寺倉郷の戦い② 潰走と悪夢
六角義治と平井定武が推察したとおり、砦は見張りの目的だけであり、砦に控えていた志能便は六角軍の姿が見えると、すぐさま本陣へと姿を消した。
正面から戦ったところで動員兵力が400程度の寺倉家ではとてもではないが、2千の六角軍に太刀打ちなどできない。被害を最小限に抑えるために正吉郎は砦には死ぬのが明らかな無駄な守備兵を置かなかったのだ。
そして、砦が焼かれてから10分後、狭い街道を長い隊列で行軍する六角軍を山上で見下ろす大倉久秀の姿があった。
「今だ! やれ!」
久秀の号令が飛ぶと突然、山の斜面から小石の雨が六角軍の前方の隊列を襲った。
「「ぎゃぁぁー!、痛い!」」
前の隊列が混乱して歩みを止めたので当然、後ろの隊列も立ち止まざるを得ない。すると、今度は反対側の山の斜面からも後ろの隊列に小石が無数に降り注ぎ始めた。
「「痛い! 痛い! 助けてくれぇー!!」」
ここまで来れば、これが自然の落石などではなく、投石攻撃なのは明らかである。降り注ぐ小石は直径4cmほどで頭や顔にさえ当たらなければ、大きな怪我にはならない程度だったが、石礫の雨と言えるほど余りにも多くの石が降り注ぎ、避けることは困難であった。
「拙い。立ち止まるな! 前に走るのだ! 急げ!」
投石は軍勢のような大きな的に当てるだけならば大した技術は要らず、武器を振り回すことに不慣れな女子供にとっては、小石を掻き集めて投げるだけの、誰にでもできる原始的な攻撃方法である。
総動員された非戦闘員である寺倉郷の領民の女子供や老人ではあったが、ただ石を投げている訳ではない。平時の農作業によって筋力も精強である上、志能便によって冬の間に訓練され、一人前の印地打ちと言っていいほど投石の威力も申し分なかった。
そんな2千人余りの彼らが1人当たり100個ほどの小石を必死になって投げるのだ。合計20万以上の投石は石礫の絨毯攻撃となって、六角軍を瞬く間に一網打尽にしていく。
投石に巻き込まれた六角の将兵たちは、突然の出来事に隊列を乱しながらも、我先にと前方へと駆け出した。しかし、一度歩みを止めたことにより狭い街道では渋滞が起こり、後方の部隊は次々と投石の餌食と化していく。
隊列の中央にいた六角義治は予想外の投石攻撃に顔を青白く染めながらも、誰よりも早く馬を駆けさせ、一目散に前方に避難すると、平井定武と護衛兵が義治を追ってきた。義治と定武は立派な鎧兜を身に着けていたため、幸いにして怪我はなかった。
だが、義治の後を追って、投石の嵐から命辛々這う這うの体で逃げ果せた六角兵が続いてくると、彼らに無傷の者など一人もいなかった。打撲程度ならまだマシで、出血や骨折の痛みに呻く者が多くいた。
大将が真っ先に逃げ出した六角軍は、先ほどまでとは雲泥の差と目に見えて分かるほどに士気が下がっていた。だが、定武の命令で再び隊列が整えられると、重い足取りで行軍を再開した。
「止まれぇー!」
だが、六角軍は数分後にまたしても立ち止まった。なぜなら目前にはあるはずのない、満々と水を湛えた大きな湖があったからである。
(ま、まさか、俺は夢か幻でも見ておるのか?)
「右兵衛尉。北側に城壁を築いているとは物見から聞いてはおったが、こんなところに湖があるとは聞いてはおらぬぞ!」
義治は驚きと怒りを隠せない。こんな山中に湖などあろうはずもないからだ。
「はい、四郎様。私も湖があるとは存じませぬ。甲賀の素破は一体何をしておったのだ!」
義治と定武は幻覚ではないかと目を疑うが、目を擦ってみても目の前にあるのは湖以外の何物でもなく、しばし呆然と湖の水面を見つめていた。六角兵も状況を飲み込めずに固まるしかなかった。
「四郎様、湖の岸を進むのは無理にございますれば、山の峰に登るか、引き返して北側の街道から進むかしかございませぬ」
「やはりそうなるか。さて如何したものか……」
これまで通ってきた街道は下り道の途中で湖の中に消えていた。両側の山の斜面は険しく、一目で人や馬が通るのは無理だと分かる。義治が如何するかと思案し始めると間もなく、湖の奥の方から小舟の船団が現れる。
(あれは何だ!)
