石山合戦④ 木津川口の戦い

和泉灘・木津川口。


――カツン、カツン、カン、カツン、カン、カツン


毛利水軍が投擲した焙烙玉は「カツン」という"甲高い異様な音"を耳に鳴らすと、真っ逆さまに海に落下し、海面に水飛沫を起こすだけであった。


何が原因なのか、焙烙玉や焙烙火矢は燃えるどころか撥ね返されて海の底へ沈んでいくのだ。焙烙玉を投擲し、南蛮船の炎上を確認した後、すぐに退避するつもりの毛利水軍の将兵は、得意の戦法が全く通用せず、皆一様に呆然とする他なかった。


「おい、焙烙玉が当たっても火が燃えないぞ! 一体どうなってやがるんだ!?」


これまで焙烙玉が通じなかった戦いなど一度たりともなく、毛利水軍の将兵が呆然となってしまうのも無理はなかった。初めて遭遇する予想外の事態に、乃美宗勝や村上武吉といった大将級の武将たちも唖然として固まっていた。


一体、なぜ焙烙玉や焙烙火矢が撥ね返されたのか? それは正吉郎が南蛮船に火計対策を施したからである。


史実の1576年に起きた「第一次木津川口の戦い」では、安宅船を中核とする九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍の前に壊滅的な大敗北を喫したが、これは毛利水軍の火を用いた術中にまんまと嵌ってしまったためであった。そして、織田信長は巨大な"鉄甲船"を建造させると、2年後の「第二次木津川口の戦い」では毛利水軍の火攻めを退けて勝利を手にしたのである。


そして、長島一向一揆を鎮圧した後、いずれ近い内に石山本願寺との決戦を行う覚悟を固めた正吉郎には、"史実"という教科書があった。石山本願寺に兵糧攻めをすれば、毛利水軍が援軍に出てくると予想し、史実の「第一次木津川口の戦い」と同じ轍を踏むことなく、「第二次木津川口の戦い」と同様に火攻めに対する備えをしようと考えたのである。


とは言っても、一から鉄甲船を造れば鉄は高価なために費用が嵩む上に、建造に多大な時間を要して毛利水軍との海戦に間に合わなくなる恐れが大きかった。そこで、一月前に石山本願寺が毛利家に使者を送ったのを知ると、正吉郎は小浜景隆に命じて完成間近の船も合わせた南蛮船3隻に火計対策を施させたのである。


その火計対策とは高価な鉄の代わりに、適度な展延性に低い融点と流動性を持つ青銅を薄い青銅板に加工し、南蛮船の船体や甲板を覆うように貼り付けさせ、鉄甲船ならぬ"青銅甲船"を造ったのである。


寺倉家はこれまで灰吹法によって粗銅から金銀を抽出していたが、治田銀山や佐渡金山の発見によって、手間もかかる上に西国では既に広まりつつある灰吹法に頼る必要性は低下しつつあった。しかし、東国には未だに灰吹法は普及していないため、寺倉家は今でも東国から得た粗銅を使って灰吹法を続けており、精錬後の銅に錫を数%混ぜた青銅は安価で容易く用意でき、長島一向一揆の後から領内の鍛冶職人に命じて、青銅板を大量に作らせていたのだ。


青銅は鉄よりも加工しやすい上に、焙烙玉の火の温度では融けないほどには火に強いため、火計対策には十分以上に有効であり、緑青で錆びる前は金色や白銀に輝く金属である。そのため、真新しい青銅板に覆われた"青銅甲船"3隻は、太陽光を浴びて眩いくらいに光り輝き、神々しい威容を見せて海上に威風堂々と鎮座していたのである。


「何なんだ。あの船は化け物か? どうやれば勝てるんだ?」


そして、その"青銅甲船"は毛利水軍の誇る焙烙玉を一切寄せつけず、その光り輝く威容も相まって、呆然とする毛利水軍の将兵の心に畏怖を与えつつあった。


そんな隙を見逃す寺倉水軍ではない。


「皆の者、今だ! "なぱーむ"を投げろ!」


寺倉水軍を率いる小浜真宗は毛利水軍の将兵の戦意が落ちたのを見て取ると、配下の兵たちにナパーム弾を投げるよう号令を飛ばした。


すると、今度は"青銅甲船"の周囲に群がっていた無数の小早の頭上でナパーム弾が炸裂し、正しく敵のお株を奪うような"火攻め返し"によって毛利水軍の船をたちまち炎上させていく。


