永禄の変②

義輝は僅かな兵が城門付近で時間を稼ぐ間、近くに控えていた主従30人と別れの盃を交わした。


義輝はその一人ひとりの顔を瞼に焼き付け、自らの力不足を心の中で嘆く。


(かような力無き将軍によくぞ仕えてくれた。思えばお主たちには迷惑を掛けてばかりであったな。此度の三好の反逆も、元はと言えば我が立場もわきまえずに傍若無人に振る舞ったことが原因であろう。三好の傀儡としておとなしく生きていくのが我に許された唯一の道だったのであろうな。我はお主たちを巻き添えにしてしまったうえに、一度として報いてやることができなんだ)


しかし、ここで弱みを見せるようなことを言っては将軍失格だ。情けないが最後まで毅然とした態度を貫かなければ、冥府で目の前の家臣らに顔向けできない。


「皆、この我に仕えてくれたこと、本当にありがたく嬉しく思うぞ。来世で会うたならば、また我に仕えて欲しい。よろしく頼む」


そう言って義輝は側近たちに頭を下げた。武家の棟梁たる足利将軍家の当主が家臣に頭を下げて感謝の気持ちを表してくれたことに、側近たちは驚くと共に、溢れ出す涙を堪えることができなかった。


「某は、来世でも必ずや公方様にお仕えいたしまする」


近侍の一人が声を上げたのを契機に、「某も」と次々に賛同していく。「我ながらいい家臣を持ったものだ」と義輝は胸を熱くした。


「さて、ではこうしてはおられぬな。我も刀を持って戦おうぞ」


義輝はそう言って近侍が捧げてきた薙刀を手にとり、迫り来る敵に備えると、さらにはここで使わずにいつ使うのだと言わんばかりに、足利家伝家の宝刀である「大典太光世」「鬼丸国綱」「大包平」「三日月宗近」「童子切安綱」「九字兼定」など、数々の秘蔵の名刀を鞘から抜き、それらを全て畳に突き差した。


そして、僅かな時を経て三好の兵が謁見の間に雪崩れ込んできた。目の前の側近たちは、「公方様に危害は加えさせぬ」と一気呵成に刀や槍を振り回し、三好兵を次々と討ち取っていった。


さして時間もかからずに、真っ赤な血飛沫が壮麗な絵が描かれた襖を、天井を、畳を隙間なく染め上げていった。その凄惨な光景を目にしても、義輝はただ悠然とした態度で薙刀を構えて立っていた。


いくら側近たちが奮戦しようとも、所詮は多勢に無勢。一千とも一万とも知れぬ大軍を相手に為す術はない。今は謁見の間という大勢が戦うには極めて戦い辛い狭い場所で戦えているため、辛うじて持ち堪えているが、側近たちの士気の高い状態もいつまで持続できるか分からない。いくら斬り殺そうとも、敵は無数にいるのだ。いずれは疲れ果てて力尽きてしまうことだろう。


義輝は目を閉じて、側近たちの裂帛の気合いの声や刃が肉を断つ音、そして兵の悲鳴や迸る鮮血の音を耳の奥に刻み付けながら、その時を待った。


そして、ついに側近たちの守りは崩れる。側近たち30名は多くの三好兵を血祭りに上げたが、次々と迫り来る敵によって一人、また一人と討ち破られていった。


未だ抵抗を続けている側近たちは既に10人を割り、三好兵と干戈を交える甲高い音が鼓膜を響かせる。


次の瞬間、義輝の視野が背後まで見えるほどに大きく広がり、目の前の敵の動きが緩やかになった。五感が極限まで研ぎ澄まされ、自分だけが思い通りに動ける世界。そんな風に思えるほどだった。


義輝は重い甲冑など身に付けなかったため、畳を盾がわりに立てて三好兵と交戦した。塚原卜伝から"一の太刀"の奥義を授かった義輝は、「剣豪将軍」の名に相応しく突出した剣捌きを見せ、同時に襲い掛かろうとした3人の兵を瞬く間に葬り去った。


愛用の薙刀が敵を貫いて抜く暇が無くなると、義輝は畳に突き差していた数々の名刀を抜いては、燃え上がる闘志と共に敵を葬り去っていく。


義輝は、身が朽ち果てるまで力の続く限り刀を振るうことを止めない、という不撓不屈の意志を以って、ただひたすら無心で鬼神のごとく刀を振るっていった。


しかし、その壮絶とも言える激闘も三刻を過ぎると、もはや周りの側近たちは全員が倒れて息絶えていた。既に謁見の間の襖や天井は血が付いていない部分を探すのが難しいほど真っ赤に染まり、床は側近たちや三好兵の流血により辺り一面、血の海となっていた。


既に100人以上の三好兵を討ち取った義輝であったが、それでもなお鉛のように重くなった足を、流血に塗れた床をぴちゃと鳴らしながら一歩前に出し、最後の一本となった名刀「鬼丸国綱」を畳から抜き取った。


前と左右から一斉に義輝に斬りかかろうとする3つの影が薄っすらと視界に映った。しかし、体力の限界を超えて精魂尽き果てた義輝は、辛うじて動く左手に最後の力を込めると、血塗れの畳を自らに被せるように立てた。


