てる異様な事態に、信長は怪訝そうに目を細めるしかない。


「……何事だ、吉兵衛」


信長の額からは汗が滲み出ながらも、平静を装って応対する。


「はっ、申し訳ございませぬ。……」


貞勝は憤懣遣る方ないといった表情を浮かべつつ、信長に伝える言葉を模索するかのように口籠っていた。


(間違いなく悪い報せだな。余程のことがあったに違いない)


そして、信長の悪い予感は的中する。


「……畏れながら申し上げます。北武蔵の上杉領の国人どもが一斉に上杉家から離反し、蜂起した模様にございまする」


「なっ、何だと! ……出羽守はおるか!」


「はっ、ここに」


信長が呼ぶ声に、庭先に音もなく風魔小太郎の姿が現れる。


「出羽守。今の話、存じておるか?」


「先ほど配下の者から報せが届いたところによれば、どうやら古河公方の足利右兵衛佐が関東中の諸勢力に決起を促す書状を送りつけたようにございます。その結果、竹中領の上野を除く関東のほとんどの大名や国人衆が煽動され、古河公方に合力する模様にございまする」


古河公方が関東の諸勢力を糾合して"六雄"に歯向かうなど、信長は予想だにしておらず、正に寝耳に水だった。


「何故古河公方が"六雄"に楯突く」


そもそも古河公方の足利義氏は北条家の傀儡だった。先代の父・足利晴氏が「川越城の戦い」で北条家に大敗した後、義氏は伯父の北条氏康に古河公方に担ぎ上げられるも、古河公方家代々の古河城でなく、関宿城に軟禁された。


しかし、北条家の庇護下にあった義氏は、対立する関東管領の上杉家から古河公方として認められず、上杉家は異母兄の足利藤氏を古河公方に推した。そのため、2年前に足利藤氏が死亡し、後ろ盾だった北条家が織田家に臣従した今でも、義氏は存在感の薄い古河公方だったのだ。


「おそらくは北条の残党による仕業かと存じます。傀儡と言えども古河公方になれたのは、北条の後ろ盾によるものでございます故、恩義があるのやもしれませぬ。一方、古河公方と認めなかった上杉家には恨みを抱いており、盟友である織田家と竹中家も敵視しているかと存じまする」


風魔小太郎は物憂げに義氏の半生を回想しつつ告げた。


「ふん。疾うに足利幕府が滅んだ今でも、古河公方を名乗るとは片腹痛いわ。北条の残党は古河公方を騙して、神輿に担ぎ上げるつもりか。くっ、しぶとい奴らだ」


東相模や南武蔵に逃げた北条家の残党は織田家に徹底抗戦の姿勢を明らかにしており、その中には、史実で白河結城家や蘆名家との外交交渉に携わった北条氏繁もいた。巧言令色な氏繁は言葉巧みに古河公方を唆し、反織田家の旗頭として利用したのである。


「如何いたしますか?」


「古河公方に与する者は全て根切りにしてやろう。吉兵衛、古河公方は如何ほどの勢力だ?」


「"関東八屋形"に加え、安房の里見と北武蔵の国人衆、さらに北条の残党も合わせると、優に200万石を超える勢力になるかと存じまする」


"関東八屋形"とは鎌倉時代以来の名家で、宇都宮家、小田家、小山家、佐竹家、千葉家、那須家、結城家と既に断絶した長沼家の8家のことである。戦国時代以前は鎌倉公方も安易に介入できないほど強力な支配権を有していたが、北条家の台頭により衰退の一途を辿っていた。


関東ではこれらの勢力が群雄割拠し、合従連衡を繰り返しながら領地争いを続けていたが、北条家が織田家に降る事態に古河公方からの決起要請を受け、"関東大連合"が結成されたのだった。


「くっ、未だ足利の呪いは解けておらなんだか。だが、もはや古き権威など打ち壊すのみだ」


人一倍プライドの高い信長は独力で鎮圧しようと、修羅のような険しい表情で呟いた。


しかし、現状の織田家の石高は150万石余りである。たとえ烏合の衆であっても200万石以上の"関東大連合"を打倒するのは厳しい。むしろ敗れる可能性もあり得るのだ。


(やはり200万石を超える勢力が相手となると、織田家だけでは骨が折れるか。半兵衛と合力するしかあるまい)


上杉家から譲り受けるはずだった北武蔵が離反したことにより、信長は半兵衛が共闘の要請を必ず受けると確信していた。両家が協力すれば300万石を超えるため、石高でも"関東大連合"よりも優位に立ち、竹中家も北関東の制圧が容易になるからだ。


「吉兵衛、急ぎ軍議を開くぞ。だが、その前に猿と弟の2人を呼べ」


「はっ」


村井貞勝は急ぎ足で退出していった。




◇◇◇




「尾張守様。木下藤吉郎と小一郎、参上いたしました」


「うむ。……木下小一郎長秀。貴様を俺の軍師に取り立てる。良いな」


入室していきなりの軍師任命の言葉に、藤吉郎と小一郎は当然ながら驚いた。


「「軍師ですと!?」」


信長はかねてから自分を補佐する軍師がいないことに不満を募らせていた。以前に正吉郎から『良く探せば織田家中にも軍師となり得る人材がいるはず』と言われて以来、家中を隈なく探したが、軍師に相応しい人材は見つからなかった。


困り果てた信長は、正吉郎に小田原征伐の援軍の対価として相良油田の採掘権の半分を譲るとの手紙を送った際に、恥を忍んで『軍師に誰が相応しいと思うか?』と訊ねたのである。そして、正吉郎の返書にあったのは、意外にも木下藤吉郎の弟・小一郎の名前だった。


「そんな、滅相もございませぬ。私に軍師が務まるはずなどございませぬ!」


「何を申すか。陪臣から直臣となれる出世の機会なのだぞ。尾張守様は笠懸山築城でのお前の働きぶりを認めてくださったのだ。お前は槍働きが苦手な分、その賢い知恵で尾張守様をお助けするのだ。小一郎、もっと自信を持て。良いな」


誠実な人柄の木下小一郎は対人能力に優れ、相手の心の機微を読むのが得意であり、それは正に戦略的思考の基礎となる軍師の資質であった。


「兄者ぁ。……はい。兵法は存じませぬが、精一杯務めさせていただきまする」


藤吉郎の叱咤激励に、小一郎は勇気を奮い起こして軍師となる覚悟を決めた。


「うむ。兵法など、『孫子』を読めば良かろう。では、これから軍議を開く故、小一郎も猿と共に出るのだ。参るぞ」


素っ気ない様子で告げると、信長は目に気合を込めながら力強く立ち上がった。

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