義治は思わず瞠目した。
全部で20艘余りの小舟には4~5人ずつの兵が乗っていたが、いずれの兵たちも鉄砲や弓を持っていた。やがて小舟が近づいてくると、船団の中央の最も大きい舟に乗る初田秀勝が号令を発した。
「今だ、鉄砲を撃て! 矢を放て!」
敵将が何やら号令を発するのを遠目で確認した義治と定武は、思わず聳動した声を同時に漏らす。
「「ま、まさか!!」」
鉄砲や弓矢の攻撃の矛先は、此方以外にはあり得ない。そして数瞬後にはその悪い予感は的中し、士気が下がって統率を失いかけていた六角兵を銃弾や矢が襲った。
六角兵はつい先ほどまで迫りくる投石攻撃から逃げ惑ったばかりで息をまだ切らしており、迅速な隊列行動を取る余裕などあるはずもなかった。そんな状態で遠距離から鉄砲や弓矢の攻撃を受ければ、格好の餌食となるのは明らかだった。
「くっ、右兵衛尉。退却だ」
「はっ、四郎様。全軍、退却だ! 退却せよー!!」
六角兵は遠距離からの攻撃に為す術もなく、一目散に逃げ出した。船団から銃弾や矢を受けて湖に落ちた兵は、雪解け水の冷たさと甲冑の重さに身動きが取れずに沈んでいき、悽愴な光景を目に映していた。
だが、船団からの攻撃を受けずに運良く逃げ切った六角兵にとって、逃げる道は一つしかない。六角軍はこれまで通ってきた狭い街道を再び通って逃げるしかなく、当然そこには先ほど投石攻撃をした印地隊が隠れており、再び石礫の雨が逃げる六角兵を情け容赦なく襲う。
「うぎゃぁぁー。痛い! 痛い!」
石礫に一網打尽にされた六角兵はバタバタと倒れていき、見る見る間にその数を大幅に減らしていく。
そこへ満を持して現れたのが、木々の影で息を潜めて身を隠していた鉄砲隊だ。中でも彼らは特に優秀な狙撃兵だった。六角兵の雑兵の数が減った絶好のタイミングで堀秀基の号令が響き渡った。
「今だ! 撃てぇーぃ!」
周囲の雑兵が減って狙いやすくなった馬に乗った敵将だけを狙い、狙撃兵たちは街道の左右から一斉に狙撃する。
「「ダダーン、ダダーン、ダダーン……」」
その時であった。平井定武と護衛兵たちに囲まれて馬を駆ける六角義治の鎧の右脇の隙間に銃弾が命中した。
「う、くっ……」
銃弾は急所を外れ、義治は即死は免れたものの、銃弾は右の肺に穴を開け、義治の息が一瞬止まった。間の悪いことにその時、義治の馬の首と尻にも銃弾が襲った。
「ヒ、ヒッ、ヒヒーン!!」
馬とは元来臆病な草食動物である。たとえ鍛えられた軍馬であっても、大きな銃声の嵐を間近で浴びせられた挙句に、銃弾を身体に受ければ痛みで後ろ脚立ちになるのも無理はなかった。
すると当然のように、馬上の義治は銃弾を受けた痛みで手綱から右手が離れてしまい、20kg以上もある重い鎧兜に身を包んだ義治はそのまま背中から落馬してしまう。
「う、うわぁっ!……ぐぁっ」
後頭部から地面に大きな衝撃を受けた義治は打ちどころが悪かった。地面に頭を強く打ち付けた義治は首の骨を折り、即死だった。
平井定武と護衛兵たちは慌てて70mほど先で馬を止めて後ろを振り返るが、義治の身体は動くことはなかった。
「し、四郎様ぁーー!!」
平井定武は大声で呼び掛けるが、義治の身体はピクリとも反応しない。それの意味することは明らかである。
大将、六角右衛門督義治の討死であった。
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