今川氏真の上洛
駿河国・駿府館。
弘治2年(1556年)4月。今川家当主・今川義元の元を山科言継が訪ねていた。
山科言継は朝廷の財政責任者である内蔵頭の地位にあり、逼迫した朝廷の財政立て直しのため、諸大名から献金を獲得すべく全国各地を奔走していた。そして、今川義元の母である寿桂尼が山科言継の義理の叔母であるという縁故を頼り、遠路はるばる駿河を訪問したのだった。
「良かろう。足利将軍家がどうなろうと構わぬが、帝が苦しんでおられるのを黙って見過ごす訳には参らぬ。喜んで献金いたそう」
「さすがは"海道一の弓取り"でおじゃるの。主上も治部大輔殿の尊王の志にお喜びになるでおじゃろう」
今川家は足利家一門の吉良家の分家にあたる名門の守護大名であるが、3年前に分国法の『今川仮名目録』で室町幕府が定めた守護使不入を廃止したことから、室町幕府とは絶縁していた。
そして、2年前の「甲相駿三国同盟」の成立により後顧の憂いを断った後、義元は三河鎮圧に傾注し、近い内に家督を嫡男・今川氏真に譲って駿河と遠江の領地経営を任せ、自らは尾張侵攻に専念しようと目論んでいた。
(彦五郎(氏真)が家督を継ぐ前に、将来治める畿内の地を一度見ておいた方が良かろう)
「彦五郎、朝廷に献金を送るため内蔵頭殿に同行して上洛し、見聞を広めて参れ」
「はい、承知いたしました」
こうして弘治2年の春、山科言継一行の帰途に同行する形で、19歳の今川氏真は今川家の使者として京に派遣されることとなった。
◇◇◇
5月上旬、寺倉郷では不穏な話題に包まれていた。それは4月に隣国・美濃の国主である斎藤道三が、息子である斎藤義龍によって討たれたとの一報が伝えられたためだ。後世には「長良川の戦い」という名で呼ばれているが、義龍は道三の6倍以上の兵で対峙したそうだ。
戦など珍しくもないこの乱世で、なぜここまで寺倉郷で話題になっているのかと言うと、庶民の娯楽が少ないというのもあるが、やはり近江から東山道で繋がる隣国での御家騒動だからだろう。
30歳の斎藤義龍は2年前に家督を継いだが、らい病を患った所為で顔に醜い発疹が広がり、父・道三から耄者(おいぼれもの)と呼ばれて疎まれていた。一説には、義龍が元国主だった土岐頼芸の妾が道三に下賜された時に身籠っていた子だったためとも言われるが、真偽のほどは不明だ。
義龍に代わって、次男・孫四郎と三男・喜平次が道三から「利口者」として寵愛を受けたため、驕った弟たちは義龍を侮るようになり、道三と義龍の不仲は深刻なものとなったようだ。当主の地位を脅かされた義龍には気の毒だったとも言えるが、道三が娘婿の織田信長に美濃を譲り渡そうとしているのを知ったとすれば、もはや父との対決が避けられなくなったのも当然だろう。
いずれにしても道三の死により美濃は、舅・道三の遺言である"国譲り状"を得た織田信長の標的となった訳だが、もし道三が義龍ではなく、もっと早く信長に美濃を譲っていたら、信長は「本能寺の変」で道半ばで倒れることなく日本統一を成し遂げていたかもしれないな。だが、「長良川の戦い」により美濃は信長の天下盗りの大きな障害となる。
一方、六角家は斎藤家とは仲が良くない。六角家と美濃国主だった土岐家は血縁関係にあったのだが、一介の油売りだった松波庄五郎の子・斎藤道三が下剋上により主家の土岐家を乗っ取ったため、六角家は斎藤家を恨まざるを得ないのだ。
俺は外敵の侵攻に備えて今から防衛体制を整えておくべきだと考えた。寺倉郷は美濃との国境にも近い。もし斎藤家に攻め込まれれば寺倉郷はひと溜りもなく滅ぼされた結果、これまでの努力が水の泡となるだろう。それだけは何としても避けなければならない。
ただ、寺倉郷は四方を山森に囲まれており、大軍の侵攻は難しい。南北の街道に強固な砦を築いて守らせれば、攻め込むのは容易ではないはずだ。俺は寺倉郷に直接攻め込まれても自衛できるように、新たに強固な砦を築くことを決めたのだった。
◇◇◇
山城国・京。
5月に上洛した今川氏真は御所での昇殿は叶わなかったが、多額の献金と貢物を献上した功により、正六位下・上総介に叙された。貢物には駿河から良い品々を運んで献上したが、帝の評価は上々だったと後から聞いた。
それから半年近くの間、畿内各地を巡った氏真は、公家や寺社、堺の商人とも幅広く交友して見聞を広めて廻り、いつしか夏も過ぎて9月を迎えていた。
「さて、これで父上から指示された用件はすべて終えたな。では、明日にでも駿府へ帰るとしよう。妻にも早く会いたいしな」
「はい。ですが、彦五郎様。まだ今夜の公家衆との宴が残っております。気を抜いてはなりませぬぞ」
上洛して以来、毎日のように忙しい日々を送っていたのだから、一息吐きたい気持ちは良く分かったが、任務をあらかた終えて安堵する氏真に、側仕えとして上洛に同行した荻清誉(おぎきよたか)が釘を刺した。
今夜の送別の宴も儀礼的とは言え、朝廷は客人をもてなす費用にも事欠くはずだが、高貴な身分を持つ者としての矜持なのか、豪華な宴が用意されていた。もちろん高位の皇族や摂家が来るはずもなかったが、氏真としても大変世話になった山科言継にはきちんと別れの挨拶をしなくてはならなかった。
氏真は公家とのつき合いは苦手だと言っていたが、荻清誉の目にはそんな様子は微塵も感じられず、むしろ公家たちととても良い関係を築いているように見えた。宴の前には蹴鞠まで一緒にやっていた程であり、氏真の本心ではそれほど苦手ではなかったのかもしれない。今も氏真は山科言継と楽しそうに会話をしていた。
「内蔵頭様。私は明日にでも駿河への帰途に出立するつもりなのですが、どこか見ておいた方が良い場所はございますか? 私も将来今川家の棟梁となる身です故、出来るだけ見聞を広めておきたいのです」
「左様でおじゃるか。では、もし行っていないのであれば、近江国の寺倉郷に足を運んでは如何でおじゃるかな? この数年で目覚ましく発展している商人の町だと、京では有名でおじゃるぞ」
山科言継から寺倉郷という地名を聞いて、氏真は首を傾げた。
「寺倉郷ですか? 初耳でございます。では、近江国ならば帰途に寺倉郷を訪ねてみようかと存じます」
この頃、京の公家たちの間では寺倉家の名が話題に登っていた。昨年秋に改元が行われた直後に、改元の費用の足しにと朝廷に献金を行ったり、年末には正月の祝宴にと高級品の干し椎茸を献上したのが原因である。
ただ、いずれも対価として官位を強請ることもない寺倉家の無欲な態度に、清廉潔白な後奈良天皇や公家たちから寺倉家は尊王の鑑だという高い評価を受けていたのを、当の正吉郎は知る由もなかった。
一方、その後、送別の宴は氏真との別れを惜しんだ公家たちによって夜更けまで盛り上がり、約半年に渡る今川氏真の京の滞在は、記憶に残る思い出として幕を閉じたのであった。
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