「お、おい。船の火が消えないぞ! 一体どうなってるんだ!」


「ぎゃあぁぁ、熱い!! 誰か助けてくれぇぇ!!!」


ナパームの火が身体に付着し、動揺した毛利水軍の兵は条件反射的にすぐさま海へ飛び込むが、毎度の如く火が消えることはない。「山崎の戦い」や「長島一向一揆」でのナパーム弾の効果は絶大であり、既にその情報は噂として毛利水軍の耳にも届いていた。


ただ、ナパーム弾の詳細については情報を得られておらず、水を掛けても決して消えない"地獄の炎"という不明確な情報であり、毛利水軍の将兵はどうせ誇張された眉唾な話であろうと受け止めていたのが専らの実状であった。


しかし、実際に今、目の前でその"地獄の炎"を浴びて初めて、ようやく消えない"地獄の炎"の真実を理解した毛利水軍の将兵だったが、時既に遅しであった。


南蛮船の周囲に群がった無数の小早に乗った将兵は、次々と火だるまとなって焼け死ぬ者が大半であった。運の良い者は炎上する船から海に飛び込み、他の船に乗り移って難を逃れる者もいたが、それはごく僅かであった。


毛利水軍の船が続々と火に包まれていったことで、自慢の機動力は既に何処かへ消え失せていた。焦るがままに一早く南蛮船から離れようと躍起になる毛利水軍の小早は、既に半ばパニック状態に陥っており、南蛮船の周囲に極端に密集していたのが裏目に出て、至る所で船同士が衝突を引き起こしていた。その衝突によって炎が燃え移った船も多くあり、怒号と悲鳴が飛び交う阿鼻叫喚の炎熱地獄が海の上で繰り広げられていた。


「兵部丞殿、何が起きているのだ! 何ゆえ、あの南蛮船は燃えないのだ? 我らの方が火攻めに遭っているというのか?」


「どうやらそのようだ。まさか"地獄の炎"という噂は本当だったようだな」


そんな南蛮船の周囲で自軍の船団が火の海と化している信じられない光景を、村上武吉と乃美宗勝は少し離れた関船の船上で呆然と見ていたその時であった。


「あの関船を狙え。撃てぇぇーい!」


――ドガーーン! ドガーーン!


新造された南蛮船の3番艦「輝燦丸」艦長の堀内氏虎の号令と共に、2門の大砲が火を吹いたかと思うと、その砲弾2発がほぼ同時に二人の乗る関船を直撃した。二人は避ける間もなく文字どおり木っ端微塵になって吹き飛ぶと船諸共、海の藻屑となって海の底に沈んでいった。


総大将の乃美宗勝と副将の村上武吉が同じ関船に乗船していたのは危機管理上、重大なミスであり、油断以外の何物でもなかった。二人が同時に討ち死する事態となると、指揮命令系統が失われて他の関船に乗る諸将も統一性のない行動を取り始め、さらに混乱状態に拍車を掛けてしまう。


最終的には他の関船も的が大きい故に艦砲射撃の餌食となるか、火の海に巻き込まれるかして海に沈む結果になり、毛利水軍の武将は輸送隊の将を除いて全員が討死し、魚の餌と化したのである。


こうして、わずか一刻(2時間)にも満たない海戦の結果、毛利水軍の500隻の船団は、武将の乗る関船はすべて沈没し、無数の小早も難を逃れたわずか50隻ほどを残して壊滅し、後方の兵糧輸送の200隻と共に、西の安芸へと尻尾を巻いて一目散に逃走した。


この「木津川口の戦い」は寺倉水軍の圧勝に終わり、寺倉水軍は「日ノ本最強の水軍」の名を不動のものとしただけでなく、期待していた毛利家からの兵糧の補給を受けられなかった石山本願寺は、大きな精神的ダメージを受けると共に、徐々に食料不足による困窮に追い込まれていくことになるのであった。

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