蒲生定秀の来訪② 真の目的
「それはそうと、下野守様。北近江の浅井家が六角家の支配から脱しようと目論んでいるようにございます故、浅井家に目を向けた方が宜しいかと存じます」
「何、浅井がまたもや反旗を翻すと? それは真か?」
つい先日、木原十蔵から得た浅井家の動向に俺が話を逸らすと、蒲生定秀も浅井家の叛意は初耳だったのか、さすがに驚いた表情を見せた。
「はい。商人から耳にした話によれば、浅井家では今年になって米、革、鉄、矢羽の購入が少しずつ増えているそうにございます」
「なるほど、それは確かに戦の支度だな。すぐには挙兵せぬであろうが、浅井の動きには目を光らせておくべきだな……淀峰丸、良くぞ教えてくれたな。礼を申すぞ」
そう言うと、定秀は口元に笑みを浮かべながら、俺に背中を向けて宴に戻っていった。
定秀が去っていくのを見届けると、不快な汗が堰を切ったように噴き出した。何とか弱味を見せずに凌ぐことができたが、あの威圧感は二度と味わいたくないな。
「……はぁ、疲れた。もう寝よう」
定秀との対面を終えた安堵感からか、強い疲労感に襲われた俺は自分の部屋へと向かった。
◇◇◇
宴が終わり、用意された客室に入った蒲生定秀は「ふぅ」と息を吐きながら、淀峰丸の人となりを分析していた。
「藤五郎。如何思う」
蒲生家家老の青木家の当主にして、定秀の弟である青木梵純に尋ねた。
「……あれは非凡の域を超越しております。あのような童は見たことがありませぬ」
定秀は寺倉家に"神童"がいるとの評判を聞いて、それほど非凡な童ならば、将来は権太郎(蒲生賢秀)の腹心の配下にでもしようかと期待して訪ねた。しかし待っていたのはその期待を遥かに超える童だった。
「三好筑前が家督を継いだ時も同じ歳だった。あれも童ながら傑物だったが、それをゆうに上回るやもしれん。賢いだけでなく、儂の威圧にも屈せぬ胆力もある。11歳とは思えぬ、とんでもない童だ。どうだ、権太郎はあれを扱えると思うか?」
「……贔屓目に見ても無理でしょうな」
「はっはっは。そうであろうな。末恐ろしいが、愉快でもある」
嫡男が下だと認めたも同然だというのに、定秀からは愉快そうな笑いが溢れるばかりだった。
「とてもではないが、平凡な権太郎の配下に大人しく収まるような器ではないわ。逆に権太郎が寺倉家の門前に轡を繋ぐことになりかねん。儂の目に狂いがなければ、将来は鳳凰の如く天下を統べる英傑となる器だ。"神童"どころか、正に鳳雛であろう」
「兄上、如何なされるおつもりですか?」
「ふっ、何も芽を刈り取る事もない。六角も安泰とは言えん。奴自身、今は雌伏の時と自覚し、蒲生家と敵対する意志はないようだ。第一、儂はあの真っ直ぐな目が気に入った。あの童がどのような男に成長し、何を成し遂げるのか、行く末を見届けてみたい。無理に排除する旨味もなかろう」
「そうなると、気掛かりなのは左京大夫(義賢)様ですな」
「ああ。商人には"神童"のことは六角家には決して伝えないよう命じ、左京大夫が寺倉家に手を出さないよう見張らねばならぬだろう」
定秀はその器の大きさから淀峰丸の将来に強い関心を抱き、六角家から横槍が入るのを防ごうと画策していた。二人の話は夜更けまで続いた。
◇◇◇
明くる朝、俺は父や家臣たちと一緒に、蒲生定秀が自領に出立するのを見送った。
その後、屋敷に戻るとすぐ臨時の評定が開かれた。主家である蒲生家当主から直々に注意を受けた以上、このまま移民の受入を続ける訳にも行かず、今後の対応について早急に話し合う必要があったからだ。
「さて、皆に集まってもらったのは他でもない。昨日、下野守様が苦言を申された移民の受入についてだが」
だが、家臣たちは誰もが伏し目がちにして押し黙っているのを見て、俺は痺れを切らして口を開いた。
「父上。私から申し上げたいことがあります」
「淀峰丸か、構わぬ。申してみよ」
「実は、宴のあった昨晩、私は下野守様と二人で話をしました」
「それは真か?」
「はい。下野守様は寺倉郷と私を見に来たと仰っていました」
