比叡山焼き討ち
永禄4年5月下旬。
三好長慶は南近江の志賀郡へと侵攻し、大津を瞬く間に押さえると、志賀郡南部の大半を制圧するに至った。
ーー延暦寺領を除いて。
そう、志賀郡には比叡山があるのだ。三好軍は比叡山延暦寺と日吉大社の門前町・坂本を包囲していた。
そして長慶は、比叡山に対して坂本の町から退去し、町を明け渡すよう使者を送ったが、当然のように比叡山側は反抗の姿勢を見せる。
“坂本の町は畏れ多くも伝教大師様以来の天台宗総本山の門前町である。攻めよせようなどとは罰当たりなこと。すぐに兵を引くべし”
と取り合おうとはしなかった。
長慶は比叡山が要求を受け入れないことはわかっていた。それもそうだろう。この時代の寺社勢力は現代からは考えられないほどの力を持っており、民衆の多くが神仏の存在を心から信じていたのだから。
特に、ここ比叡山延暦寺は広大な寺領や経済力、朝廷との結びつきに加えて多くの僧兵を抱えており、大名と比べても遜色ない程の勢力を誇っていた。だからこそこうして大きな顔が出来るのである。比叡山側は徹底的な強硬姿勢を示しており、間も無く両者は決裂し戦が始まった。
坂本の町は穴太衆が築いた石垣で周囲を囲まれており、僧兵による坂本の町は抵抗は強固であった。
長慶は遠い目をして眼上の比叡山を見つめながら、一向に降伏しようとしない僧兵に痺れを切らしつつあった。
ーー坂本の町を焼き払う。
自らの身を焦がしかねない、悪鬼羅刹と後世で指を刺されかねない手段が頭に浮かんだことに身震いし、一度はその考えを振り払うように首を振った。
しかし、長慶の中で深く根を張る、僧侶や僧兵への深い恨みの根源は、底なし沼の如く深かった。その因縁は長慶が10歳の時まで遡る。
当時の三好家の当主・三好元長は、細川晴元の重臣で、細川家で起こった内乱で晴元の仇敵・細川高国を滅ぼした功労者であった。その結果三好家の力は次第に増大していき、ついには阿波国だけでなく都のある山城国へ影響を及ぼすほどの力を持つほどになっていた。
細川晴元は強大化する三好家を恐れ、一向一揆を扇動して元長を殺害したのだ。その当時、長慶は阿波におり難を逃れたようだが、この事件によって長慶の中に僧侶や僧兵に対する深い遺恨が生まれたのである。
七日経っても町衆は降伏しようとはせず、ついに長慶の切歯扼腕の感情は頂点に達した。
「坂本の町を神聖なる炎で焼き払って浄化すべし!腐った破戒坊主共を成敗せよ!!!」
長慶は意を決して坂本の町へと火を放った。
延暦寺の門前町である坂本に火を放つなど、高を括って予想もしていなかった僧侶や僧兵たちはその油断によって煙に巻かれ、火に焼かれ、一部は日吉大社や比叡山に逃亡していった。
翌朝、坂本の町は焼け野原と化していた。それに長慶は感情を昂らせることもなく、静かに比叡山へと視線を移す。
長慶は比叡山へと使者を送った。
「これ以上の抵抗はもはや無用である。これ以上抵抗するのなら容赦なくこの比叡山を焼き討ちする」
使者の伝言に怒り狂った僧侶たちは、勢いのまま使者を刀で斬りつけ亡き者にした。
「この比叡山に火を放つとはまさに第六天魔王の所業である。三好長慶めに仏罰を与えよ!」
延暦寺の僧侶の意思は一致し、徹底抗戦に出る姿勢を明らかにした。
坂本の町から命からがら逃げ出してきた者の心は恐怖で満ちていたが、その他の者にはまさか本気で比叡山に火を放つことはないだろうと安座している者もいた。
「比叡山は使者を殺し、我らに対し徹底的に対抗する模様にございます。如何なさいますか」
「比叡山に火を放て」
「それはいけませぬ!比叡山は古来より神山として崇められており、攻め込めば忽ち仏罰が下りまするぞ!」
「ふん、腐りきった比叡山など、燃やし尽くして浄化すべきだ。奴らは坊主だというのに戦に手を出し、酒を飲み、獣肉を喰らい、女色に溺れて腐りきっているではないか!仏に仕える者の風上にも置けぬ腐敗した存在だ。これを放置しておけば、日ノ本まで腐りきってしまう。違うか?」
「……」
重臣・伊沢大和守は何も言えなかった。腐りきっているという事実は誰もが知るところであり、ただ目を背けていただけだったからだ。
比叡山の僧は門前町の坂本にたむろし、女色を漁り、遊興費に困って料米や布施などをくすね、賄賂を貪り、あこぎな高利貸をやり、果てには恐喝や暴力、借金の形として人身売買まで行っていたのだ。
「我が父上を殺したのは坊主共である。奴らは私を“第六天魔王”などと罵っているようだが、奴らの方が余程罪深いではないか。地獄に落ちるべきは糞坊主共である。違うか?」
「ふふふ、立派なお言葉にございまする。この弾正、修理大夫様に賛同致しますぞ」
悪い顔で二人の顔を見守っていた松永久秀が口を出す。久秀は保守的な長慶にしてはなんと強気な、と驚きつつも、邪悪な笑みが止まらなかった。
「弾正殿!」
「落ち着きなされ、大和守殿。腐った坊主は成敗すべきにござる。これ以上放置すれば、我ら武家にとっての障害であり続けますぞ。それに、60年前には管領の細川九郎様が比叡山に火を放っておりまする。その細川家の家臣である我ら三好が火を放てど、その前例を出せば言い逃れができるでしょう」
1499年に半将軍とあだ名された細川政元が比叡山焼き討ちを行っていた。その家臣である長慶が同じことをしても言い逃れができるというわけなのだ。
「くっ……」
長慶が悪名を被ることはなんとしても避けたいと考えていた大和守だったが、久秀の言葉によって言い包められてしまった。
長慶は小さく頷いた後、意を決して声を張り上げる。
「他に反対する者はおらぬな。では、明日比叡山焼き討ちを行う!」
そして一度坂本の町に火を放った長慶は躊躇うことなく日吉大社にも火を放ち比叡山を牽制したが、比叡山に全く怯む気配はなかった。比叡山を取り囲み山を焼き討ちし、延暦寺の伽藍、堂塔はことごとく炎上していった。
「ま、まさか本当に火を放つとは……。この第六天魔王が!地獄に落ちよ!!!」
延暦寺の僧侶は驚き、長慶の所業に腰を抜かせていた。比叡山に火を放つわけがないと高をくくっていた者ほど、その衝撃は大きかった。
それからはまさに地獄絵図だった。比叡山は一昼夜燃え続け、その光景は京の都の民の目に焼き付いていた。京の北東の鬼門を守護する比叡山が、夜空を煌々と照らして燃えるのが克明に見えたことで、民は仏罰を恐れて「南無妙法蓮華経」と手を合わせて一晩中祈りを捧げ続けたのだという。
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