三好兵はその畳ごと義輝を押し潰すように圧し掛かって義輝の動きを封じると、畳の上から刀で義輝を差し貫いた。兵の一人が被さった畳を乱暴に蹴り飛ばすと、3人が功を争って勢いよく義輝の身体に斬りつけ、返り血で真っ赤に染まっていた義輝の服をさらに色濃く染めた。


室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝は呻き声を上げる余裕もなく、静かに絶命した。


「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」


二条御所は既に酉の刻を迎え、まるで義輝の辞世の句を知っているかのように、沈む夕日を見送るように鳴くカラスの悲しげな声が延々と響き渡ったのであった。





◇◇◇





将軍・足利義輝の死の翌日。


義輝討死の凶報が畿内に飛び交う直前、将軍家の慣例に従って幼い頃から仏門に入り、相国寺の塔頭・鹿苑院の院主を務めていた義輝の三弟・足利周暠は、僅かな小姓と共に鹿苑院を出て、従兄である関白・近衛前久の屋敷へと向かっていた。


しかし、これは偽りの手紙で誘き出された罠であった。周暠が義輝の弟という立場である以上は、必ずや兄・義輝の仇である三好家に敵対してくることのは明白であり、三好三人衆は先手を打って周暠を抹殺することにし、家臣の平田和泉守に周暠の暗殺を命じたのだ。


周暠は輿に乗って移動する最中に草むらに潜んでいた平田和泉守らの兵の襲撃を受け、斬殺される。だが、これは「野盗による強盗殺害事件」として世間に公表されることになるのだった。




◇◇◇




大和国・興福寺。


一方、弟・周暠の暗殺と時を同じくして、義輝の次弟で興福寺・一乗院門跡である足利覚慶、史実で後の第15代将軍となる足利義昭も、その立場を危険視されて三好三人衆によって捕縛され、興福寺内に幽閉・監視されていた。


正吉郎はこの興福寺に1年前から志能便衆の甚八を小僧に仕立てて潜り込ませていた。


そして、将軍・足利義輝が暗殺される事態となった場合には、速やかに次弟の覚慶を闇に葬り去るよう植田順蔵に命じていたのである。


史実で覚慶は足利幕府の権威の復活を目論んで、自分を上洛させて将軍の地位に押し上げた恩人であるはずの織田信長に対して、あろうことか織田領周辺の大名に信長討伐を命じて信長包囲網の形成を画策している。


今後、寺倉家が畿内に進出する事態となった場合に、同じ状況が寺倉家に降り掛からないとは限らない。いや、むしろ勢力を拡大し、相対的に足利幕府の権威を弱体化させる寺倉家に対して、覚慶が史実と同様に疎ましく思い、排除を画策する可能性は極めて高い。


正吉郎の唯一の目標は日ノ本を平定し、平穏と安寧をもたらすことであり、義輝の弟で次期将軍候補である覚慶が生きていることは、正吉郎の目標達成の大きな障壁になるのは間違いない。そうであれば、正吉郎は必要とあらば旧体制の打破も厭うつもりはない。


もし目標達成のためにどうしても将軍を擁することが必要となれば、足利一門の中で「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われた格式を持つ今川家の当主の今川氏真を、「保護した」という名目で神輿に担いで京を占領することだってできるのだ。


植田順蔵から暗殺実行の命令を受けた甚八は、監禁された覚慶の食事に無味無臭の毒を仕込み、その夜に毒殺とは気づかれぬまま、覚慶は眠るように絶命したという。


こうして第12代将軍・足利義晴の子である3人の兄弟は、僅か4日の内に全員が命を落とすこととなった。


覚慶は三好三人衆の手によって興福寺に幽閉されていたことから、その死は当然のように「三好三人衆による暗殺」として畿内に広く伝わることとなるのであった。



◇◇◇



「くそっ、一体、誰が覚慶様を殺したのだ。あわよくば傀儡の将軍に仕立て上げようと考えていたものを!」


「我らが覚慶様を傀儡の将軍にするのを阻止したいと考えるのは、やはり松永弾正の仕業ではないか?大和の興福寺は奴の庭であろう?」


怒りで唸る三好釣竿斎に対して、岩成友通が告げる。


「どのみち覚慶様は公方様の仇である我らを許しはせぬし、我らに担ぎ上げられるのを良しとはしなかったであろうよ。こうなっては、やはり平島公方の義親様を立てるしかないであろうのう」


三人衆のリーダー格の三好長逸が意見をまとめると、120年ほど昔に赤松満祐が第6代将軍・足利義教を暗殺した「嘉吉の乱」以来の「将軍殺し」を独断専行した三好三人衆は、史実で第14代将軍となる足利義親を擁立し、足利幕府の実権の掌握を狙うこととなる。


しかし、これに立ちはだかったのが三好家当主・三好義興の後見役の松永久秀である。暴走を続ける三好三人衆は、大和守護の地位と所領を剥奪されて久秀に対し深い恨みを持つ筒井藤政(後の筒井順慶)と結託し、主君である三好義興を擁して反松永久秀の動きを活発化させることになる。かくして三好家中を二分する内乱が幕を開け、畿内は再び動乱を迎えることとなるのであった。

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