三好討伐① 淡路制圧

淡路国は律令国では壱岐国、対馬国、隠岐国、佐渡国と同じく島国であり、平安時代までは若狭国や志摩国と並んで、朝廷の内膳司に贄と呼ばれる海産物を献納する"御食国"として朝廷にとっても重要な国であった。


また、北端を明石海峡、南東端を紀淡海峡、南西端を鳴門海峡に囲まれた淡路島は、畿内の玄関口である和泉灘を守る要衝の地でもある。そのため、淡路水軍は室町幕府から海賊掃討の役目を委任され、和泉灘や瀬戸内海における海上交易路の安全確保も担っていた。


その淡路水軍を率いるのは安宅家であり、元は紀伊日置浦の熊野水軍の一族であったが、幕府に海賊討伐を命じられて淡路に進出して土豪化したのが始まりである。淡路安宅家として熊野本家から独立して以降は、淡路島の各所に城を築いて勢力を拡大した。


したがって、淡路の主戦力は淡路水軍であり、安宅家の当主は淡路水軍の棟梁でもあった。現当主は三好長慶の三弟で安宅家に養子に入った安宅冬康だが、史実では精神を病んだ長兄・三好長慶に逆心を疑われて自害させられている。


しかし、今世では早死を免れた冬康は、畿内を追われた三好家当主の三好義興を支えるため、一門衆として本貫地の阿波に常駐して三好家をまとめ上げる立場にあり、淡路には不在を余儀なくされた。そのため、19歳の嫡男・安宅甚太郎信康が居城の洲本城にて淡路の統治を代行することとなる。


信康は若年のため経験不足は否めなかったが、安宅秀興を始めとする「安宅八家衆」や、安宅秀益、賀集盛政、梶原秀景、加藤主殿助、菅達長、島田時儀、田村経春、武田久忠、野口則守、蟇浦常利、船越景直、柳沢直孝といった「淡路十人衆」の補佐もあり、淡路水軍の長として四国防衛の最前線である淡路を堅実に治めていた。





◇◇◇





永禄11年(1568年)5月、築港工事に2年近くを要した津守湊がついに完成に至り、6月末までに堺の商人を全て津守湊へ強制的に移住させた。


7月からは空き家と化した堺を軍港化する整備工事が始まり、その完了を待たずして8月1日、寺倉水軍は淡路島に向けて堺を出港する。


8月2日に明石海峡を守る岩屋城、4日に紀淡海峡を守る由良城を立て続けに陥落させると、8月6日の朝、寺倉水軍の南蛮船3隻が洲本城の眼下の沖合いに姿を現した。


――ドガーン、ドガーン、ドガーン


突如として南蛮船の大砲が轟音を響かせると、海岸に面した三熊山に築かれた洲本城は瞬く間に艦砲射撃の餌食となっていく。


家臣の薦めがあり、安宅信康だけは「安宅八家衆」の手によって阿波に逃された。しかし、石高が6万石に過ぎない淡路国の兵力では碌な抵抗もできるはずもなく、淡路国は寺倉軍の圧倒的な軍事力に屈し、僅か半月で制圧されるに至った。


降伏した淡路水軍の生き残りは寺倉水軍の傘下に組み込まれる形となり、1ヶ月後に竣工する寺倉水軍の南蛮船4番艦となる「駿麗丸」の運用を任されるのであった。




◇◇◇





俺は淡路国を制圧すると、伊予国の河野家を支援する毛利家を牽制する目的もあり、三好家の本拠である阿波国を後回しにして、讃岐国東端の引田に上陸し、四国侵攻を開始した。


讃岐国は一応は三好家の重臣である十河家の支配下にあるが、十河家当主の十河重存は国人勢力を完全に服従させるには至ってはいない。端的に言えば、弱冠20歳の重存は讃岐一国を治める器量に欠けていたのだ。


三好長慶の四弟・十河一存の嫡男だった十河重存は、史実では三好義興の早逝によって十河家から三好長慶の養子になった三好家最後の当主・三好義継と同一人物だ。だが、三好義興が健在のため、7年前に父・一存が暗殺されると、重存は幼くして十河家の家督を継いだのだ。