定秀は俺を見に来たと言った。ならば、俺と話をするのが目的の一つだったに違いない。
「お前の存在がもう露見したというのか?」
「おそらくは商人から私の噂が下野守様の耳に入ったのでしょう」
「11歳の童が領地を発展させたなど、下野守様が信じるとは思うてはおらなんだが、他家からの移民を危惧したのは口実で、真の目的はお前であったか……」
評定の間は、シーンと静まり返り、沈黙が訪れた。
「ですが、私は武家の嫡男として、下野守様がたとえ家臣とは言え、父上を抑圧するような振舞いが承服できず、僭越ではありましたが、『他家と不要な諍いを起こすつもりはありませぬが、他家の嫉妬や妨害を恐れて、領地の発展を諦めるつもりもありませぬ』とお伝えしました」
あの言葉には、無理に抑圧すれば軋轢を生むことも厭わないという意味を含んでいた。もちろん謀反を起こせば、寺倉家が滅亡してしまうため単なるブラフだ。蒲生定秀もそれくらいは分かっていたはずだ。
「何?!寺倉家にとって蒲生家は主家であり、軽々しく逆ろうてはならぬのだぞ! 左様な反抗的な物言いをすれば御家を危険に晒しかねぬことくらい、聡明なお前ならば儂が言わずとも分からぬはずはあるまい? 淀峰丸、何故か申してみよ!」
父が珍しく声を荒げて俺を問い質した。周りの家臣たちも突然の成り行きに驚いたように、黙って見ている。
「父上、もちろん分かっております。私は寺倉郷をさらに栄えさせたい、いや、寺倉郷を治める我らにはその義務があるのです。ならば、主家の命令で寺倉郷の発展を簡単に諦める訳には参りませぬ。……そして、父上。下野守様は私の言い分をお認めくださり、自由にやるが良いと仰ってくださいました」
安易に権力に屈することによる不自由さは、領地の発展を自ら著しく阻害してしまう。俺の主張に耳を貸してもらえるよう、俺は父を諭すように努めて静かな口調で理路整然と返答した。
俺の言葉を聞いた父上は「ふぅ」と一度大きく息を吐くと、やがて普段の穏やかさを取り戻した。
「……そうか。下野守様がお前の言い分をお認めくださったのならば、儂はこれ以上何も申さぬ。だが正直に申すが、儂にはお前の考えていることが時々理解できないことがある。3年前と比べれば、既に寺倉郷は大きく発展し、領民たちの暮らしも豊かになっておる。はたして主家に逆らうような真似をしてまで、今以上に寺倉郷を発展させねばならぬのか?」
そう言う父の顔には不安感が見て取れ、親にそんな顔をさせる俺は親不孝者だなと罪悪感を覚えながらも、毅然とした口調で逆に質問で返した。
「父上、六角家が、蒲生家がいつまでも安泰だと、本気で思っておられますか?」
「……少なくとも10年は安泰であろう」
「私は10年も経たずに六角は失墜、もしくは滅んでもおかしくないと考えております」
広間が騒ついた。当然であろう。六角家は畿内における一大勢力だ。100万石ゆうに超える勢威を誇る六角家を打ち倒せる者などそうそういない。俺は続ける。
「故に万一に備えて、己の領地を守れるだけの力が必要だと考えております。自衛できる力を得るためには、領地を富ませて人と金を増やし、戦力を整えるしかありませぬ。そのために私はこれまで寺倉郷の発展に努めて参りました」
これまで洗濯板から始まり、千歯扱き、唐箕、椎茸、灰吹法、石鹸、塩水選、正条植えと続けてきた内政改革の本当の目的を、俺は初めて父や家臣たちに打ち明けた。
「……そうであったか。儂は寺倉郷を発展させ、領民の暮らしを豊かにするのが目的だと思っておったが、そうではなかったのか?」
「父上の仰ったことは、あくまで本当の目的を達成するための手段でしかありません。無論、領民の生活を豊かにしたいという思いは偽りでは決してありませぬ。しかし、その根幹には寺倉郷を自衛できる戦力を整えることがあるのです」
父は俺の言葉に「うぅむ」と唸りながら頭を掻き、家臣たちも黙り込むばかりであった。
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