関東管領

長い冬が明け、3月になった。雪が降る日は殆どなくなり、徐々に春の陽気を感じられ始めている。


俺は新しい農業として綿花を栽培することにした。木綿は非常に価値が高く、綿織物はイギリスの産業革命を大きく推し進めた原動力ともなっている。


綿花はいずれ大きな需要を生むことになることは確実。徐々に広まっており、大坂では綿織物の問屋が成立したようだが、その知名度はまだまだ低い。そもそも木綿自体が多く栽培されているわけではなく、流通も限られているのだという。


綿花は奈良時代に三河に漂着したインド人が種をもたらしたのだといい、今現在では畿内と三河、伊勢などのごく一部地域のみで栽培されている。干鰯などの魚肥を必要とするものの、琵琶湖の小魚でも十分だろう。


織田家は西三河一帯を掌握している。綿花の種を信長に頼めば送ってもらえるだろう。


江戸時代には綿織物は米と並んで経済を支えていた商品作物だ。流通網の発達した寺倉で木綿の衣服を作りたいと考えている。


俺は織田家に使いを送り、綿花の種を分けてもらえるよう頼み込むことにしたのだった。





◇◇◇





3月も下旬に差し掛かり、積もった雪が溶けつつあった。そしてこの日、近江を代表する大名家となった浅井と寺倉の婚儀が執り行われた。


浅井家当主・浅井新九郎長政と、寺倉家当主・寺倉正吉郎掃部助蹊政が妹・阿幸姫の婚姻同盟である。近江国はこの婚姻に沸き、小谷城城下には阿幸姫の姿を一目見ようと集まる野次馬が集っていた。


勿論警備は厳重で、近づけるはずもないが、民衆がそれほど注目しているということを俺はこの目で感じ取っていた。


以前、浅井家は寺倉家にとって“仇”であった。父を失ったことに対する悲しみと遣る瀬無さを俺は一度たりとも忘れたことはなかった。だが、政秀の暗殺を手向けた六角承禎はもうこの世にはいない。既に家臣となった浅井巖應に対する恨みなど一切残っていない。むしろ寺倉家でどう見られるか予想はできていたはずなのに、それを顧みず俺の家臣になった。


最初は家臣の半分は仇を見るように、中には明確な恨みを声高に叫ぶ者もいた。贖罪のために来たのだと、批判する者だっていた。しかし、巖應はそれを払拭するように一心不乱に尽くした。罪を消すことなどできない。罪を償うのではなく、受け入れたのだ。


その真摯な姿を見た寺倉家の人間から、巖應はいつしか尊敬を集めるまでになった。


今は寺倉家に無くてはならない存在だ。迷わずそう言い切れる。


浅井家は今、因縁を超えて大切な同盟者となった。心のどこにも浅井家に対する恨みは残っていない。むしろ感謝すらしているくらいだ。浅井がいなければ六角の脅威が今も存在しただろう。


両家の婚儀は絢爛たるものだった。昨年の戦で財政は芳しくはないだろう。寺倉家は金がある。そのため戦で財政が圧迫される心配は殆ど無かったが、浅井家のこの婚礼も武家の意地というものだろう。両家の婚姻同盟は畿内でも注目されるところだ。ここで惜しんでいては武家の名に傷がつくようなもの。そのように考えたに違いない。


長政は愛妻家で子煩悩ということが後世にも伝わっている。必ず阿幸を大事にしてくれることだろう。




◇◇◇




「長尾弾正少弼景虎様が、山内上杉家より関東管領を相続、上杉政虎と名を改めたとのことにございます」


閏3月16日。長尾景虎が上杉憲政の養子に入り山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領職を相続した。


長尾家は越後守護の上杉家を補佐する守護代だった。越後守護の上杉家は山内上杉家とは血統が近しく、山内上杉家を継いだことで、関東管領になる以外にも越後守護としての地位を継承できる権利を得た。


政虎は三月から関東出兵を行なっており、関東管領だった上杉憲政を擁し、10万の兵で小田原城を包囲するまでに至っている。


今川が勢力を大きく後退させているとはいえ、依然三国同盟は有効だ。その結果、政虎は背後を牽制される形となり、武田の川中島での海津城の建設を許してしまった。結局一ヶ月に渡る包囲も実らず、退却を余儀なくされた。


政虎はその間に関東管領を継いだ。就任の許可は将軍・足利義輝から直接貰ったという。


「上杉も戦続きだな。兵の数も段違いだから、かなり財政は苦しいだろう。関東管領職への就任と山内上杉家の家督を継いだ祝いの品として米も送ろうか」


「承知いたしました」


政虎は義のために兵を出すが、これまでは略奪した作物を越後に持ち帰るというのと、地元の領民を捕え奴隷商人に売り渡し利益を得るということを平然と行っていた。時代柄仕方ないとはいえ、これは正直俺も認められなかった。


だが、二年前たまたま寺倉領を訪ねた政虎に俺は思いをぶつけた。


ーー奪うことが必要のない、豊かな国を作るには奪うための戦をやめることが必要だ


と。


この日ノ本の民全てが豊かな生活を送り、笑顔が絶えない世の中を作りたい。


そんな机上の空論とも言える俺の言葉に、政虎は賛同し、そんな世を見てみたいと言ってくれた。


俺の言葉が影響したのかは分からないが、それ以降政虎は米を奪い、民を奴隷にすることをきっぱりやめたのだという。


“上杉政虎は信用できる男だ”


俺は率直にそう感じた。だが奪うことをやめたということは、その分越後の民に労苦を強いていることだろう。


火の車状態の上杉家へ少しでも手助けができればという一心だった。


「十兵衛、上杉に使いを送るのなら、もう一つ頼みたい」


「何なりと」


「“善光寺の目薬”を弾正少弼殿に入手してほしいと頼んでくれ」


「善光寺の目薬、ですか?」


「ああ、その目薬を使えば五郎左衛門殿の目が少しだが見えるようになるかもしれぬ」


光秀の目に一瞬の光明が宿った気がした。そして一歩俺の方へと近づいて口を開く。


「そ、それは真にございますか?!」


「あくまで可能性だ。効かないかもしれぬ」


大きすぎる期待はさせてはいけない。善光寺で作られている目薬は勢源の病である“白内障”に効果があるとされているらしい。政虎ならおそらく分かるだろう。


効き目があるかどうかは全く見当もつかないが、目が少しでも元に戻れば喜ばしい限りだ。


「文を認めて祝いの品と共に送りまする」


光秀はすでにいつもの真面目な顔に戻っていた。だが、その腰は浮きかけており、勢源への強い思いが伺える。勢源と光秀は越前にいるとき親しい間柄だったらしいが、急に目が見えなくなったというのがよほどショックだったのだろうな。


数日後、祝いの品と大量の米を文と共に上杉家に向けて送った。


今年は第四次川中島の戦いが起こる。少しでも役立てれば良いのだが。





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