その結果、十河家の支配が弱まり、三好家の衰退によって「細川四天王」と呼ばれる国人領主たちの間で俄かに独立への気運が高まることになった。


主だったところで東讃岐では、東讃岐守護代で雨滝城の安富家と、安富家を凌ぐ勢威を誇った勝賀城の香西家が二大勢力となっており、西讃岐においては西讃岐守護代で天霧城の香川家が大半を支配している。


そんな群雄割拠する讃岐国の支配を三好家が維持し、畿内と淡路を失って阿波・讃岐の2国と東土佐に閉塞した三好家を支えているのは、紛れもなく重臣の篠原長房の力によるところが大きい。


三好長慶の次弟・三好実休の重臣だった篠原長房は、実休の死後は実休の遺児・長治を後見し、阿波や讃岐の軍勢を率いる際には総大将を務めるなど、三好家中で最も政治・軍事の両面に通じ、三好家を実質的に差配するほどの権力を保持していた。


史実では5年後に篠原長房が後見する三好長治に討たれることにより、三好家の讃岐支配が大きく揺らぐことになるが、史実と違うのは三好長慶の嫡男で現当主の三好義興と、長慶の三弟・安宅冬康が健在である点だ。


史実では5年前に黄疸を患って早逝している三好義興だが、今世で義興が発病しなかったのは、史実よりも早く六角家が滅亡したために三好家の地位が確固たるものとなり、病因となるような重圧が減少した為なのか。真実は定かではないが、俺の存在が少なからず影響しているのは間違いないだろう。


三好義興は決して暗愚ではない。いやむしろ父・長慶に似て合理的な判断力を有し、教養も武勇も長慶に比肩するほどだと思われる。その証拠に三好三人衆の死後、実権を取り戻した義興は精力的に領地経営をこなしており、その義興を支えているのが安宅冬康と篠原長房の2人なのだ。


讃岐侵攻に当たって、俺は「細川四天王」の中で最も苦しい立場にある安富家に調略を仕掛けることにした。東讃岐では香西家の力が安富家を凌いでおり、安富家は東讃岐守護代とは名ばかりとなっている。


安富家は三好家重臣で十河家嫡流の植田家や寒川家に挟まれる形で圧迫を受け、寒川家とは幾度となく抗争が続いている。一方で、東讃岐守護代の肩書は非常に大きい。安富家を臣従させれば、他の国人勢力が戦わずして寺倉家の軍門に下ることも期待できるのだ。


同じ理由から西讃岐守護代の香川家の調略も考えたが、史実で当主の香川之景は細川家から三好家に乗り換えた後に毛利家の支援を受けて独立を堅持し、長宗我部家が台頭すると今度は織田家に接近するという日和見主義で信用ならないため、調略は見送った。


俺は最古参の重臣である初田秀勝の次男・初田六郎右衛門勝顕を、安富家当主・安富盛定の妹に婿入りさせ、勝顕に家督を継がせることにより御家存続を認めることを条件として、安富家に臣従するように交渉した。


初田秀勝は還暦を間近に控えており、家督は嫡男の初田勝政が継ぐ予定だが、今年30歳を迎えた次男の勝顕は独身だ。初田家は箕田家と並ぶ譜代家臣の家柄で、俺の祖父の妹が嫁いでいる親族衆であり、勝顕は絶対に裏切らないと信頼できる男だ。


安富家は東讃岐守護代という家格のプライドもあり、生半可な条件では靡かないだろうと考えた。俺は寺倉家の親族衆を婿入りさせることで安富家を厚遇する姿勢を示したのに加えて、讃岐を平定した暁には安富家を讃岐国代官に任じると約束した。


誠意を見せた甲斐もあって、9月に入ってすぐに安富盛定は寺倉家に臣従すると決断する。すると、安富家が降ったことを知って、東讃岐で安富家の領地に接する寒川家と植田家も、慌てて寺倉家に臣従してきた。


だが、この事態に危機感を覚えた東讃岐で最大勢力の香西家は西讃岐の香川家と手を結び、三好家に助力を願い出た。当然ながら三好軍はこの要請に応じると、西から香西・香川連合軍が、南から三好軍が攻め入る形で寺倉軍を挟撃する姿勢を見せた。


9月中旬、俺はこれを迎撃すべく、西と南に軍勢を差し向けたのだった。

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