伊勢平定と家督相続

7月30日、寺倉軍はついに難攻不落であった大河内城を開城させた。


だが、北畠具房が切腹した今、一日も早く伊勢支配を正当化して伊勢国内の安定化を図らなければならない。桑名郡の長島には願証寺率いる一向門徒がおり、いつ一揆を起こすか分からない今、奴らに攻め込む隙を与える訳にはいかないのだ。


俺は統麟城で留守居役を任せていた弟・嵯治郎に至急、大河内城に来るよう早馬を送った。具房と交わした約定のとおり、嵯治郎を具房の9歳の妹・茅夜姫の入婿として北畠家に送り込み、北畠家の家督を継がせて当主に据えるためである。


一方、その間にも寺倉軍は北畠の参陣命令に従わず、大河内城が落ちてもなお日和見に徹していた一部の国人領主を攻め、次々と降伏あるいは滅亡に追い込んだ。


8月7日には、北畠家が掌握していた雲出川以南の一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡の南伊勢5郡20万石を制圧し、桑名郡を除く伊勢国を完全に平定すると、寺倉の領地は105万石となった。


「ようやくここまで来たか」


俺は100万石という大台を迎えたことへの実感を噛み締め、これまでの道のりを感慨深く振り返る。まなじりが熱を持っていたが、それを鎮めるように小さく息を吐いた。そして俺の独り言に反応したのか、光秀が俺の目をじっと見据えて涙を浮かべていた。


「正吉郎様、ついにやりなさりましたな」


7年前までは5千石の弱小国人にすぎなかった寺倉家が、ついに100万石の大大名にまで伸し上がったのだ。光秀ら重臣たちも感無量のようで、口々に祝福の言葉を贈ってくれた。


「だが、まだまだこれからだ。『天下泰平、君臣豊楽』の志を果たすには、これからも皆の助力が必要だ。今後も皆の活躍を期待しているぞ!」


だが、この先の日本平定までの道程は遠く険しい。ここで気を抜いている訳にはいかない。俺は今一度気を引き締めると、目の前で感慨に浸る家臣らを鼓舞するように真面目な口調で告げた。口許が少しだけ緩んでいたのが自分でも分かったが、今日ばかりは許されるだろう。


「「「ははっ」」」


寺倉家は今ようやくスタートラインに立っただけだ。100万石を超えたとは言えども、160万石以上の三好家とは、まだ肩を並べるまでには至っていないのだ。近い将来には三好との対決が待っている。三好も100万石となった寺倉に対して、今後は対決の色を濃くしてくるはずだ。これまで以上に気を引き締めて掛からなければならないな。




◇◇◇




寺倉軍が伊勢国を平定し、嵯治郎が大河内城に到着すると、大安の8月10日、嵯治郎と茅夜姫の婚礼の儀が執り行われる運びとなった。


本来ならば前当主の具房と嵯治郎との間で家督相続の儀を行ってから切腹する流れが理想なのだが、嵯治郎が伊勢に不在で到着に時間を要することもあり、已む無く家督相続の儀を行わずに先に具房を切腹させ、大河内城を開城させて飢えに苦しむ城兵や領民を救済することとなった。


それによく考えれば、俺だって父上が謀殺されて家督相続の儀なんてやっていないのだ。まあ、高々5千石の弱小国人領主の寺倉家で代々、家督相続の儀なんて行われていたとも思えないのだが。


だが、名門の北畠家となると事情は全く異なってくるらしい。もちろん過去にも当主の討死により正式な家督相続の儀が行われなかった前例はあったそうで、その場合は後日、吉日を選んで家督相続の儀が執り行われていたと、北畠家重臣の鳥屋尾満栄から丁寧な説明を受けた。


そうであれば、北畠家当主の不在期間を徒に長引かせるのは、伊勢を統治する上で絶対に避けるべきである。嵯治郎が大河内城に到着した翌日は大安でもあり、急遽、茅夜姫との婚礼の儀を執り行うことにすると、その後に続けて家督相続の儀を執り行った。


寺倉嵯治郎惟蹊は名を北畠嵯治郎惟蹊と改め、正式に北畠家当主を継ぎ、名実ともに伊勢国主の座に就いたのであった。


こうして北畠家は寺倉家に従属して分家という形に収まったが、正妻として北畠の血族である茅夜姫を迎え入れたことにより、北畠の分家や家臣、国人領主からは表立った反発や批判は見られない。


むしろ嵯治郎の誠実で穏やかな性格が気に入られたのか、茅夜姫が嵯治郎と仲睦まじく話をする様子を見て、北畠の家臣たちにも嵯治郎の当主就任を歓迎する空気さえ漂っていた。具房と幼い弟を自害させるのは俺自身苦渋の決断であったが、何とか円満な形で収めることができて、俺は内心でホッと安堵していた。


それと、今後の嵯治郎の伊勢統治に当たっては、本拠となる伊勢国司の城館を安濃郡の安濃津に新たに築いて、本拠を移転するつもりである。


理由としては、伊勢国は南北に細長く、中伊勢にある安濃津がちょうど中間に位置するのと、伊賀から伊賀街道、尾張から伊勢街道が通じている交通の要所であるという地理的な要因がある。伊賀に危機が迫った際に迅速な救援を送ることができるという点でも、位置的に重要な役割を担う拠点であるのだ。


さらには、安濃津が港湾都市で平安時代からの伊勢国の経済の中心地であったことも理由の一つだ。安濃津は京にも程近く、東国への玄関口ともなったことから、博多や堺と並んで「日本三津」に数えられたほど栄えた湾港都市だったのだ。


"だった"と過去形なのは、65年ほど前の「明応の大地震」による津波で、安濃津は壊滅的な被害を受けて廃れてしまったからだ。今はある程度は津波の被害から復興したものの、安濃津に往時の隆盛はなく、伊勢国の湊町の中でも伊勢神宮の海の玄関口である大湊や東海道の宿場町である桑名の後塵を拝している状況だ。


安濃津は寺倉家にとって統驎城から最も近い太平洋岸の港となる。そこで、伊勢国司の本拠を安濃津に移すのを機に、安濃津の城下町と港湾を再整備し、太平洋側の海運と伊賀街道、伊勢街道の物流を繋ぎ、さらには日本海側の敦賀と流通を結べば、伊勢国の更なる繁栄が期待できるはずだと目論んでいる訳だ。


一方、伊勢国の国主は北畠家のままではあるが、領内統治では「四公六民」と税率が低く、善政を敷くことで評判の高い寺倉家が実質的に統治することになったことを、伊勢の領民は総じて快く受け入れてくれたようだ。


決してこれまでの北畠家の政が悪かった訳ではない。むしろ北畠具教は大河内城に集まった義勇兵や大勢の領民の姿を見ても分かるように、偉大な当主であった父・晴具の遺志を継いで善政を行い、民から遍く慕われた当主だったと言えるだろう。


惜しむらくは剣豪と呼ばれた北畠具教とは、一度手合わせをしたかったものだが、こればかりは仕方がない。俺は嵯治郎が継いだ北畠家と伊勢国をさらに繁栄させるべく精進していかなければならないと、改めて心に誓ったのであった。

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